プロフィール

進藤冬華(しんどう・ふゆか)
札幌を拠点に活動するアーティスト。地域の歴史や文化に関わるリサーチを通じて作品を制作し、地域の抱える問題や、見えない過去の歴史、文化などとの対峙を試みている。 リサーチの方法で、ある場所に滞在したり、史跡を訪れるなど、自身が移動し、地域を歩き回ったりすることが多いことから、近年はツアーやピクニックなどを企画し、参加者と地域をめぐるような活動を行ったり、自身が街に出て地域の人々に何かを仕掛けるようなパフォーマンス作品を展開している。

参加した主な展覧会やアートプロジェクトとして、
「鮭のうろこを取りながら」(2015年、北海道立北方民族博物館)
「対馬アートファンタジア2016」
「Parallex Trading」(2019年、das weisse haus、ウィーン)
「移住の子」(2019年、モエレ沼公園)
「Month of Art Practice」(2019年、 Heritage Place, ハノイ)
「たよりをつむぐ」(2020年、茨城県常陸太田市)など。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

河原功也 Koya Kawahara_キュレーター




1.

冬木(以下、F)最初に知り合ったのはNYで、進藤さんがアジアン・カルチュアル・カウンシル※1のプログラムで来られてて、僕は吉野石膏美術財団※2から助成金を貰って行ってた時で。でも改めてこんな感じでアーティストの始まりとかを聞いたことは、今までなかったですよね?

進藤(以下、S)簡単に言うと、本当に受験だから、みたいな感じ(笑)。

F 大学受験ですか?

S うん。進路を決めるでしょ、その時に美術って決めた人だから。でも絵を描くのは嫌いだったし、図工とかも全くダメだったし。だけど、高校生からしたら図書室で見た現代美術の本から、美術ってすごく変に見えて。だから、そういうので決めたんです。私、高校までって何やっていたか何考えていたかあまり覚えてないんですよ。基準もないことだから誰かと比べられないし、何がどうだったとかわからないんですけど…。河原君は高校生の時、何してました?

河原(以下、K)僕は小・中・高とずっとサッカーしてました。ただボール蹴ってるだけでしたけど。僕も芸術を選んだ理由は進藤さんと近くて、図書館で現代美術の本を見つけたのがきっかけです。小山登美夫さん※3の本だったんですけど、「なんだこれ?」ってパラパラと見てて、こんな世界があるのかと思ったっていうのが始まりですね。で、自分は描いたり出来なかったんですけど、その本の中に“ギャラリー”っていうキーワードがあったんで、そういったマネージメントする側について調べてたら、もうなくなっちゃんたんですけど、京都造形大にARTZONE※4っていう学生がギャラリーを回してる施設があったんですよ。そこがおもしろそうだなって。実践的に出来た方が自分には良いかな、と思って受けました。

F それで卒業してから3331※5に?

K はい、11月で退社するのですが。今は、有給消化中です(笑)。

S そうなんですね。ええと、話を大学の頃に戻すとしんどかったです。大学の頃は作らなきゃいけないのに、作るのが得意じゃないから。私が行ったのは美大じゃなくて、北海道教育大学の美術コースっていう、教育関係の授業を取らなくてもいいコースがあるんです。大学院は北アイルランドにある総合大学の中のアートカレッジに行ってました。でも、全然あの…真面目にやってなかったね。私は本当に楽しく遊んでしまいました(笑)。当時の作品の記録がないもん。でも改めて思い出してみると、学部を卒業して札幌の中にあるアーティストが運営してるオルタナティブスペースに入って、そういった運営を手伝ったりとかしてる時に、ちょっとプロジェクトっぽいことをやったりはしていました。でもね、みんな絵を描いたり物を作ってる時に、プロジェクトのような作品をやってても誰も何も言わないんだ。

K それは反応がないってことですか?

S ないんです。そうすると、やっぱり私はそれをやめるっていうか。当時の私はいつも反応がない事に悩んでた気がします。

F 絵を描いてる人がいる横で、進藤さんはプロジェクトというか…

S 凧揚げしたりしてました(笑)。でも、あんまり仲間みたいな人はいなかったかな。いたのかもしれないけど、あんまり覚えてなくて。それで、私すごく根性がないので諦めちゃうんですよ、頑張りがきかない。だから今考えるともったいなかったと思う。ずっとそれを続けてたら、もうちょっと違ったと思います(笑)。大学が終わってから一回札幌の外に出て、大学院修了後4年間ぐらい美術関連の企画の仕事をやってたので、制作に気合いが入ってない時期もあったんです。アーティストが運営するギャラリーで運営に関係したことをやったりとか、その後もレジデンス・プログラムの事務局にいたりとかして。でもその仕事をしてると、あまり精神が綺麗でなくなっていく感じがあって、私には合ってなかった。結局それを辞めて、そこからやっと制作に集中するようになったんだと思います。だから、大学院修了したのが2006年くらいだったのに、初めて個展をやったのも2011年で。ちょっと時間が経ってるのね、制作しようって思うまで。でも、ひとつ覚えてるプロジェクトは、ジャンクディラーっていうか、廃品回収みたいにゴミとかを集めて売る人が、昔は馬車で来てたんだって。で、馬とカートを用意してそれをやるっていう。※6

K 日本でですか?

S 北アイルランドで。私はプロジェクトを計画する側だったので、お金を集めたりとか色々やって。現地で私のいたスタジオのボスをフィーチャーしてやったんですけど、彼自身は内装やテーブルだったり装飾を作ったりしてる人で。馬車を作るもとの材料も、とりあえず2人で車で走ってて、農家にあったカートを見つけて、「そのボロボロのやつを売ってくれ」って引き取って持って帰るっていう。で、動かなかったんだけど、それをちゃんと直したりして。馬は誰かに借りてくるんだけど、カートや他のものは全部直して作りました。なんか、スタジオではみんなバラバラなんだけどそれぞれの職能はあるので、サバイバル能力はめちゃめちゃ高いところでした。本当に車とかもスクラップヤードから持ってきて、自分で直して車検通して乗るみたいなところ。日本だとすぐに新しいものを買うけど、そこの人たちは古くなったものを上手く再利用してた。そんな感じのところにいた経験から、地元の人と交流し、彼らと生活する中ですごく文化的なものや伝統って本当はいっぱいあるんだなと思ったんです。アイリッシュ音楽とか食べ物もそうだし。そういう場所なので、自分の背景が自然と気になってきて。ご飯も一緒に食べるし休みも一緒に過ごしたりするけど、持ってるバックグラウンドは違うから、普段の生活はみんなとシェアできてるのに、背景は全然共有してないっていう状況が生まれる。

「RAG & BONE PROJECT」2007年、Catalyst Arts、ベルファスト」

F それは進藤さんと現地の周りの人たちのあいだで?

S そう。当たり前なんですけど、見てるテレビも違うし、みんなが知ってる音楽も私だけ知らないとか。そうなると、普通に「じゃあ自分の背景って何だ?」ってなりますよね。そこから歴史とか文化的なものに対する関心が生まれて、帰国したらそういうことをやろうって思ってた部分はあります。それでさっき言ったように、帰国して何年かは働いてたんですけど、その時にはもうサハリン※7とかに調査に行くことは始めてました。北海道って、文化圏的なものは北に繋がっているものがあるんじゃないかと思っていて。国境で分けられるものじゃなくて、違う繋がりがあるのかなと思ったんです。まだ実制作はあまりしてなかったんですけど、そこから割と色んな地域に行き始めて。

F じゃあ、おじいちゃんおばあちゃんも北海道の人で。

S そうです、北海道の人は明治期以降に入植した移住者が多いのですが、うちの父方の祖父母もサハリンに住んでました。で、やっぱり第二次大戦後北海道に引き上げてきてる。北海道ってそういう人がすごく多いんですけど、私も自分の祖父母がそうだったっていう話は全然知らなくて。本当に祖母が亡くなる間際にそういうことを意識するようになったんです。だから、サハリンに行くと本当に日本領時代のものがまだ全然あったりする。サハリンには少数民族の人もいる多民族の場所なんです。少数民族の人もいるし、あと朝鮮系の人も多いんです。それは日本領時代に移住して、日本人は帰ったけど、彼らは残ったりしている歴史がある。あと、北朝鮮ともまだ繋がりがある人たちもいます。一度、韓国から学術系のリサーチに来てた人と一緒になったんですけど、博物館とかにハングルのいろんなものとか掛け軸とかもあって、その人が言うには「多分それは北朝鮮から来てる」って。そんなこんなで、サハリンに行った時は少数民族の人たちのところに行って、手仕事を習ったりとか、そういうことをやってたりしてました。

F 2017年にNYでリサーチしていたことも、その流れですよね? 歴史とか、自分の手前の文化を調べたりするうちに、そういった流れで…

S 主には北海道開拓の話だったんです。明治の日本では、北海道開拓のために、技術が進んでいたアメリカ人の技術者とかアドバイザーを招聘していたので、その人について私は調べていて、それでアメリカに行ったんです。流れとしてはそうなんですけど、その時は興味を持ってる分野がサハリンに行っていた時よりもう少し近代よりになってましたね。以前は、博物館の昔の道具とかだったり、興味の分野も少し違いました。

「記録ー人物像」2016年、240×179mm 湿板写真

F 歴史を追っていくうちに、近代のことに興味の対象が変わっていった感じですか?

S 徐々にズレていったと思います。北海道のことを作品にしようと思ったら、アイヌの話やもっとそれ以前の話もありますが、明治以降の北海道開拓時代は歴史の大きな変換点なので、そこについてはいつか作品にしようと考えていました。それまでは、海を越えて近隣のサハリンや青森との関係を見る中で、北海道という地域がどんな場所なのか知ろうと思っていたけど、明治期に西欧からの影響が入ってきて、近隣の影響だけではないものが、北海道の背景に入ってくることを考えると、いつかアメリカに行ってみたかった。それに、やっぱりちょっと難しいなって思ったのは、例えばアイヌの人についても今よく言われてる文化の盗用※8があるから、その点で難しさも感じましたし。あと、2015年に北方民族博物館※9っていうところで展示をしたんですけど、それが2008年ぐらいからサハリンに行ったり、ずっと見ていたりしたことの、ひとつのまとまった作品展示になったんだと思います。だから、そこで一旦区切ったのかな…でも自分自身が難しさを感じてたなと思います。今だったら美術に対する理解とか、ちがう分野での交流は生まれてきているかもしれないけど、その当時にアーティストとして一人でそういうアカデミックな対象に入ってくのは、疑いの目を向けられるというか、怪しまれる。やっぱり学術とは全然違う方法で歴史であったり、そういった研究対象でもあるものを扱っていくから。他にも例えば、アートプロジェクトに参加していて「プロジェクトをされているアーティストさんですよ」って大学の人に紹介されるのと、全然何の後ろ盾もなく入っていくのでは違いますよね。だから、最初は大変だったなと思います。

F 河原君もプロジェクトとかに興味があるって言ってなかった? 何かを複数人でやる状況とか、コレクティブ自体の仕組みについてだっけ?

K そうですね、気になっています。今回3331を退社したのも、10月と11月にインドネシアに滞在する予定だったんですけど、それがコロナもあって難しくなってしまって。今回は、冬木さんに連絡をもらって面白そうだったので、お邪魔しにきた感じです。

S じゃあ本当はそのインドネシアのコレクティブを見に行くというか、調査しに行くはずだったんですか?

K はい、調査というよりはもう少し緩いものなんですけどね。それに派生して、コレクティブ的な組織は日本にもいっぱいあるので、それらについても話を聞いたりとか会いに行ってみるのも面白そうだなと思っていて。なんというか、東南アジアのコレクティブは生きていくために集団になる必要があって、コレクティブ自体をやっているっていう感触があって。で、それと比較した時に日本ではどうなんだろうとか、或いはそれぞれのチームを組む理由とか、まあいろんな側面があると思うんですけど、そういう生の声を聞いたりとか現場を見てみたいってのはありますね。

F 進藤さんもコレクティブっていうと少し違うけど、共同スタジオで制作されてましたよね?

S うん、今もスタジオにいます。札幌のなえぼのアートスタジオ※10ってところに居てるんですけど、そこでも始めにコレクティブにするかどうかっていう議論はちょっとあって。

F 違いはどういう…?

K そこは気になりますね。そもそもの「コレクティブって?」ってところですよね。

S 意識としては、私たちのところはもっと個々のスタジオの仕事を優先する。最初に話し合って、グループとしての何かを優先するんじゃなくて、まず個々のアーティスト活動があり、そのためのスタジオであることを優先するっていう考え方にしたはずです。なので、コレクティブって私のイメージではもっと一緒に何かをやってる感じがあります。一人一人の単独のものではなく、組織として何かプロジェクトをやったりするっていう。もちろん私のスタジオでもオープンスタジオとかはあるんだけど、そこまでそんなにメンバーで一緒にやってないかなあ…。何かプログラムをやりたい場合は、大体が最初に言い出した人が中心になってやる感じです。けど、みんな忙しいからそこまでやっぱり頻繁に色々できない。

「なえぼのアートスタジオ」

2.

S 私が展示とかで一緒になる機会が多いのは、冬木君くらいの年齢から少し上の人が多いんです。自分と同じ年齢くらいの人はキャリアがいき過ぎてて、一緒になることがない。だって年齢的には田中功起さん※11とか藤井 光さん※12とか、あの世代だから。でも私は2011年に始めて、キャリアのスタートが遅かった。一緒になるアーティストの感じとかは、多分そこと関係あるんだろうなと思ってて。

K 始めた年が。

S うん、何かあるんだろうなって気がします。

F ありますよね。僕は遅い組というか、単純に割と時間がかかったタイプなんで(笑)。

S まあ大変だよね、そういうのって。一旦きっかけが得れるまではね。

F それこそ進藤さんとオンゴーイング※13の繋がりで言えば、山下拓也君※14とかが僕と同世代ですね。確かひとつ下かな?彼はもっと早くから出てたと思いますけど。あとは地主麻衣子ちゃん※15も同い年なんですよね。

S 地主さんも同い年なんだ。やっぱり私はあのへんと一緒になってる率が高いなあ。例えば地主さんはいつも展覧会で一緒になるなっていう時が一時期あった(笑)。そこの世代って何かありますよね。私の世代とはもう意識や感覚がちょっと違う。それに、いま活発に活動してる人が多い印象がある。会わないだけかもしれないけど、逆に私とそこのあいだの人ってあんまり思いつかない。そういう世代に関係したことについては前から気になってるんだけど、誰も何も言ってないのかな?

F 僕が学生だった時の周りの印象でいうと、名和晃平※16さんや鬼頭健吾※17さん、あと小谷元彦※18さんとかが教員からもう少し上の准教授くらいになられてて。あの時いわゆるアートバブルで、その流れに乗ってる人たちが結構早くに先生になってたんです。だから、ちょうどコマーシャルギャラリーですごく取り上げられてるような人たちが先生で、その影響を受けてたのが僕の上ぐらいの人たちでしたね。

S なるほどね。じゃあそこを見て育っているその少し上の世代は、冬木くんとは意識が違うんだ?

F 個人的にはちょっと違いますね。まあ、同級生にも影響を受けてる人は沢山いますけど。河原君から見たらどう?

K その上の人たちと違うなっていう点では、冬木さん世代の人たちは僕たちとも結構一緒にやってる印象があります。下の世代とも何か作ってくれてる感覚はありますね。

S うん、ちょっと意識は違いそう。あとね、ジェンダー的な感覚もすごく違うと思う。やっぱり冬木くんたちの世代から、女性のアーティストがすごく増えるでしょ?

F そうですね、言われてみたらそうかもしれない。

S 私の周りで女性のアーティストで活動してる人ってあまりいないんですよ。それで、私と同じ世代の男の人っていうと、なんというか少し考え方に昭和感があったりする人もいるし。でも、もう冬木くんたちの世代になると、ジェンダーに対しても意識が違うと思います。そういうことに関しても、私とは色々違う世代なんだろうなって。どうしてなんだろうね。

F 何かあるんでしょうね。

S でも多分アートバブルの後の世代っていうことは、なにか関係ありそうですよね。おそらく、当時みんなっていうか多くはそっちに行ったんだよね…でも、アートバブルが終わったことは関係しているとして、その後の世代の人たちが作品を売ることが最優先じゃない方向に行ったのは、やっぱりそうじゃないって思ったからなのかな。どう思ってそっちに行ったんだろう。冬木くんは売る方向を目指したことあるの?

F いい作品を作ってたらなんとかなるだろうっていう感じで、楽観的でした(笑)。でも、そもそも美術をやろうと思って大学に入ってなかったんですよ。もう少し時間が経って、「何かやるのなら、やっぱり美術かなあ…」という考えになっていったんで。

S でも、多分私ぐらいの年齢の人たちは選択肢のオプションがあまりなかったんでしょうね。目指すところの最終形は1つしかないっていうか、ピラミッドのトップがどこであるかがはっきりしてるんだろうね、本当はオプションだらけなのに。もうちょっと冬木君や河原君の世代になってくると、必ずしもそうじゃなくてもいいっていうか、そこがちょっと崩れてくる。例えばわかりやすく言うと、西洋的な美術が一番いいってことも、はっきり言って今はもう崩れてるじゃない?でも、それを信じている一定の世代から上の人たちはそういった教育を受けてきたし、みんながそれを目指してたから、そういう思考になりますよね…。確かにそれは私の中にもある気がするな。私の世代や少し下ぐらいまではそういう思考が強そうだなって感じはします。特に地方の場合はそれが強い気がする、若い世代はわからないけど。

K 実感としてあるんですね。

S ただ、私自身はこの1年くらいって、もう作品がものを作らない方向になっていってるんです。そうすると例えばギャラリーとかそういう場所に絡んでいけない訳なんです。そうすると、ちょっと考え方って変わっていく。箱の中でやる展示に何を出せばいいかわかんなかったりもして。例えば、ツアー形式で作品をつくると、ツアーをやっている時がライブみたいに一番ピークがあって。で、それを別のところで同じものを見せる場合に、単純に記録を見せることには違和感を感じていて。要するにライブでお客さんが感じるものと、その後に、例えば展覧会でお客さんが感じるものを同じにするのはすごく難しくて、だから箱での展示はツアーとは別の体験とか何かが見えるようにしています。ツアーっていう色々なものを見ながら歩いたりする、この行為ってことは核にあるんだけど、観客が作品に出会う状況によって、変わる必要があるんですが、そこがどう展開できるかに今すごく興味あるんですけど。

F ツアーの形式ですか?

S 2019年にベトナムで、家からお墓まで行くピクニック※19っていうのをやったんです。大きくは3つのパートに分かれていて、ひとつはまず企画するところ。で、企画ってすごくいいのは実際にやらなくてよくって、妄想だけで行ける(笑)。こうなってここに行くっていうのを、自分の思っている通りにロマンチックに行ける。まずそれは作品の中の見せ方の1つ目だなと思っていて。で、次に実際に行く。行くのはもちろんリアルだから、そのための準備や計画をちゃんと練らなきゃいけないところもあったりする。私はやる立場ですから、自分が楽しむというのもあるんだけれど、すごく気を使わなきゃいけないところもあったりして。リアルタイムにその場をつくるために私は動いているっていうか、ピクニックを妄想していた時とはまた何か違う感覚ががあるわけです。その中で企画書を町の人が読めるように、私は行く道々に貼っていってたんですけど、その街の壁に貼ってる状態を写真に撮ってポスターにしたものと、フェイスブックにもその企画書を載せていたものがあって、最後にギャラリーで展示する時は、結局その2つのビジュアルをギャラリーに貼るっていう発表の仕方をやったんです。何をやったのか自分でも完璧には理解していないんですけど、それについてはギャラリー用の展示を自分なりに考えたわけです。でも、展示においてはそういう行為ってすごく難しくないですか?作品としてのものがないことや、ライブみたいなものを別の場所でどうやって展開するか、その時の参加者以外の人と何か共有したりとかを、こちらが言いたいことも含めてプレゼンしていくかっていうのはなかなかすごく複雑で…。おんなじことでもなくて、何回もできない。例えば、もしこの場でさっきのピクニックの話をするんだったらどうやるか、レクチャーパフォーマンスになるのかどうかとかはわからないですけど、そこをどうしたらいいんだろうって今すごく思ってるんですよね。今回のプロジェクト※20もターゲットは街の人ですけど、それを例えばプロジェクトの後、別の場所で展示にするとかに持っていく時にどうやるのっていうこととか、不思議なんですよね。みんなどうしてるんだろう?冬木君とかは?

F 僕は結構分けてますね。

S ギャラリーでやる時はそれはそれで、それ以外の場合はそっちでって?

「理想のピクニック」2019年、Month of Arts Practice、 写真:Thu Cam」

F 組み込める場合は組み込むし、組み込めないものは、もう組み込まないです。ただ、そうですね…。美術館とかギャラリーに比べて、それ以外の公共の場所の方がダイレクトなアプローチはできるんですけど、場所に関する自分の興味はもうちょっと漠然としています。そもそも作品っていうものってパッケージされているじゃないですか、例えばある任意の場所に固定されてる。で、認識としても言葉で包括できたり、こういうものですって説明できたり、ここからここまでってまとめられるというか。でも、作品をパッケージする時間軸を伸ばせばもう少し変化してくるというか、他の要素が入ってくる気がするんですよね。2017年に大阪の江之子島文化芸術創造センター※21っていうところで展示があったんですけど、その時に作ったのが大きいオレンジを潰す装置みたいな作品で※22。そこで働いてる人が仕事の中でイライラしたりネガティブな感情になった時に、それを使ってオレンジを潰して、潰した瞬間にいいオレンジの匂いがして。部屋全体にオレンジ臭がするんですけど、でもその発端はイライラだったりネガティブだったりで、「これは何色の感情なんやろう?」って思って。絞ったオレンジはジュースとして飲んでもらって、あとには潰れたオレンジしか残ってないんですけど、それをセンターの中にいくつも展示台みたいな箱を用意して、そこに返してもらう。展示室で完結しなくって、その手前にどこからか来る人とか、どこかにいってしまう匂いとか、場面も構成要素もどんどん変わっていくものな気がするんです。それこそ20代の頃はそういう志向はもっと漠然としてたんですけど、やっとその江之子島で作ったものが、そういう線的な伸ばし方をしていくことの試みとして、「やっと初めてちょっと噛み合ったぞ」みたいな。初めてギアがハマったって感覚が、その32歳の時に作った作品で。でもそれも、思いついた瞬間は自分の作品のことを全部が全部わかっているわけではなくて、やっぱりちょっとずつわかっていってて…。

S 今は前よりしっくりきてるの?

F はい、段々少しずつしっくりきてますね。

S じゃあ過去に別のやり方をやっていてしっくりきてたことはあるの?

F あります。

S そうなんだ。じゃあそれはもう飽和したっていう感覚だったり、それとも全く別の埋められないものだったりしたっていうこと?

F 一番最初に作っていた幾つかの作品が、自分でもよくわからないけどいいなっていう状態だったのが、やっと自分で何をやっていたかが解ってきた、という感覚です。それこそ大学の一、二回生の時に作ってた作品ですね。後付けなのかもしれないですけど、自分ではそういうことだったのかと割と腑に落ちることがあって。すごい紆余曲折しながら…。

S だんだんわかってきてるってことか。冬木君はやっぱり作品って自分のために作ってるんですか?

F そもそも自分っていうものがそんなにないと思っていて。たまたま1984年生まれの、日本っていう国の大阪っていう割と大きめの都市で育った、そんなに背も高くもなく目立ったものもなくて、だから共通点がいろんな人にあるであろう人間が考えて作ったもの、みたいな感じです(笑)。自分が特別だとか才能があるとは全く思わないですし。

S 自分が例の一人みたいになってるのね。でもそれはすごくわかります。私もそういう感じはある。私自身がそういうことを思うようになったのはすごい最近かもしれないんだけど、作品って誰のために作ってるかとか何に向けて作ってるとかはありますよね。

F あ、ちなみに進藤さんって辞めたくなったことってありますか?

S 本気で辞めるみたいなのはないですね。

F でも、ちょっと辞めたいって言いたくなるようなローな時とかあるじゃないですか。

S あるある、もう死にたいって思ったりします。すっごい泣いたりする(笑)。

F 誰のために作ってるかって言うなら、そういう時に意外と考えるのが、多分もう二十歳ぐらいの男の子で僕みたいなヤツはどっかにいるんですよ。なんとなく今の美術の状況に腹立っていたり、どこか自分のことを賢いと思っている、なんか鼻っ柱の強い奴がいるんです。で、その自分みたいなヤツに、僕がやっていることや今の日本の美術がクソばっかりだと思われたくないっていうのが、実は結構あるんです(笑)。それこそ、誰のために作ってるとかは特にないんですけど、でも美術を続けたいっていう衝動のひとつになぜかそれはあるんですよね。

S なんだろうそれ…。でも、要するに自分の若い頃に対してだよね。

F 多分そうだと思います…。何なんでしょうね(笑)。

S でも、私はわからないな。自分の20歳ぐらいの時に対して作品を作ってるかっていうと作ってないな。だって私はホントひどかったからね。本当にしょうもない若者だったと思います(笑)。でもそう思うと、冬木君は頑張ってたんじゃない?うまくいかないと思いつつ、割とがむしゃらなところがあったんじゃないかな。

F そうですね…。でも学生時代は頑張ってたって意識もなく、本当に楽しくてしかたなくて。中学や高校の時にいじめたとかいじめられたみたいなことは全くないですけど、それまでは全然つまらなくて。

S わかる!私の高校の記憶がないってそういうことだと思います。でも、それって自分自身も楽しむ方法がわかってなかったんですよね。

F そうですね。だから、みんなと一緒の中で選ぶしかなくって、サッカーやってとか、彼女といたりしかなくって。限られた中でしか知らなかったんだと思います。だから大学に入って本当に楽しくなりましたよね。

S 世界が狭いのは当たり前ですよね、それしか知らないから。私も制作はしなかったけれど、すごい楽しかったです。あの大学の時代で人生の大事な遊ぶ部分はかなり全うしたと思います。

F なんか友達の幅というか、感じも全然違って。

S 話が合うんだよね。息ができる感覚がありましたよね。

3.

S でも、やっぱりやりたいかどうかって重要ですよね。自分が本当にやりたいことかどうか、自分の行きたい方向に行ってるかみたいなことって。

F そうですね…多分自分はどこに行っても作れたり、ある程度フレキシブルにできる方ですけど…なんかそれでもやっちゃいけない部分があるなっていうのはすごく思いますね。

S 確かにそれはわかります。私も今回のこういう地域に来るプログラムって本当に全然知らなくて。自分に何も接点もない場所に来るからすごく難しいと思ってたんですけど、実際に来てみてそれなりにはできるんだなっていうのは思いました。

F 進藤さんはいつもちゃんとやられてる印象はありますよ。今回のプロジェクトも進藤さんの目線だなってすごく感じましたし、ちゃんと地に足が着いてる。結構最初から進藤さんにはその印象があって、確か2度目にお会いしたのがISCP※23のオープンスタジオの時で。

K ISCP?

S ISCPってNYの長い歴史があるレジデンスで、世界中からアーティストが来るようなところで。だから、色んな人がいておもしろかったですよ。

F そこでオープンスタジオがあって、割と気合い入れて4Kの映像作品をプロジェクションしてる人とか、結構しっかりと平面や彫刻を展示してる人ばっかりなんだけど、なんか進藤さん一人が画用紙を切っただけみたいな(笑)。

S 壁一面、切り絵みたいなやつね(笑)。そのとき私は、オープンスタジオって完成品を見せるだけの場じゃないと思ってて、多分勘違いしてたんだと思う。だからリサーチの途中のものを見せてたんだけど。

F それが逆に異質ですごく良かったんですよね。本当に1人だけ違ってた。それで、あの展示を見た向こうのギャラリーの人に声かけられても、進藤さんは「やらない」って言ってて。それも進藤さんの判断基準があるんだなと思って聞いてました。その違うっていう判断は、実際のギャラリーの人と話してっていうのも勿論あると思うんですけど。

S あの時はギャラリーのサイトとかも見たりして、でも多分違うのかなあと思ってしなかったんですが、思い返すとギャラリーとの関係は継続の可能性があると思うと慎重になっていたと思います。でもプロジェクトとか展示は、その時限りで関係がリセットされるから引き受けやすいというか…。でも、難しくないですか?誰かが一緒に仕事しましょうって言ってくれた時に、ほとんどの場合は受けますよね。受けないっていう選択肢はほぼないですよね…。でも、今もプロジェクトをやってて大事だと思うのは、やっぱりその人と一緒に仕事をして、そのプロジェクト自体がすごく良くなるってことじゃない?最近は相手が本気を出してくれない時は、なんとか出させるように仕掛けることも少しはできるようになってきたから。それでよくなるんだったらやるべきだし、受けたら本気でやりましょうっていう感じでやろうとは思っています。言わなくて後悔したこともいっぱいあるから、率直に話せなくて後から問題になることには、なるべくならないようにはしています。色々なプロジェクトや滞在制作も経験して、前よりは慣れてきたかなあと思います。

F そのプロジェクトの中にとりあえずちゃんと話を聞いてくれたり、まだ全力ではないにしても、こっちの言うことを理解しようとしてくれる人がまず1人いてくれたら、なんとかなる気はしますよね。

S なりますね。例えば企画側とか役所の人にそういう誰かがいれば、確かになんとかやり抜ける気がします。あと逆に面白いのは、役所や外部の人がはじめは冷ややかな感じなのに、話す中で向こうが開いていくようになったりすると、結構面白いことになる場合もすごくある。いいチームになる時は、逆にあまりアートを知らない人の方が、好奇心で楽しんでやってくれることとかがありますよね。なんかきっと美術の方でずっと仕事してる人とかは、アーティストがやろうとすることを評価するんでしょうね。ジャッジメントしながら仕事するからそういう風になるんだと思います。それはそれで別の挑戦のしがいもあるから、いいと私は思いますけど、でもやっぱり人は大事ですよね。思い返すとダメな時あったなあ…。あと自分がダメだったとかもあったな、全然本気になれない時とかね(笑)。

F でも、どう考えても本気を出せない場合もありませんか?それこそレジデンスみたいに制作期間のタイムリミットがある時とか。

S 冬木君は発表するときに途中な感じはないんですか?いつもやりきった感じはあるの?

F その中でもなんとか最適解は出したいなっていうのはあります。期間が1ヶ月だったら、ほぼ1ヶ月かかるような無理なことはさすがに考えないですけど。そういう意味では、僕も進藤さんも「1週間後に何かして」って言われてもできるタイプだとは思います。とりあえず何かは出せるから。でもその、そこそこの答えも出なかったみたいな(笑)。

S 本当にダメな時?(笑)。

F はい、そのとりあえずの回答にも全く納得できなかった時はないですか?。

S 私の場合は、自分の中で大事なポイントにちゃんとフォーカスが当てれていない時だと思います。原因は時間的な制約とか人とかじゃなくって。まあ、自分がそれで諦めたせいもあるんだろうなと思ったりもしますけどね。本当にひどい人とか条件の時とかもあるから、ふざけんなって思うこともあるけど(笑)、でも尚更向こうが予想以上のものを出してやりたくなる。昔、ある滞在制作したところの担当者が引き継いだばかりの人だったんですけど、本当にやる気がなくて、アーティストのやっていることを「訳がわからない」って周りに吹聴するような人だったんです。やっぱり社会の中で美術の存在って、そんな程度に思われる場合もあることはもちろん知ってるんですけど。でも、腹立ったから本当に死ぬほど本気でやったら、その担当の人の態度が最後に変わったのね。だからそういう風に人が変化することもあると思ってて。で、それはそれでいい経験だったんですけど、やっぱり同時に、美術ってダメだなとも思いました。一緒にやる人の話とはまた別なんですけど、その時に「世の中には通用しにくいな」っていうある種の挫折感はありましたね。あと、私は近所の人にアーティストだって本当に言ってないし、絶対バレたくないんです。変人扱いされるのわかってるから。

F 僕も近所に結構好きなスナックがあって、70歳ぐらいのお母さんが一人でご飯も作ってるようなとこで。本当にむちゃくちゃ居心地いいところなんですけど、そこでは僕も全部「デザイナー」で通してます(笑)。

S そうなるよね!私、このあいだ車の一時停止違反で捕まった時もアーティストって言わなかった(笑)。

一同 (爆笑)

S 警察になんて言えないでしょ?。「デザイナー」って言った、私も。

K デザイナーならそのラインは大丈夫なんですか(笑)?

S なんかまだ理解されるじゃないですか。だって、アーティストとか美術家って「ゴッホ?」ってすぐ出ちゃうじゃん、そしたら無理ですよね。「そんな職業あるの?」的な感じだよね(笑)。

F 「アーティストです」って言うと、次に返ってくるのが「絵とか描いてるんですか?」って大体その質問なんですけど、僕らはそれもやってないから、結構きついですよね。

S 近所にバレるとやっぱり面倒なんですよね…。でも本当は嫌ですよね、こういうの。もっとオープンになって、いま話してるみたいに普通にいれるようになりたいですよね。それぐらいアーティストが職業として社会的に理解されてる感はまだなくて、それは変わってほしいとすごく思ってます。

K そういう理解がされていないことって、日本特有の感じですか?海外と比べると、感触として何かありますか?

S 海外にはアーティストとして行くので、もうそれ自体は隠さないです。その期間はそれが仕事として行ってるから、普通に言えるんですけど。でも、そういう「美術とその外」みたいなことって日本って窮屈ですよね。今回のプロジェクトの、意図的に異物として街に入り過ごしてみるっていう試みは、そういう考えもあってやろうと思ってる部分はあります。

F やっぱりアイデアが地続きにありますよね。

4.

S 2019年にモエレ沼の北海道開拓についての展示※24をやったっていうのがあって、そこで自分の中で一回リセットされちゃったんだと思います。それまで歴史のことをずっとやってきたのが、そこが契機になって今はちょっと離れていってるんだと思う。だから今は現在形で世の中に関わることをやってるのかなって気はしています。今回の不審者として街に入ることも、この場所を下見した時の印象では割と高齢化が進んで、新しい人が入ってきて欲しいと思ってるって感じたところから始まっていて。新しい人って異物だから、アーティストという不審者を受け入れられるなら、他の人も受け入れられるかもよっていう、そういう提案みたいな感じで私はやっていたんですけど。けど、作品がそういう風になってきていて、それって自分にやりたいことがないのかもしれないって気がちょっとしてたりもします。やっぱり以前はそういう自分の暮らしていたところの歴史について、一般的にはこう言われてるけど、本当はそうじゃないみたいなところを突きつけたい気持ちがあったんですけど、ある意味、モエレの展示でなんとか歴史についての展示に持っていったので全うされちゃってるのかもしれません。あとは私の北海道の歴史にたいする意識もすごく変わった。私のはじめの認識には、明治初期、本州などからの入植者が頑張って北海道を開墾し礎を築いた。現在の生活は彼らの苦労の上に成り立っているみたいな、そういう美談になってるのが私の中の認識だったし、一般的に北海道開拓に対する認識もそういう認識はあった(ある)のではないかと思う。一方で、北海道開拓って、ロシアの脅威からの防衛とか、天然資源の開発のため道外からの入植者を募り、土地の利用を制度化していったり、アイヌの人々への不利な制度や入植者の差別的な認識など、違う視点もある。今はこういう認識も浸透してきているのではないかな?こうした認識が浸透すれば、私が作品で扱う必要ないじゃんみたいな気持ちが、ちょっとあったりするところも、作品にする対象が移行してきてることと関係あるのかもと思っています。

K その開拓の話って、今回の異質なものが入り込むっていうところと繋がってるって思っていたんですけど。元からそこにいる人の立場からしたらって話ですけど、要は歴史の中で入植者は異物である、と。そう考えると、今回ここでやってることは、より自分ごととしてそれを置き換えていて。

S そういう視点でも見れますね。北海道の場合は、入植者がマジョリティになっているから、やっぱり強者の歴史は美談として語られるっていうか。ここ最近のいろんな動向でも、例えばBlack Lives Matter※25の話とかから考えても、今ってもっとマイノリティの側に目がいっていて、そっちの視点から見るっていう話とアイヌの話は全然別じゃないというか、今の社会の状況ではあると思います。こうしてマイノリティーの側が発言できることや対話が進む状況はこれからもっと進んでいったらいいなと思います。

(2020年11月4日)




インタビューはこの後、アイヌの現在の状況についての話を中心に、美術のカルチュアル・スタディーズ等の話題へと変わってゆくのですが、進藤冬華さんの意向により2020年11月4日に行われたインタビューの掲載はここまでとさせて頂きます。以下に進藤さんから、掲載を見送った箇所の代わりに執筆頂いた文章と、本インタビューについてのバーズの考えを掲載させていただきます。

私は、作品の中でアイヌのことについて触れたこともありますが、いろいろ複雑で難しいなと感じています。誰もが目にできるこうしたサイトで話すことも以前よりやりにくいと感じています。その原因は自分の認識の問題かもしれませんし、外的な状況のことなのかもしれません。私の何代か前の家族は、本州から北海道に入植していて、私は侵入者側の子孫とも言えます。北海道のことを作品の中で扱うとき、そういう背景がある私自身という事がいつも付いて回るし、別の場所で作品を作るときより強固に自分の背景に対峙する事を求めてくるように思えます。また、発表にした時にどういうリアクションになるのか予想がつかない、ブラックボックスみたいな所がある。こうは言っても、実は、大人になるまでアイヌの事について気にかけたことはあまりないし、生活する中でアイヌの人々を身近に感じることはありませんでした。色々な状況を知り、北海道に暮らしてきたのにアイヌのことが自分の中で存在していなかったと認識した時はショックでした。
こうして、アイヌの事について話すことが(当時者や当事者じゃない場合でも)できやすい状況になったらいいなと思いますが、そんなに簡単だとは思いません。今こうやって、この場で発言することは何か一歩を踏み出すことにつながったらいいなと思います。(そして試行錯誤しながら、それに挑戦しているひとが、様々な分野で既にいると思う。)
以前北海道の外で、こうしたことを話したけど、全然共感されたようには思えませんでした。そんなに気にすることはないというような反応でした。その時私は、自分がセンシティブすぎるのかもしれないと気持ちが揺らぎましたが、今こうして再度この話をしてみると、同じ状況が現れてきます。そして、今回はこうした意識の隔たりが何とかならないかなと思い始めています。

進藤冬華


進藤冬華さんとバーズは、今回のインタビュー掲載にあたり何度も連絡を取り合い、掲載原稿に至りました。
掲載を見送った文章を思い出してみると、進藤さんが信頼している人物(冬木さん)であることと、お二人を含めた少ない人数だからこそ、話して頂けた内容になっていたのだと考えております。その内容がそのまま不特定多数の人が見ることのできるWEBサイトで掲載され、読み手の解釈が思わぬ方向にいってしまうことは、バーズの意向でもありませんでした。現在、社会は「いいね」やフォロアー数が価値を持っていますが、話の内容によっては個人の考えや思想を他人と共有するとき、信頼関係や人と向き合う時の態度、状況、環境が大きく関係し、決して多くの人と共有できることではない場合もあると今回の件で感じました。
バーズは、ゲストの方たちが生きて活動する中で感じていること、考えていることをできる限り素直に発信したいと思っております。しかし一方で、そこには誰にでも話せることと特定の誰かだから話せることがあり、それらの関係について思考し、より良く届けられる方法もまた模索しながら発信できる場所にしていきたいと考えています。

Birds

○注釈

※1 アジアン・カルチュアル・カウンシル:アメリカ・ニューヨークに本部を持つ非営利財団。ビジュアルアートおよびパフォーマンスアートの領域で、アメリカとアジア、またはアジア諸国間における文化交流等の支援を行なっている。

※2 吉野石膏美術振興財団:吉野石膏株式会社所蔵の絵画221点などを基本財産として2008年2月に設立、2011年より公益財団法人吉野石膏美術振興財団となる。若手美術家育成のための助成や、美術に関する国際交流の助成等を行っている。

※3 小山登美夫:ギャラリスト。1996年に江東区佐賀町に小山登美夫ギャラリーを開廊。奈良美智、村上隆をはじめとする同世代の日本アーティストの展覧会を多数開催。

※4 アートゾーン:京都造形芸術大学が運営するオルタナティヴ・スペース。2004年より様々な活動を行ってきた。2019年活動終了。http://artzone.jp/

※5 3331 Arts Chiyoda:東京都千代田区にあるアートセンター。千代田区文化芸術プランの重点プロジェクトとして始まり、2010年よりオープン。https://www.3331.jp/

※6 RAG & BONE PROJECT (2007年、Catalyst Arts、ベルファスト http://www.oldcatalystarts.hilken.co.uk/rag-and-bone/)

※7 サハリン島:北海道の北に位置する細長い島。ロシアと日本の間で領土が行ったり来たりした歴史がある。1905年の日露戦争勝利後、南樺太が日本領となるが、第二次大戦終了後ロシア領となり多くの日本人が日本へ引き揚げた。ニヴフ、ウイルタなど少数民族が暮らす。

※8 文化の盗用 :英cultural appropriation: 自分の文化ではない物事を、特にその文化を理解していることや尊重していることを示さずに、取ったり、使用したりする行為。

※9 北方民族博物館:北海道網走市にある博物館。http://hoppohm.org/index2.htm

※10 なえぼのアートスタジオ:札幌を活動拠点とするアーティストが中心となって運営、管理を行っているシェアスタジオ。元缶詰工場で2フロア約270坪の倉庫を改装し、2017年7月にスタート。
https://www.naebono.com/

※11 田中功起:美術家・映像作家。東京造形大学客員教授。1975年生。

※12 藤井光:美術家。映画監督。1976年生。

※13 Art Center Ongoing:2008年にオープンした東京吉祥寺にある民間のアートセンター。https://www.ongoing.jp/ja/

※14 山下拓也:アーティスト。1985年生。

※15 地主麻衣子:アーティスト。1984年生。

※16 名和晃平:現代美術家。京都造形芸術大学大学院特任教授。1975年生。

※17 鬼頭健吾:アーティスト。1977年生。

※18 小谷元彦:彫刻家・美術家。東京芸術大学准教授。1972年生。

※19 「理想のピクニック」2019年に、レジデンスで進藤が滞在していたハノイの家から、ホップティエン墓地まで観客とともにピクニックへ行くイベント。ホップティエン墓地は日本とフランスがベトナムを統治した第二次大戦時に亡くなった地元の人々を埋葬した共同墓地である。
https://www.shindofuyuka.com/portfolio1

※20 「街が見る⇄街を見る」https://kenpoku.info/shindo
常陸太田市の鯨ヶ丘での滞在制作で行ったプロジェクト。進藤がちょっと変わった人(不審者)として、変装して街をうろつく。新たなよそ者として街に入り込み、よそ者を街が受容するとはどういうことなのか問いかけようとした。

「鯨ヶ丘の下見を終えて」(プロジェクトの企画書より抜粋)

“この街に滞在するにあたり、私が興味を持ったのは、この地域は現在高齢化が進みつつあり、新しい人々が移住してきたり、ここを訪れたりしてこの地域を活性化したいと考えていることです。私はこの街にとって明らかに「よそ者」ですから、私が街に入ることで、この街で新しいよそ者を受容していくことについて、何か考えを促すようなことをしたいと考えています。

私がやることは、ちょっと変わった格好や行動をしつつ街の中に出没しウロウロすることです。街の人の反応によって徐々に活動を展開していこうと思っています。プロジェクトで重要なのは、アーティストと住民の直接的な交流ではなく、まず住民がちょっと変わった滞在者(アーティスト)を目撃し、ドキッとしたり、怖いと思ったり、何だろう‥と目が離せなくなるなど、普段の風景、生活の中に現れる異物に反応することだと思います。それは、住民からのわかりやすいリアクションではないかもしれません。

以前、小学校に派遣されるアーティストインスクールプログラムに参加したとき、私が変装して校内を歩くと子供達や先生の中で私をわけのわからないことをしている「わけのわからない人」として避ける人が一定数おり(好奇心をもって寄ってくる人もいる)、こうした反応は美術が社会との接点を持った時の状況がむき出しになった一つの反応として強烈に印象に残っています。
こうした経験から私は今回、意図的にこうした「異物」として、街に入り一ヶ月過ごしてみたい。街の中に異物が存在することで何が起こるのか興味があります。この地域は外から人来る人を受け入れようとしている場所です。それは、私のような異物を受け入れることと、ともすれば似ているかもしれません。
私はアーティストや美術作品は社会の中の異物であることが一つの側面だと常々思っています。異物をめぐり、人々は何かを考えたり、ショックを受けたりすることがあります。こうした美術が存在できることは、社会や人々の寛容さと関係があるように思います。”

※21 大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco):アートやデザインを通して都市や社会の課題解決に取り組んでいる文化施設。旧大阪府現代美術センター。

※22 感情的分岐点 2017
https://ryotarofuyuki.tumblr.com/post/182983415538/%E6%84%9F%E6%83%85%E7%9A%84%E5%88%86%E5%B2%90%E7%82%B9-emotional-branch-point-2017-27-27-h3m

※23 ISCP:International Studio & Curatorial Program。ニューヨークにあるアート・イン・レジデンスプログラム(若手アーティストやキュレーター達に、一定期間、制作/活動の場を提供するプログラム)で、制作・研究の奨励、アーティスト達の様々な文化的背景とホストカルチャーであるニューヨークの文化との相互作用と発展を目標にしている。

※24 2019年に札幌のモエレ沼公園で開催された進藤の個展「移住の子」。明治初期の北海道開拓や御雇外国人、ホーレス・ケプロンへのリサーチをもとに展開した作品を展示。
https://moerenumapark.jp/fuyukashindo/

※25 Black Lives Matter:黒人に対する暴力や人種差別の撤廃を訴える、国際的な運動の名称。