髙橋誠司あるいは一方でタカハシ ‘タカカーン’ セイジ

プロフィール

髙橋誠司あるいは一方でタカハシ ‘タカカーン’ セイジ
バンド活動が発端。アール・ブリュット、その創作過程との出会いから、イベント企画やパフォーマンス活動をスタートさせる。2014年頃「無職・イン・レジデンス」開始、美術展参加、演劇上演協力など表現形態を超えた活動が活発化。2015年「古屋の六斎念仏踊り」復活事業招聘、現在も継承のため参加。近年では「『芸術と福祉』をレクリエーションから編み直す」(助成:おおさか創造千島財団)を2017年に開始し、2019年の京都芸術センターでの発表、2020年「すごす/センター/家/AIR(略称:すごセン)」のオープンへと活動が展開している。 https://www.seijitakahashi.net/

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティスト https://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




タカカーンさんとはじめて会ったのは、昨年の春頃に此花にあるPORTという場所を訪れた時だった。その後はなんとなく展示の情報を聞いたり、Facebookで知り合いになって投稿を見るぐらいで、面と向かって話をする機会はこれまでなかった。(Facebookの情報で1984年生まれであることと、GRAPEVINE※1が好きだということは共通点だと知った。)

第一回目としてタカカーンさんに話を聞きたいと思ったのは、その活動や態度が気になったからである。現代美術という分野の中で個々のアーティストはそれぞれの目的や考えを持って制作や活動を行なっている。その中でも、僕自身は割とオーセンティックなタイプであると思う。美大に行き、彫刻を一応の出自としていて、ものを作り、展示を行う。

おそらく僕もタカハシ ‘タカカーン’ セイジという人も現代美術というフィールドで活動していることにはなるのだろう。そのフィールドにおいて彼が「場」を作ろうとしていることは何となくわかるが、その目的は他の作家とは結構違うような気がしている。なにが違うのだろうか。その部分が気になり、現在タカカーンさんが短期で入居している北加賀屋のSuper Studio Kitakagayaまで、山本正大と二人で話を聞きに行った。

(冬木遼太郎)

1. キャリアのはじまり

冬木(以下 F)すみません、今日は時間を取っていただいて。

タカハシ(以下 T)いえいえ。

F いきなりなんですけど僕、一昨日で36歳になって。で、僕と同じくらいの年齢で作品だけでご飯を食べてる作家さんって本当に少ないと思っていて。でもそういう形でなくても、ちゃんと活動している人はたくさんいてる。で、この現状に対してとりあえずみんな何かしら考えてるとは思うんです。このインタビューのシリーズをやろうと思ったのも、そういった作品の売買っていうかたち以外で何ができるんやろうっていう疑問とか、専業ではない作家の方が大半なら、むしろそっちの多様性の方が気になったんですよね。

T 今日インタビューされるなあと思って、自分のキャリアを思い出していたんですけど、米子さん※2とかFLOAT※3の周辺ってめちゃくちゃ面白い人たちがいっぱいいるのに、それこそみんなが表現活動から報酬を多くもらえているわけではないじゃないですか。お金をもらいたいとそれぞれが考えているかはわからないけれど、それだけじゃなく広い意味でも正当に評価されたらいいのになと思っていて、なら僕がその人たちを紹介しようと。その時はキュレーションっていう言葉も知らなかったんですけど。でも世の中って、なんて言ったらいいんですか、人を紹介という同じ行為にしても、権力がある人や有名な人が紹介すると全然違うじゃないですか。あ、これは自分が紹介者になってもあかんと。だからキャリアの最初は有名になろうと思ったんです(笑)。

F じゃあ、最初は紹介する側から美術というか、芸術に関係した活動をはじめたかんじですか?

T んー、そうですね、美術というかはわからないですが。その前からしていたバンドが活動のスタートでしたけど、バンド解散後に一人で活動する時にはそんな感じでした。

F バンドはいつ頃から?

T 2008年から4年くらいですかね。在学中からやっていました。それが米子さんとつながったきっかけではありますね。僕らのバンドの音源を聞いてくれた人が紹介してくれて。

F それはバンドのSjQ※4として、米子さんやアサダさん※5と知り合って…

T いや、アサダさんとはまた別で知り合って。たまたま同時期に米子さんとも知り合ったかたちです。「SHC」っていうイベントがFLOATであったんですよね。FMトランスミッターを使って、FLOATの外とかでみんながラジオの周波数を合わせて音楽を聴くイベントで。屋外にプロジェクションした映像を見ながら各々で音を聴いて、聴きたくなかったらイヤホン外してって。道ゆく人にしたら、音も聞こえないのに映像見ててみんな集まって、何してるの?っていうような状況をつくっていて。それに出たことが最初ですね。建物の外壁にプロジェクションしてたから道路からも見えるし、全くそのことを知らない人も場に入ってくる。そういった普通の生活と地続きなイベントに出会ったのが最初だったのもあって、人がどう生活してるのかっていうのが、ずっと気にはなっています。「生活とアート」とか言うつもりはないんですけど、そういうところからなんとなくスタートしましたね。

山本(以下 Y)それはさっき冬木さんが説明していた、どうやって生きていくかというか、アーティストとして生きていくかっていうこととも関係していくわけですよね?

T そうですね。キャリアのはじめは、暗中模索で。ギャラのみで生活できるのか、とか、ギャラをもらうにはどうするのか、とか。みんなどんな仕事してるんだろう? 兼業ミュージシャンの人を見てて、ヒゲが許される職場っていいな、そもそもヒゲがあまり生えないのだったな、と省みたり。

F 改めて説明させてもらうと、このインタビューは気になる人と話をするところから始めてみようか、というかなり漠然としたところからスタートしたんです。それこそバーズのメンバーの目的もモチベーションも全然違って。でもとりあえずやってみようってところからスタートして。この機会に気になっていた人に話を聞きに行けるのはいいことだし、ある意味でその人を紹介できることにもなるしって。本当にたくさんの人が美術やクリエイティブなことに携わったりしてる中で、そのいろんな人の「幅」みたいなものがちゃんと見えてきたら僕は嬉しいなと思っていて。で、その時にタカカーンさんは割と端の方にいてる感じだなっていうのを凄く思ったんです。例えばフェイスブックでタカカーンさんの投稿とか見ていても、別に何か作っているわけでもない。どうやら場づくりのようなことはしているけど、それをあらためてソーシャリーエンゲージドアートや関係性の美学うんぬんで単純にまとめてしまうのはなんか的外れだし。っていう時に、改めて話を聞きたいと思った感じです。

Y 僕も、いま冬木さんの話を聞いててもやっぱりそうだなって思ったのが、どうやって作家やクリエイターが生活しているのかもなんですけど、なんかその、生活するために自分の作品を売れるものに寄せて作るとか、そもそも売れるものを作る人はもちろんいるわけですね。ただ、それが本当にやりたかったことかどうかも、やっぱり僕はその人に聞いてみたいんですよね。で、タカカーンさんはどっちかと言うと売れるためではなくて、生活していくための方法論ではなく本当に自分がやりたいことをやっている。 

T まあそんなにピュアじゃないですけどね(笑)。

F でも、お金を得れるとしても目先の作品が売れるとかいう話ではなくて、タカカーンさんの考えている手段や方法が出来上がってくるのはもっと先でしょう?

T 得れるかなあ…でもまあ、自分のやっていることがソーシャリーエンゲージドアートとか言われたら、ラッキーやなあとか思いますね。もはやこの歳ですからね(笑)。指摘されたら「ああ、そうです」とか言って。

Y そこはうまいこと使うんですね(笑)。

2. カテゴライズする / されること

T アール・ブリュット※6というか、主に知的障害がある人たちの創作支援に関わったのが最初だったんです。で、アール・ブリュットって日本では障害者のアートって捉えられがちですけど、僕もアウトサイダーのアートをやってる人って言われたいと思ってるんですよね。いわゆるアウトサイダーアーティストって言われた方が、作家としての見られ方がカウンター効いてると思うんです。実はインサイダーの方が辛かったりするじゃないですか。アウトサイダーアーティストの人自身が望んだ通りに展覧会は組んでくれないかもしれないけど、それこそ紹介や評価についての文章も誰かが書いてくれるし。ある意味、最強の状態じゃないですか。それこそ美術の、インサイダーのアーティストが、最もやってほしいことをやられてるわけじゃないですか。公的なお金が使われたり、サポートがあったり、勝手に作品が広がっていくし。

F 僕はアール・ブリュットにすごく詳しいわけじゃないんですけど、アウトサイダーアーティストって言われる中にいる人たちが描いてる絵とかは、本人が展示したいとか他の人に見せたいっていう意思をもう離れてるようなところも感じるんですけど、一概にそうではないんですか?

T 自分がよくふれあう知的障害のある方に話を限定してしまいますが、そこを持っている人もいますね。展覧会に出展されることで周りのその方への関わりがよりポジティブなものになったり、自身の作品が飾られた展覧会でそこの人に歓待された経験からモチベーションに転じているのかなという作家と触れ合ったことがあります。一緒に展覧会を観に行くこともありました。

F そのへんの意識を持っている度合いは個人差というか、グラディエーション状ですか?

T グラディエーション状ですね。でもそれはまあ、インサイドの人にも言えることだとは思うんですけど、作ってる人の中で誰に見せるわけでもない人もいれば、めちゃくちゃ展覧会やりたい人もいるだろうし。ただその、展示方法などの細部については障害がある方々の思った通りに展覧会が実現しているのかについて厳密にわからないですけど。

F でも、アウトサイダーに入れてほしいって言ってる人はもう自覚してるから無理ですよね。

T ある定義上は“正規の美術教育を受けてない人”っていうことですから、入れるはずなんですけどね。

F 定義はそうなんですね。

T 一応そうですね。色々ありますけど、主にはそういうことですよね。

F でもそれこそタカカーンさんの作品って、申し訳ないんですけど僕はまだ実物を見たことがなくって。でも山本くんはこの前ここに来たんよね?「すわる」っていうイベントの時に。

Y もう、このままの状態やったよ(笑)。

F 物理的に椅子を解体してなんか作り出そうと再構築するっていう作業の手前に、椅子の座り心地とかを確かめるんじゃなかったっけ?

T 「すわる」はそんな感じでしたね。僕は技術はないから、いざとなったら再構築できるかもわからないから。スタジオは短期で借りていて、それこそ自主レジデンス気分なのですが、とりあえずせっかくなのでなんかやってる感じを…(笑)。ただ解体してしまったら元には戻らないから、この状態を共有したいなみたいなことが発端です。

Y 僕はそこが面白いなって。だってスタジオに来たら、いきなり「好きなイスに座ってみてください」って言われてスタートして、今から何の話をするかとかも一切説明ないねんで(笑)。

F だから、タカカーンさんの場づくりに必要なのはなんというか、ある目標を提示したら、それについて話したりする場ができるわけですよね。今回の場合は「解体して理想の椅子をつくる」っていう。もしかしたら再構築して本当に作るかも知れないけど、とりあえずその到達点の手前に集めた椅子があると座ってみたり、座り心地とか理想の椅子の話をする場ができる。だから椅子を選んだんだなあと思って。

T …どうかな(笑)。

一同 (笑)。

T もともとスペースを作るために京都に引っ越す予定だったんです。でもコロナでその予定が延びてしまって。浜松の「たけし文化センター」内にあるシェアハウスに長期レジデンスしていたので家賃もったいないなと。年始早々にはすでに借家を引き払って実家に荷物も置いていたからこうなってしまい、そのまま実家で半年暮らすことになってしまった。久しぶりの母との暮らしは、ありがたくご飯がおいしかったりしたものの、特に身近にいる母や祖母の感染リスクを考えるとどんどん出歩けなくなってきて、やばいこれしんどいと思って。タイミングよくこの北加賀屋のスタジオを借りられたので、それで何しよう、みたいな話なんですよね。あと、このあいだに文化庁の助成金をもらおうかなと思って全体概要考えてる時に、椅子って木材でできていることが多いから、接ぎ木、大阪と京都を接ぎ木、、コロナを経ての、こう、なんか、みたいな(笑)。

Y タカカーンさんの中での製図はあって、色々経た上での椅子なんやろうな(笑)。

T いや、でも美術の中で最近ハラスメントの問題ポロポロ聞きますけど、男の子同士とかのマウンティングはきついなと長らく思っていて。僕は結構ハラスメントに敏感なんですよね、最初務めた会社で結構パワハラにあったから。一般大学の商学部を出て、普通に営業職でした。

Y 営業職やったんですか!

T その頃にFLOATに出会って、米子さんに会ったばっかりのときに「一緒にレギュラーイベントしましょう」とか急に言われて。何も知らないんですよ、僕のこと(笑)。僕も知らないし。それで「やってみたかったことをやってみるための時間」っていうのを、3、4年ぐらい毎月一回朝からやったんですね。自分のアイデアの出し方としては、その後の活動もほぼそれを焼き回してる感覚に近いですね、振り返ると。

Y そのときに月に一度何か企画を作って…?

T 最初は米子さんと僕ともう2人メンバーがいたんですけど、それぞれ出自もジャンルも違うからやりたいと思っていたことをやりたくて。まあいわゆるセッションが最初に浮かんだんでやってみたんですけど、それも違うなあって米子さんが言い出して。もっと既成の表現とかじゃないような、ちょっとしたやってみたかったことってあるじゃないですか。それこそ人前で朗読するのを聞いてほしいとか、告白したことないから告白の演技をしてみたりとか。その時はまだ並行して音楽もしてたんですけど、そういうことをやり出してから、こういうのもありなんだって。

Y 表現の仕方としてですか?

T 音楽をやってると、音楽のことばっかり考えてるように思えて。しかもまあ音楽と美術って今ほどつながりなかったから。米子さんやアサダさんとかはSjQとかやってたんで、そのあたりもつながってるのかもしれないですけど。

やってみたかったことをやってみるための時間 (旧フロリズム:参加者のアイデアにより、
音楽・ダンス・絵画など表現の形態を問わず行うセッション/演奏の会 2014

F ちなみに、バーズのメンバーのはがさんは、タカカーンさんの活動はアサダさんとのつながりが最初というか、入りだったのかなあ、とは言ってたね。

Y そうだね。

T アサダさんの中ではどれもつながってるんでしょうけど、アサダさんは全部音楽だって言って全然違うこともやっていて、それも救いになりましたね。自分がバンド解散した後に知り合ったから、あーこういうのもいいんだって。アサダさんに紹介されて障害福祉の世界にも入ったんですよ。

F そうなんですね。

T 公務員受験の試験勉強に恋にかまけて身が入らず、公務員に似たようなものとしてNPOというのがあるらしいぞという希望を抱いて…つまり就職先を探していて、アサダさんが関係されていたあるアートNPOに相談して、そこでアサダさんとも初めて会ったんですけど「そういう就職斡旋はしてないんです」って言われて。でも後日個人的に連絡がきて、「遠いけど滋賀県の近江八幡に仕事あるよ」って。それが、いわゆる障害のある人たちが中心となる音楽祭の事務局やったんですけど、「音楽やってるとこういう世界とも繋がるんだ」って思って。ほんまにそういうとこですね。アサダさんと米子さん、SJQ様々っていう。運転とかしました、ツアー行く時(笑)。

一同 (笑)。

T 本当にあの二人、ナチュラルに振り切れてる人たちだから。ポッドキャストでラジオやってたんですよ、あの二人。めちゃくちゃ面白いんで聴いてみてください。

F そうなんですね、今も聴けるんですか?

T いまも聴けます。iTunesにありますよ。※7

3. 価値づけについて

F この形式張った感じで聞くのは少し嫌なんですけど、そういうアサダさんとの関係で就いた仕事から、福祉っていう要素は考える対象や作品に入ってきた感じですか? 今も福祉はタカカーンさんの作品に関係してますよね。

T そうですね、うーん…

F でもいま言う手前で、なんかすごいインタビュアー臭いと思って。簡単につなげるのがすごい嫌な気もしたんですけど..

Y わかるわかる。

T まあ話のガイドだからいいんじゃないんですかね。

F いますごい嫌やったな…でもなんていうか、さっきの男の子同士のマウンティングが嫌だっていうのも、タカカーンさんが思ってる福祉も多分つながってて。誰がルールを決めて、誰がそこに入れて、逆に誰が入れないのかみたいな。なんか、もうちょっと漠然とした上でのみんなでの決め事とかに関係する気はしてて。

T そうですね。

F で、いまやられていることも括りというか、そこに関係したなにかはあるのかなと。

T 「『芸術と福祉』をレクリエーションから編み直す」プロジェクトとかもしましたからね。敢えてそういう名目を出したのは、千島財団の助成申請をするにあたって、思い切って大風呂敷広げてみようと思ったからなんですけど。美術は違うかもしれないけど、もともと福祉とアートはまあ同じことだと思っていて。福祉と芸術文化はほぼ一緒というか、どちらも人の尊厳を扱うじゃないですか。

「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直すプロジェクト『集落の「中の人」はどう見たのか、方言を習うことについて』2018

T ちょうどよかったんですよね。福祉の話に戻ると、音楽っていうスキルを活かす時に「音楽祭の裏方してよ」って言われて、現場ではないですけどそれが実は福祉で、知的障害のある人と触れ合う仕事だったんですよね。だから、偏見がなかったと言い切っていいのか。もともと偏見を抱く経験すらなかったけど、いわゆるなんというか、その人たちをかわいそうとも思わなかったし、なんか怖いとも思わなかったのを確認した。大人になったら障害のある人と普段こんなに出会わないんもんなのかと思いました。その現場やと出会いすぎるから、むちゃくちゃいるやんって。彼らそれぞれの凄みに圧倒されっぱなしでした。

Y いるところに行かないと障害者の人たちには出会わないってことですか?

T そうですね。もちろん街にいらっしゃいますが、出会えてはいない。しっかりと必要な目的のためにアール・ブリュットを推進している団体だったんですけど、それにもまた一方で僕は違和感を感じて。ようは絵を描ける人とか作品をつくれる人だけを推進してしまう恐れがうまれるのではないかというか。簡単に言ったら、障害者ってこういう絵が描けてすごいよねってことになってしまう。ポストコロニアリズム※8じゃないけど、なんかこう、一方的に上から価値を与えてるんじゃないかな、みたいな気持ちもしたんです。で、実際その後も作業所でアトリエ活動の支援スタッフをやっていて、現場はそんな風じゃなかったけど、視察とか行政が来ると「私たちも障害のある人の施設をやってるんですけど、どうやったら絵を描けるようになりますか」とかって言われるんですよね。

F はい。

T いや、そんなんじゃないよみたいな。僕がいた作業所も20年くらいかかって色々な積み重ねや発見があってこうなってる。ある程度、美術をやろうとは思っているけど描けない人を排除してきたわけじゃないし。そんな人たちに声かけてみて、実際にやって、偶然描くことにはまったりするわけですよね。で、結構面白い作品が生まれてきて、まあ展覧会してみよっか、みたいな。そんな感じだったから今があるのに、インスタントにそれを目指してしまう後追いの人たちが生まれてきた時に、どうやったら絵が描けるかっていうシンプルな問題になってしまうと、描けなかったら不本意なわけでしょ?なんでよ、みたいな。障害のある人たちが絵を描くこと自体が、なんか教育的になっちゃって、すげー暴力やなって感じて。悪気なく言ってるからマジで怖いって思ったんですよね。それと実際に作業所で絵が売れたりとかすると、入ってくるお金やそもそもの出展料とかっていうのも、作業工賃から考えたらすごい額なんですよね。もう桁が違うんですよ、2桁くらい。そうなってくるとまた現場で不公平感が生まれたりとかして。僕がいたところは、最初はお母さんの会とかが発足で何十年前にできた作業所だったんです。だから、絵が売れた人のお母さんも、急にこんなお金もらっていいんかなと感じたり、全部寄付しちゃったりとか、もらえませんっていう反応だったりする。絵なんか描かせないでもっと作業だけさせてください、みたいな場面もあるし。あらためてお金って怖いなって。大学は商学部出身なんですけど(笑)。
 
F ちょっと整理すると、要は絵が売れてお金っていうかたちになったり、描いたものが価値づけられてきた時に、それはそれで作業所の中で普通にされてる作業との差とか、描く人と描かない人との差とか、あるいはやっかみとか、色んな差がその新しい価値によって生まれてきてしまうみたいな。

T そうですね。何かが価値化する時って、やっぱりその日陰になることもあるだろうし、もしかしたらそこへの配慮のことをソーシャリーエンゲージドアートって言えばいいのにって思ってるんですけど。結構みんな価値化のことばっかりに血眼になっていて、不具合に気づきにくいんですよね。救われる人が一人でも多くなってるっていうのは、そうかもしれないけど。(絵を)描けない人の価値がそのままやったらいいんですよ、描ける人が評価されても。でも下がるんですよね。

F より下がる。

T そう。それはちょっと…別のところでその人は救われてるかもしれないけど、でもこうなってることもあるっていうのを思ってほしいし、美術も芸術もそうだけど、ようは一番健全な業界の状態って、面白くない人もいれないといけないんですよ。

F そう思いますよ。

Tそもそもおもしろいって誰が決めてるねんって話だけど、50歳の新人を正当に評価できたらその業界は健全だと思います。いわゆる将棋界とか、文学とか。やっぱりちょっとね、美術は青田買いが過ぎるというか。大学の美術教育と連結し過ぎてるのかもしれないですけど、ちょっとヒーローを探し過ぎてるし、過度に消費的やなとは思いますね。本当はおもしろくなくても続けれるとか、お金を得れたりもするのが健全だと。言いたいことはそれに尽きるんですけど。

Y うん。

T 自分の活動はそれを体現しようとしているというか、ちょっと美しく言うとそんな感じですね。「お前何も作ってへんやん」という声に対して、じゃあ作るってなによとか。1つのジャンルを価値化することに必死になり過ぎて、その他に対する配慮がなくなってるんじゃないかなとか。いまの助成金にしても、舞台できなきゃ死んじゃうから舞台関係者に金くれって言ってても、どこかで牌は限られてるから。じゃあそれ以外のアーティストは死んでいいの?っていう。大袈裟ですね…

Y その条件に入らないって言うなら、そもそものその条件って何やねん、みたいな。

T 生きてる人って評価しにくいんですよ。で、作品と作家が別のものだっていうのは死んでからのことなんですよね。そういう意味で本当に批評できている人は少ないと思うから。やっぱり生きてる人の生き様も評価に関係してくるんですよね。だから変な話、逆算してそうしてるわけじゃないけど、サバイブするには友達多いほうがいいと僕は思ってますね。

Y それはたくさんの人が自分に対して、いろんな価値観をちゃんと持ってくれるからですか?

T それもありますし、それこそ本当にコネ。もちろん仕事はくるし。良し悪しですけどね。媚びる必要はないけど、悲しいかなそれはないって言うと嘘になりますね。

4. 超民主主義な公園

F やっぱり今日お話を聞く前から思っていたのは、参入できる人と排除される人がいるっていうところに敏感というか、そこにタカカーンさんは意識を持ってるんだろうなっていうのは、何となく感じていたことですね。僕もそこまで詳しい訳じゃないんですけど、フェミニズムに関する議論で一番ベストな状態って、活性化された議論が行われてる状態こそが望ましい、というのがあって。完全な解決なんてしないし、それこそ解決しちゃダメみたいな。で、一番良い状態っていうのは自由に個々人が発言している状態がずっと起きてることで、それこそが良い。だから結論が訪れないみたいなのがいいっていう話で。

T わかりますわかります。

F だから、僕がタカカーンさんの「すわる」に行った話を山本くんから聞いた時に、彼が「いや、別にタカカーンさんが作り出す様子もないねん。作るかも知らへんけど、とりあえず何も始まらへんねん」って言っていて、僕は「いや絶対そうでしょ」と思って。フェミニズムの議論が志向するような活性化した議論の持続じゃないですけど、僕はタカカーンさんがそれに近い場を考えてはるのかな、と思っていて。

T そうやと思います。

F もちろん指針というか目指すべきものは提示しつつも、みんなで座って、何となく話が始まって..っていう状態のために「椅子作ります」って言ってるんじゃないかなと。

T そうですね、みんなでああだこうだ言うのは大事だと思いますね。そうやなあ..最近振り返ることが多いから死んでしまうんかなとたまに思うんですけど(笑)、「超民主主義な公園」をつくれたらいいな、という活動当初からのイメージはありました。それが本当に可能なのかっていうのは考えてましたね。

F それはみんなが自由に使えるっていう?

T 真っさらなのかわからないですけどまず場所があって、遊具ひとつ置くのにこれがベストっていう話をしたら、最後まで置けないんですけど。

Y でも意外と今の話を聞いたら、僕は去年冬木くんがやった「突然の風景」※9の態度は、民主主義というか..

F いやー、あれは僕が決めてるよ(笑)。

Y 来た人たちの現場での態度は民主的やったと思ったよ。

F あれはその、同じ経験を持ってることが話し合いのはじまりには必要なんじゃないかなって思って。いろんなそれぞれの人の経験の円があるなかで、まず同じ経験をしてるところがあるから、話し合いが可能になるはずなんじゃないかなと思ったんです。だからまず共通の経験を作ろうっていうのと、やっぱりああいう運動場とかグラウンドのところに、雑然と車が集まってるのって、津波の後とかにニュース映像で見る感じやと思うんです。でも、あの作品を経験してたらもし本当に地震や津波が来たとき、ちょっと違うと思うんです。それは、そういった結構しんどい急に訪れた危機みたいな時でも、周りと関係したり協力したり、気持ちの持ち直しが早い気がするんです。だから、そのもしかしたらの未来のためになる心の予行演習というか。

Y 1回経験しているからね。この景色って見たことあるっていうのだけでも人ってある程度安心する。

F そう。っていうのが実はあの作品でやりたかったことで。

T ウェブとかを通してわかったような気になりますよね、現在って。あれは多分行かないとわからないやろなあ…めちゃ暑かったし。覚えてるもん。

Y 暑かったですよね。でもそれもよかった。

T そうね。より記憶に残ると思うなあ。

Y だって、今年の暑さも去年のあの日より断然マシやわって思うもん(笑)。下が砂だから照り返しあるし。

T グラウンドって行かないもんね、大人になると。

F 発表は全部で3回やったんですけど、タカカーンさんが来てくれたのは確か1回目やったと思います。でも、1回目が終わったあとが一番よくって。1回目の終わったあとに「え、終わり?」みたいな場の空気になった。そこにいた人みんなが一瞬「ん?」みたいな感じになったんです。

Y そうそう。

F けど2回目3回目って、やっぱり知ってる人がすぐ拍手しちゃうかんじで。

T あー何回も見てる人がいるわけね。

F そうなんです。だからどう考えても1回目が良かったんです。誰も場を先導する人がいない状態みたいになって。

Y 謎の幸せな空間がね、できちゃってるっていう(笑)。

F 誰も先導しないと、集団ってこういうことになるんやっていう(笑)。あれは思ってもみなかった瞬間で、全然予想してなくて。

Y そういう意味では冬木くんが考えている指針はあるけれども、タカカーンさんが言ってた「超民主主義の公園」っていう、そこに来た人たちそれぞれが何を考えるのかみたいな状況になる作品やったなって。冬木くんの場合はもちろん物はあるけど、みんなが考えるっていうことはちゃんとできてたかなっていう。

T そうやろうねえ…色々なことが「なんでそうなってるんだっけ」っていうのはなんか常に気になるんですよね。めちゃくちゃルール多いじゃないですか、現在って。まあ制度が多いんですけど。多分みんな今回のコロナで奨励金もらったりとか、支援を受けるみたいな時に意識したと思うんですよね、制度の使い所っていうか、制度って使わなきゃって。でも僕らが社会に生きるときに、そもそも制度がむちゃくちゃ多いことは望んでいた訳ではないじゃないですか。かといって、それをどう使っていくかっていう話は一切教えてもらってないし。

F うん。

T なんというか、それを捉え直すことができるきっかけが欲しかったんですよね、その「超民主主義の公園」って。だから公共の空間っていうけど、ようは「公共」って一人一人が責任を持っている状態じゃないですか。でもなんか行政がやってくれるものみたいなかんじになってる。そうじゃなくてちょっとしたことも、例えば道の1つとってみても、そこに住む人たちの何かが現れるというか…

Y 意見があった方が、健全。

T 道をもう少し太くしたらいいんちゃうか、みたいな話もそうだし。あれはウチの爺さんがな、みたいな話とかでもいいし。まあ自治的な話ですよね。

5. 行政とアートプロジェクト

T 実はそれこそ、冬木さんがやった次の年度に茨木にプランを出してたんですけど※11、ダメでした。基本的には審査とかすごい苦手なんですよね。

Y 今となってはこの話も含めてタカカーンさんのやろうとしてたことはすごくわかります。まあアートプロジェクトとかって、プロジェクトを作る時点で既に方針とかコンセプトっていうか、そのアートプロジェクトをどうしたいかっていうことの土台がまず一個あって、そこにまた次は審査員っていう土台が乗る。土台の上に土台を乗っけていってるイメージなんですよね。でも、こっちでいうアートプロジェクト自体がやりたい方針の土台と、作家がやりたいことの土台っていうのは、本来はどっちがどっちにも乗せれないわけですね。アートプロジェクトの方の話を一番大切にするのか、それとも作家がやりたい作品の話を一番大切にするのかっていう大切なことが2つあるなかで、一番大切にするべき話っていうのをどちらにするかっていうことを決めるのは難しい。でもアートプロジェクト側の話に、だいたい作家は合わせてくれるわけやん。

F 要はアートプロジェクトっていう仕組みがある中に、どう作家は自分のやりたいことを落とし込んでいくかっていう順序になってる。

Y そう。けど、僕は本来作家がやりたかったことを純粋につくれた方が、言いたいことは伝わりやすいと思ってるんですよ。

T アートプロジェクトもきっともともとはそうでしたもんね。

Y だから、そういう意味でアートプロジェクトには色んな要素が乗っかりすぎる傾向もある。だから例えば、タカカーンさんのやりたいことっていうのは、まずタカカーンさんのやりたいことのルールをアートプロジェクト側も審査員もある程度わかってないと、通しにくいというか。

F なんか、どんなん出したんですか?

T めちゃめちゃラフに書いたんですけど、去年に芸セン※12で展示があった時に、すごすための場所みたいなものとして「仮説の施設をつくる」っていうのをやったんですね。見るべきものも何もないし、すごせって言われてもっていう状態なんですけど、まあフラットな場所をつくるみたいなことをやったんです。で、それをたまたま台湾人の建築の先生が見に来て、一緒にやりたいと言われて。いやお金とかいるんちゃうの?って言うと、向こうは「いいよいいよ」とか言うけど、なんか申し訳ないから、ちょうどHUB-IBARAKIがあるし出そうと思って。出して落ちた情報は未だに全く伝えられてないんですけど(苦笑)。チャンスを持ってます。

Y いま話してくださった、市民の話を一回ちゃんと聞いてみましょうっていう、まあ大まかにいうとそういうコンセプトのものだったんだけど、やっぱり、審査員とか、状況やよね。アートに対する目線の状況もあるなかで、そういうのをたぶん、しっかりやりたいってなった時にどうやれば、提案から実施までできるのか。そこまで考えると正規ルート、いままでの話の流れならアートプロジェクトに応募するって方法以外で考えたほうができるかもしれないと思っちゃう。

京都レクリエーションセンター~施設のための試演~ 2020 撮影:守屋友樹

F なんかこう、そういったタカカーンさんの作りたい場って、色んな違いがある人が話をできたりとか、一緒にいれる場づくりだからもちろん意見の違いが絶対あって、それも含めてタカカーンさんはオッケーにしてるじゃないですか。

T もちろんもちろん。

F でも別に茨木だけじゃなくって、ほとんどのアートプロジェクトとかビエンナーレとかってお祭り側じゃないですか。普段はみんな通常の生活があって、普通に仕事をしていて。で、それに対するお祭りとか祝祭みたいなものとしてあるから、みんなが楽しい空気や同じものを共有できるみたいなかたちが行政が提供して欲しいものの前提にあるけど、でもタカカーンさんのやりたいことって「みんな違うよね」じゃないですか。考え方の差異の見える化というか。だからこそ僕は茨木にはそんな試みの方をしてほしいなって。

T なるほどねえ…なんかいま公共って誰にも文句を言われない状態をつくるってかんじになってるけど、それは公共じゃないですよね。

Y まあだから、いま言ってた公園とか公共って言ってるけど、結局、意見を募って作るってるのではなく、誰か公園を作れる人の意見で作られている。公園の周りに住む人の意見がない公園に対して公共である。っていうことが普通におきてるんやなって思って。

T そうですねえ…それと、僕のしている話もデカすぎるんですけど、「アートと社会」って言い過ぎたツケがいま回ってきてるなとは思っていて。それは企業メセナとか、個人からスポンサーとしてお金もらってる時期と、次にもう不景気になってしまって行政がほとんど全部のアートに対するスポンサーというか基盤になってしまった時に、やっぱり行政の他の役割と同じように説明しようとしてしまったっていうか、行政そのものがそうなってしまったというか。アートが誰しもが楽しめるものとか、意味のわかるものとかっていう共通の認識になってきたんですよね。

F うん。

T それはそれでひとつの発展かもしれないですけど、なんか、もうちょっとアートって普遍的なものだとは思うんですよね。まあ病理じゃないし、自分の分身っていうのも気持ち悪いですけど。知的障害のある人たちが作品をつくるところを見てると思うというか、マジでその選択しか有り得へんねんなっていうものが出来てくる時とか、20年かけて微妙に色使いが変わっていってるのを発見した時とかに「うわー!」ってなるんですよね、ゾクゾクくるっていうか。人の一生って取るに足らないものかもしれないけど、ものすごい濃密なものかもしれないみたいなことを感じる。なんかそういうところをもうちょっと強調しててもいいんじゃないかなって思うんですよね、アートって。別に美談にするつもりはなくて。もっとドロドロしたものだとは思うんですけど、結構いまは様式美っぽくなってきているというか、さっきの話じゃないですけどアートプロジェクト然としたものとか、見栄えや建前としてそれらをつくるのは大事かもしれないけど、あまりにそっちに傾くと虚勢されたみたいな感じがするし。

Y そうですね。

T 僕は社会とかパブリックって言ってやってるけど、ものを作れない人が参照してくれたらいいな、とはちょっと思ってます。自分は音楽とかやってきたけど、無理にそこで秀でなくともというか。最初は自分のやっていることを、人を食ったような表現と思ってワザとやってる部分もあったんですよね。作ってる人を小馬鹿にしてる時期もあったんですよ(苦笑)。なんか作ることばっかりを考えてるのって、作れない恐怖に襲われてるのか、なんで作ってるの?っていうことも含めて、作ってしまってる人をちょっとバカにしてたんですよね。それらしいものとかトレンディーなものを作ってるのを見てて、もしその人より活躍できたら、こういうこともありと言えるんじゃないかなって最初は思ってました。20代は若いから攻撃的でしたし、権威的な人にだいぶ怒ってましたしね(笑)。

6. お金を稼ぐことについて

F でも、そんなことを思いつつも、そもそも僕もタカカーンさんも絶対に作品だけで食べていこう、みたいなことはあんまり思ってないと思うんですよ。

T そうですね。

F 僕はなんかそっちの方が生産性のある話ができる気がしてるんです。それこそ、タカカーンさんが福祉に関係したりとか。ようは数%ぐらいのアーティストしか作品で自活できてない今の状況があって、それ以外の方には大多数がいる。まあ作品だけで食べていくっていう人はそれはそれでいいとは思うんですけど、別に作品で収入を得ることだけを無理に目指して少ない牌を奪い合うより、そっち側の作品では自活できてない人がどうしてるかの方が絶対に多様性とか考え方の違いが複雑にあるんだから、そういう話をした方がいいと思うんですよね。

T もちろん。

F そういうのがこのバーズの目的の1つで。だから、アーティストのあり方や生きていき方も変わっていくんちゃうかなと思っていて。で、そういうことも見える化させていきたいというのも実は思ってるんですよね。

T 確かによくありますよね、美大出てなんとなく仕事あるんちゃうかなと学生に思わせて、ないみたいな。

F あれ本当によくないですね(笑)。

T 最近ちょっと整理して考えてたんですよね。学問で美術って、簡単に言ったら美学じゃないですか。あるいは美術史とかね。そこが学問で、そういった学問で食べていけるのって学者だけじゃないですか。でも、アートってものを作ることができるから、その副産物から画商とかマーケットがあって。それがすごい何億とかになってるから、いけそうな気がするが、普通食えなくて当たり前じゃないですか。ようは文化人類学で食えるのって話じゃないですか。好きにフィールドワークしてて食えるのかって言ったら食われへんし。そこが混ざってるから話がややこしくて、どっちの話をしてるんだろうと思うんですよね。学問を研究してるのか、商品を作っているのか。混ざっちゃったらしょうがない話やとは思うんですけど。
それとご存知と思うんですけど、資本主義がなんでもお金になるって言ってるけど、実際僕らは依頼が来たらいっぱいものごとを考えて、シャドウワークじゃないですけどむちゃくちゃ動いてるのに、それが全然一切お金に変わってないわけじゃないですか。それには良さもあるかもしれませんが、悪さもあるわけですよね。それについても思うところはあるし。さっき言ったなかではアーティストは好きなことしてるから、好きだからいいでしょみたいなのにもつながりやすい。でも、名前出る以上は適当な仕事はできないわけですよね。結局最後にフィーが少なくてごめんなさいって言われても、やっちゃうじゃないですか。何千円しかないけどって言われても真剣にやるやろうし。

F なんか、山本くんと一緒にいることがこの2年くらい多いんですけど、この人がいいのはそのへんをもう割り切っているというか..

T 割り切ってる?

F この人ちゃんと稼ぐんですよ。

T すごいなあ(笑)。

F もともと一番最初はグラフ(graf※13)やったっけ?

Y うん、グラフで。そっからほぼ独学やったけど独立して。まあでもそこから色んな人とか企業との繋がりのおかげで。

T 知らない世界だ(笑)。

F 僕も全然です(笑)。

Y さっき冬木くんが言ってたような、生きることと作りたいことというか、生きるためにやらないといけないことと考えて生産したいことを一緒にしちゃうと、純粋に考えることを占領し出すというか、それに介入しだす感じがあると、やりたいことがやりづらくなるんちゃうかなと思ってて。売らないといけないってなったらニーズにちょっと合わせにいかないといけないとか、そういうことが出だすと、東京のエンタメ性の強いアートシーンみたいなことになると思っていて。大変だろうけど、意外と分けてやった方が、純粋にすごくいいものっていうのが生まれるっていう可能性はあるんかなっていう。

T そうですね…以前、戦争画家ってなんで生まれたんやろうってある人に質問したら、知らず知らずに描いていて、そもそも褒められなかった画家が急に褒められてきて、周りに乗せられていった結果それを描いてしまってて。で、振り返って自分だけが悪いことになってるみたいな。そうじゃなくて、乗せた人がいるんだよっていう。買う人がいたんですよね、だから。

Y そうそう。

T だから、僕も言われましたよ。福祉の仕事をしているときに、自分はアーティストと思ってなかったし作品とも思ってなかったけど、やってることに対して「作品なの?」ってめっちゃ言われ続けて。無職・イン・レジデンスの最初のレジデンスをやった時に、武田力っていう演出家と出会ったんですけど、最初はヤな奴やって(笑)。「アーティストは一本でやってなんぼや」みたいな。自分では、よくないんかなあってずっと思って劣等感を感じてたんですけど。ある瞬間にこれはダメだと思って。そんなにハートが強いわけじゃないからその状態になると思ったんです。お金を稼ぐためのものを最優先にしだすと思ったし、それしかしなくなると思ったんです。それが美しいわけじゃないけど、向き不向きだなと思いますね。

〈無職・イン・レジデンス〉のリーフレット 2015

Y ほんとにそれが向いてる人はやってもいいんですけど、生きるためというか社会を回すための話が多くなっている作品とかシーンに関しては、その話をちゃんとして欲しい。だから美大で青色申告教えてくれないのと一緒というか。

T 教えてくれないだろうね(笑)。

Y それをふわっとさせた状態で、それがまるで最高峰なんだよ、みたいな見せ方しよるわけじゃないですか。いや、社会を回したいからやってんだよっていうのをちゃんと言ってくれないと困るなとは最近思ってるんですけども。

T ほんとに色々早めに知りたかったね、憲法の話も。なんで小学校で学ばへんねやろう。

Y この歳になってやっと距離感がわかってくるというか。

T そうなんですよ、やっとなんですよね。今まで何やったんやろうって思うぐらいで。

(2020年8月12日)

○注釈

※1 GRAPEVINE(グレイプバイン):1993年に大阪で結成されたバンド。タカカーンさんは頻繁にライブにも行っているそう。

※2 米子さん:米子匡司さん。音楽家。トロンボーン、ピアノ奏者。プログラマー。元SjQのメンバー。此花で複合建物「PORT」や「FLOAT」を運営されている。冬木も作品を技術面で手伝ってもらったり、相談させてもらったことがある方。

※3 FLOAT:此花にある米子さんが運営されていた住居兼オープンスペース。

※4 SjQ:サムライジャズカルテット。以前に米子さんとアサダさんが所属していたバンド。

※5 アール・ブリュット:既存の美術や文化潮流とは異なる文脈によって制作された芸術、あるいはその作品。フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet 1901-1985)によって考案された。文中でタカカーンさんが話しているように、以前は障害者の芸術という意味合いが強かったが、その定義自体は変遷し、現在は美術教育を受けていない人による表現を指す場合が多い。

※6 アサダさん:アサダワタルさん。1979年大阪生まれ、東京都⇄新潟県在住。
文化活動家 / アーティスト、文筆家、社会福祉法人愛成会品川地域連携推進室コミュニティアートディレクター。
 
※7 米子さんとアサダさんのラジオ:「スキマ芸術」http://sukima.chochopin.net

※8 ポストコロニアリズム:西欧中心主義や植民地主義に対する反省的な視点、考え方。それ自体もまた西欧的な観点からの価値づけ方であるという批判もある。

※9 突然の風:大阪府茨木市主催のアートプログラム、HUB-IBARAKI ART PROJECTにて2019年に冬木が発表した作品。5月26日が発表日だったがものすごく暑かった。タカカーンさんも見に来てくれていた。https://ryotarofuyuki.tumblr.com/post/186622894888/%E7%AA%81%E7%84%B6%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF-sudden-view-2019-car-car-horn

※10 HUB-IBARAKI ART PROJECT:大阪府茨木市で実施する「継続的なアート事業によるまちづくり」を目的にしたアートプロジェクト。山本は7年間、ディレクターとして携わっている。
https://www.hub-ibaraki-art.com/

※11:HUB-IBARAKI ART PROJECTのプラン募集のこと。通年、一人もしくは一組のアーティストが選出される。

※12 京都芸術センター:明倫小学校の校舎を利用した京都市の運営するアートセンター。2000年の開館以来、多岐に渡る芸術活動の支援と発表を行っている。
https://www.kac.or.jp/

※13 graf:大阪を拠点に、家具・空間・プロダクト・グラフィックのデザインから食、アートにわたって様々にクリエイティブな活動を展開している会社。https://www.graf-d3.com/

置田陽介

プロフィール

置田陽介(おきた ようすけ)
1976年 大阪府生まれ。
1998年 学習院大学法学部卒業。2005年より2012年までデザイン会社graf所属。2013年1月よりOkita Yosuke Attitudesとして活動。グラフィックデザインを起点に、多岐に渡る仕事に携わる。
現在、Attitude inc.代表。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




置田陽介さんは、僕が10年前に勤務していた大阪のデザイン会社graf(グラフ)※1の時の上司で、現在はアートディレクションとグラフィックデザインを主な生業にしながら、様々なジャンルに精通した活動を行っている。過去にも断片的に仕事に対する態度や生活と仕事の距離感などについて聞いていたが、今までしっかりと伺う機会はなかった。

グラフィックデザインやプロダクトデザイン、家具や建物、その他のかたちある物を創造して生み出す仕事には必ず意匠を考える工程が発生する。デザインというとその意匠を作り出す仕事に目を向けられがちだが、複数人(チーム)で1つの物を創造する場合、度合いはあるが同じ方向を見て進まなければいけなくなる。いわば、船を航海させるときの船長のような立場の人間が必要で、その役目をディレクターは行うことになる。当時の置田さんの仕事を横で見ていたことを振り返ると、デザイン/意匠を行うことよりも、ディレクション/企画でアウトプットされるものごとの質を上げる動きをしていると感じていた。

それは、置田さんの仕事以外の生活、本人が考える「生きる」ことへの態度が影響しているのか。置田さんが職にしているクリエイティブ業とそれらの距離感や、様々な職業がある中でデザインを選択した理由。また近年、クリエイティブ業で活動しやすい都市から、島へ移住したことなど。さまざまなことが彼の中でどのように繋がっているのか、妙に気になりだした。たぶん、置田さんがなにを大切にしているのか、それをどのように世界で表現しようとしているのか。それが気になっているのだろう。そんなことを前日に思いながら、大阪からほど近い淡路島に冬木遼太郎と二人で話を聞きに行った。

(山本正大)

1.

山本(以下 Y)僕は副手というか、何ていうんだっけ、ティーチングアシスタントとしてグラフの授業にいてて、そこで置田さんと知り合って。

冬木(以下 F)じゃあ最初は授業アシスタントと先生っていう関係で、置田さんがグラフから来られてて。そのあと山本くんが入って?

Y そうそう。結構無理やり入らせてもらった時に、口聞きしてくださったのが置田さんで。

F 無理やり?そうなの?

置田(以下 O)割と強引やったね。ガンガンきてた。

Y 本当に、弟子にさせて下さいくらいで。なぜかグラフの事務所に毎日来てるみたいな。

F そんな感じなんだ(笑)。

Y そうそう。で、置田さんが服部さん※2とか上の方に掛け合ってくれて。そのままはちょっとっていうのが多分あっただろうし、どうしたらいいかっていうのを考えて下さって。

O 1階のフリースペースみたいなところでね。あの時期はなかなか大変だったね。 

Y そこから何とか入らせてもらったけど、本当に何もできない状態のままいてるし…

R それは、「デザインの仕事させてください」って? もう少し広く?

Y もうちょっと広い意味で。勉強っていうと働くものとしてよくないけど、ディレクションとか企画を学ぶつもりで。あの時はグラフのビルの1階がフリースペースで、植物の販売だったり自社商品をどうプロモーションするかとかを、置田さんが中心になってやってて。

F じゃあ何年ぐらい一緒にやってたの?

Y 1年半か2年..グラフでお世話になったのは1年半くらいかなあ。まあ無理やり行ってた時期も合わせたら2年くらい(笑)。

F それで、いざ入ったら何から始まったの?

Y どうしていくかっていうのも一緒に考えるかたちで始まって。置田さんが「どうするつもりなん?」って聞いてくれて。で、僕も「こうやと思ってるんですけど、無理ですかねえ…」みたいな(笑)。おかしな就職だよね。

F 強気やね。

Y 僕の勝手な想像だけど、そのとき裏で置田さんが色々と動いて下さっていたんだなっていう。まあ、すごく勉強させていただいて。今回それこそ、置田さんに話を聞きに行こうと思ったのも、僕のディレクションすることに対する意識は、やっぱり置田さんがやっていたことがあるんだろうなっていう自覚はあります。そういう思いがあったのと、あとは最近移住されたっていうことも気になって、今日は話を聞きに来ました。

置田さんの自宅兼オフィスの前にて

Y 最近ウェブに投稿された記事や本を読むと、例えばこのあいだまでやっていた展覧会とか直近のできごとだったり、いま流行っているものについて書かれている。で、それが何らかの媒体に載るっていうかたちが圧倒的に多いなと思っていて。東京の展覧会とかを見てても、集客するための展覧会が凄く多くなっているように感じていて。でもなんというか、そういった時間の速度とは距離をとって、ちゃんと自分で考えて作ってアウトプットしている人はたくさんいるのに、その人たちの話す言葉ってあんまり聞く機会もなかったり、読む機会も多くはない。それこそアーティストやクリエイターはすごい考えてるし、面白いのはアウトプットされた作品だけじゃないっていう中で、ちゃんとした話を見聞きできたら楽しいなっていうことを、最初にバーズのメンバーで話してる時に僕は言ってたんです。で、そう考えたときに、置田さんは所謂グラフィックデザイナーがやっている仕事の領域よりも、もう少しディレクションに寄ったというか..

O 多分そうだね。一応肩書きはグラフィックだけど、自分でもそこまでグラフィックデザイナーっていう意識はないし、周りからもなんか色々やってるんだなって感じに見られてると思う。それはそれで面白いかなと思うし、グラフィックデザインも写真家も多分アーティストも、今はそれだけで食べていくってなかなか難しいよね。実際、それだけをやってる人って減ってきてると思うし。時代のいろんな変化に対応できなくなってきてるのは、やっぱり旧来の枠組みにとらわれている人達だとは思うんよね。まあ一部のトップスターは知らないけど、例えば写真家でもやっぱりファッションしか撮らない人が、コロナでロックダウンした状況でそれしか撮れなかったら、もう仕事はないわけやん。でも、どう言われようとファッションも静物も撮るし、雑誌の取材に行ってたりもした人たちの方が今でも仕事を回せてるし、色んなことを経験してるから幅も広くなっていってるよね。動きの早い世の中、どんな状況になっていっても生きていけるサバイバル能力というか生命力というか、そういうものが何より大事やと思うね。

F 今日、ここに来る前に置田さんのホームページを山本くんから送ってもらって、そこに載っているお仕事は拝見したんですけど、最初の業界の入りというか、経歴は何からだったんですか?

O グラフィックだね。でも大学は美大とかじゃなくて、高校や大学くらいまで自分が何をやりたいかはよくわからなかった。というのはウチの周りがみんな税理士だったり弁護士だったり、そういう勉強系の職業の人が多い家系で。で、行ってた学校も進学校だったから、どっちかいうと勉強ばっかりしてた。 部活もしてたけど、アートやカルチャーに触れる機会はそこまでなくて、そういうことで仕事になるかどうかもあんまりわかってなかったし。それで、大学は東京に行って、フォトショップとか、マックとか色んな機械を買ったんやけど、そこからそういう世界に入っていった。デザイン事務所でバイトしてるうちに「あ、こっちの方が面白いな」って。周りはみんな企業に就職していく中で、自分は全然授業出ないでそういうことばっかりやっていて。で、結局そっちに行ったみたいな。大学卒業していきなり独立して、友達と事務所始めたからね。

Y ええ、そうなんですか。

O なんかその、第一次スモールオフィスブームっていうかね。

Y そんなんあったんですか。

O 若手のグラフィックチームが結構出だしていた頃で、ええと、知らんやろなあ…「GAS Book(ガスブック)※3」っていう、媒体はDVDかビデオだったんだけど、そこに若手の色んなクリエイターが作った広告やビジュアルイメージを集めたものがあって。で、その大半は個人で始めたようなやつらが面白いものを作ってた。僕が仕事をやり出した時期はそういうものが出来だしたりして、丁度ウェブの仕事が黎明期だった。フラッシュ※4でちょっと動かしたりすると、すごいって反応で、何十万も貰えるみたいな世界だったんだけど。古くからやってるデザイナーって、考え方がもう紙しかないからウェブにはなかなか参入できなかったんだけど、僕らの世代ってちょうど紙とデジタル両方の合間みたいな時期だったから、ウェブにもあんまり抵抗なく入れた。で、グラフィックもやってたけどお金になってたのはほぼウェブのフラッシュだったりサイトだったり。実はそっちを結構作ってた。そういう仕事をやる会社を同じデザイン事務所でバイトしてた友達と無謀にも、しかも5人で始めて。「3dl design(3デシリットル デザイン)」っていう、なんか変な名前でやっててんけど(笑)。それがだんだん上手くいくようになったりして、ちょこちょこ大きな仕事とかもやり出すようになった。その頃にフリーでやることの面白さっていうのは感じてたね。まあ、しんどかったけど。

Y で、もう既に事務所はやってたのに?

O 事務所はやってたけど、とにかく働き方が不健康だった。運動しないし、ずーっとパソコン見てるし。クラブとかすごく好きだったから、そんなところばっかり行ってたけど、まあ不健康。で、大きな仕事がちょっとプツっと切れたタイミングだったり、ずっと一緒にやってたけど少し仲間割れみたいなのがあったりとかで、一回リセットしようというか、解散しようってなった時があって。

Y それがいくつぐらいのときですか?

O まだ25、6ぐらいかなあ..渋谷の結構家賃が高いところに事務所を構えて、だんだん上手くいってたけどこの先は限界あるなってみんな思い出して。もともと技術的な下地がすごくあったわけじゃなかったからね。僕自身も付け焼き刃でやってたけど。ちょっとしんどいなってのもあったし、仲間割れみたいなこともあって、「一回辞めよう」ってなって。で、辞めてみて、その時はこれからまたデザインを追求しようという気にそこまでなれなかった。それはひとつには、広告関係の業界の、例えば受発注の仕組みのようなものが見えて、なんかおもしろくないなって思ったり、こういう世界なんだって見えたものが、あまり本質的じゃないなって。その、「本質的じゃないな」って思うことが大きかったかな..多分それがすごく大きかったんだと思う。その頃に自分がハマっていったのは、ホールアースカタログ※5とか、結構スピリチュアルな方向。地球のこととか、アースデイ※6っていうイベントがあるんだけど、そういうものに行ったりしてるうちに、段々ちょっとヒッピー系の奴らと仲良くなっていって(笑)。でも僕はそっちの方が本質的だと思ってたし、要はヒッピー的な考え方の方が世界が良くなると思ってた。それで、そういうのに結構どっぷりいってた時があったね。その時はもう肉体系のバイトとかしてたからね。

Y 打って変わって(笑)。

O なんか配管掃除みたいなことをやったりとか。でも、それも自分の限界を知りたいっていうか、一日中オフィスにいてクーラーが効いた中でデザインの仕事してるのが人間じゃないでしょ、みたいに思っているところがあって。それって動物として変だと。それよりも体を動かす方がいいし、日雇いとかだとそのまま日当を貰える。これってめちゃくちゃ「生きる」っていうのに近いなって。それで、そういう働き方と考え方にハマってた時期があって、だんだん日本が窮屈で嫌になってきて、海外に移住したいなと本気で考えるようになって。そのためのお金を貯めるのに東京だと難しいから、実家のある大阪に帰った。それで実際半年くらいヨーロッパで放浪したり暮らしたりしたけど、結局日本に戻ってきて。戻ってきてしばらくしてグラフと出会った。しかもグラフと出会ったのもデザインの部門じゃなくて、gm※7の部門が面白いと思ったんよ。スペースを持ってイベントをやって、お客さんの顔が見えて、ダイレクトにコールアンドレスポンスがある場をつくるっていう、そういうことの方がすごく生き生きしてて楽しそうだと思った。

F グラフの中の、スペースで何か企画をする部門がgm?

Y うん。それが、gmさん。だだっ広いスペースがあって、そこで展覧会の企画とか音楽のイベントだったり色々やってたんですよね。外仕事でもキュレーションとかはやられてたけど。

O そうそう。だから、山本くんが入る前のもっと前に、僕が入った頃はグラフビルがあって…グラフビルは知ってる?

F 知ってます知ってます。

O あのビルが一棟あって、そこに工房やレストランがあったり、事務所とかショールームがあったりしてた。その横のビルの1階に広いスペースがあってそこがgmっていう部門で、イベントをしたり現代アートのギャラリーみたいに展覧会を回していったりとかをしてたんよ。しかも作り方がグラフの特徴を生かして、建て込みをする。巨大迷路みたいのを作ったりとか、すごい建て込みをして。志賀理江子※8ちゃんっていう写真家の展覧会を見て僕はグッときたんだけど、その展示も空間の中に更にもう一個部屋を作って、真っ暗にしてやってた。そういうのも含めて面白いと思って。だから、グラフィックデザインを求めてグラフに入ったわけじゃなくてそっちに興味があった。

Y そうだったんですね。

当時のgmのギャラリースペース(Chez Andreas och Fredrika展 2006-2007)

O でも、実際に入って自分も企画をやっていくうちに、こいつはグラフィックデザインをやってたんだっていうのがだんだんバレてくる(笑)。そうすると、「展覧会のチラシ作って」から始まって。こっちにグラフィックチームの仕事も少しずつこぼれ出してくるようになってきて。だから、企画をしながらそれ以外の仕事もやってた。gmは人が見にくるスペースがあるから、土日はずっといないといけない。月曜日は休みなんだけど、グラフィックのクライアントワークも同時にやってたから、月曜日はそういった仕事をしてた。だから本当に休みなかってん、数年ずーっとほぼ会社におったみたいな。でも、めっちゃ面白かったけどね。

Y なんか、当時の作家さんがグラフで展示する時は、置田さんの家がレジデンススペースみたいになってたって話を聞いて。

O そうそう(笑)。なんで知ってんの、それ?

F なんかもう、全部仕事してるみたいな感じですね。

O そうやねえ…しかもグラフから前の家まで結構遠かったんよ。当時、天王寺あたり※8に実家が貸してた長屋があって、そこに住んでたんだけど、「アーティスト泊めてあげてよ」みたいな感じになって。「遠いですよ」って言ったら自転車2台用意されて(笑)。

2.

Y 置田さんの中でグラフィックデザインとか何かを作る時に、そういったレジデンスであったり、直接仕事には関係なさそうな色んなことをやってるわけじゃないですか。そのあたりって今の仕事に影響はあるんですか?

O それはあると思うなあ。どういう影響があるかっていうと、やっぱりその場をどう生かすかっていうことを、どうしてもすごい考えてしまう。だから単純に、グラフィックが強くて勝ってりゃいい、みたいな回答にはならないというか…グラフィックデザインバリバリの人って結構グラフィック単体で勝負しようとするから、ともすればグラフィックはすごい立ってるけど内容と全然あってなかったり、内容はショボいけどグラフィックは立ってて、そこで引っ張ろうとしてるみたいなものが結構あるんだけど、どうしても僕はその内容を見るというか、どう内容と融合していくかを優先して考えてしまうクセが強いかな。まあ、もともとすごい絵が描けるとかかそういうタイプじゃないみたいな部分もあるんだけど。でも、グラフィックだけ抜き取って「すごいポスターでしょ」みたいなのはちょっと、あんまりそれがいいのかどうかはわからへんな、みたいな。

F あらためてさ、ディレクションって何?別の言葉で言うと何になるんかなって。山本くんもディレクターだよね。全部を見る人…みたいなことなの?

Y あー、でも今日話をしに行くから、じゃあ僕はディレクションって自分が何を考えてるんだろうって改めて思って。で、昨日ふと思ったのが、例えば事業とか何かをやる時に、まず最初に「何をしたいか」っていうような目的地を決めることが多い。で、そこにどう辿り着くかもあるけど、その目的地よりもうちょっと先に行くためにはどうすればいいかっていうことも歩きながら考える、みたいな。メンバーはみんないっぱいいる中で、目的地がズレたらおかしくなるし、そこに行くための方法は考えるけど、最初に考えてたことからも、もうちょっと先に行く気がしてて。

F 例えば最初の目的地が「展覧会をしましょう」だったら、もうちょっと先は何?より良い展覧会?

Y より良い展覧会なのか…大元にある作家がやりたいことを聞いて、それだったら展覧会もやるけど、こうした方ががやりたいことに近くない?みたいな。なんていうのかな、解答の出し方はより良い展覧会だけではないと思う。

F なんか単純にさ、「新しい製品を作りましょう」っていうことのディレクションということだったら、デザインや費用、販路とか全てを見てる人がディレクターだと思うけど、おそらく置田さんや山本くんのディレクションは、もう少し違いますよね。

O やってることは結構広いかな。人との付き合いもめちゃくちゃ重要だし、例えばクライアントも含めてプレイヤーも何人か集まってチームで話す時に、なんかちょっと喋りにくいとか、空気悪いなと思ったら良い雰囲気にしていかないといけないから。ディレクターっていう言い方が正しいのかわからないけど、自分はそういう仕事もディレクションに含まれてると思ってる。それはまず目的地に行くためのディレクションをするっていうことで。ディレクションってのはやっぱり、それぞれの方向を向いている人たちに「いや、こっちでしょ」って言わないといけない。その仕事でもあって、時には付いて来いよっていう仕事でもある。でも、強引に付いて来いって言って嫌われてしまうとよくないから、あいだを繋げることもしないといけないし。あとはやっぱり自分もゴールを見ているなかで、クライアントさんが描いているゴールを、「ここに持って行きたい」っていうところを聞き出すことからディレクションは始まる。言うのが下手な人もいるのでそれを聞き出して、そこに向かうための全ての責任を自分が持つっていうか、そういうところが結構大きいんよね。で、グラフィックっていうのは、自分にとってひとつの武器だし、道筋を描くときや目的地を共有するときにものすごく強力なツールとして機能するんだけど、でもやっぱりあくまで1つのツールとして捉えてるというか…目的地に向かうためにはこういう方がいいんじゃないか?っていう色んな道筋を常に考えるようにはしてるってことかな。

Y 道筋を考えることをもう少し掘り下げて聞きたいんですが、話の端々に聞こえる人との関係性というか、話し合う場だったりコミュニティだったり、なんか置田さんはそういうことをすごい大切にしてるんだろうなってことを思ってて。そのあたりはなにかあったりするんですか?

O ええと、何?周りの人を大切に?

Y なんというか、ディレクションしたり仕事でグラフィックをやること以上に、自分の立ち位置や状況を選ぶとか..

O いま話してて思ったんだけど、さっきのディレクションの話でいうと、ある目標を提示されてそこに向かうっていうこと。で、それを成功に導くってことは散々色んなことやってきて、まあ自分でもある程度できるとは思ってる。でも、結構それに飽きてきたっていうか(笑)。「それはあなたの目標でしょ」って。相手と僕の目標がズレてる場合でも、仕事として受けたら僕は手伝わないといけないわけやん。いまの自分のマインドからすると、服屋さんの服とかもうどうでも良かったりする、正直に言うとね。もちろん洋服でも、すごく真剣に向き合って作ってる人達もいるし、エコだったり新しい視点に目を向けているものもあるから一概には言えないけど、既に世の中にあるのと同じようなものを売ってる会社の側が、そういう商品の売り上げを上げたいっていう目標があっても、自分がそれに対してディレクションして持っていくってのは、もう気持ちの面ではほぼないわけよ。本気で入れない。チームを導くためとかさ、お金をかせぐためみたいなんでやるんだけど、正直どうでもいいと思ってる部分があるというか。だけど、普通だとそういった仕事をしない限りお金は入らないわけで、会社員ってそうやんか。でも、そういった仕事を本当に心底愛せてるかどうかっていったら、ほぼ自分にはもう気持ちはない。でもやっぱりそこから抜けたらお金は入らないから、暮らしていけないからっていう理由で続ける。自分もそれは怖かったから。もし若い頃だったら「もうやーめた」ってきっぱり辞めていたけど、子供もできて家庭も持ってたから、それ以外のことでどうやって食えるかみたいなことを、やっぱり徐々に実験していくしかなくて。本当に自分のやりたいことでやっていけるかっていうのを色々実験していって、そのひとつがelements(エレメンツ)※10だったりする。elementsをやってみて、あんなに訳がわからないものでも、それなりにファンができたりとか、展覧会ができたりとか、本が作れたりとかしてる。こんな難しいテーマでも響く人いるんやって。で、周りを見てても、滋賀県にあるNOTA SHOP※11とかも、ド田舎ですごいぶっとんだお店をやっている。立ち上げ当時、「こんなとこでこんなエッジ効かせて誰が来るんやろう?」って正直心配してみてたけど、今やインスタや口コミで勝手に話題になって、ものすごく賑わってる。それをみて、今の時代、一見変わったことでも自分の信じるものを愚直にやり通すことが結局一番大事なのだな、と。そういうのを見たりとか、いろんなことでちょっとずつ、いけるんじゃないんかっていう確認を段々作っていって、新しい生き方へのソフトランディングを徐々にしている状態。

elementsでの制作風景

F 山本から話をたまに聞いてたんですけど、それこそ豊嶋さん※12がグラフを抜けられて、そのあとにやっぱり豊嶋さんに付いていったというか、同時期に東京に行った人は何人かいて。でも「単純に仕事をする環境で色んなものが近くにある点では東京とか大阪がいい、でもそういうかたちじゃないことを置田さんは考えてて、また違う場所を選んだのが僕は気になる」って彼は言ってたんですよ。

Y 必ずしも仕事をしやすい状況ではないと思うんですよ。クリエイティブ業とか、バリバリお金を稼ぐことをやりやすい場所ではないところに敢えて移住したんだなとは思っていて。けど、いま言ってた価値や資本じゃないところで選ばれている。「それに飽きた」っていう言葉をさっきは使われてたと思うんですけど。

O 飽きたっていうのもあまり良くない言葉だとは思うんだけどね。だけど独立はしてて、自分の舟を走らせてるつもりだったけど、よく考えたら、こう、巨大な船があって。結局みんな大きな船に乗ってるわけよ。で、どこに進むかもわからない。もしかしたら、ずーっと前の方にいる人が舵を取ってるかもしれないけど、もうその人は見えない。ほぼみんなそこに乗っちゃってるわけで、ずーっと先の見えない舵について行ってる。それで、僕は自分が独立して自分の舟を漕いでるつもりだったけど、気がついたらその大きな船の後ろで、おこぼれを貰ってただけっていう状況。ファッションの仕事をしてたり、飲食の仕事のディレクションをし たりしても、もし大元がダメになったら自分も一緒に倒れてしまう。まさに今のコロナだったり、世の中の変化が急に起きた時に、結局自分も一緒に死んでしまうなっていうことに気がついて。

Y わかります。

O でも、豊嶋さんもそういう気持ちはあったんだろうね。グラフをやめてgmだけでやっていくっていう時も、そういう気持ちがあったと思う。でも、豊嶋さんは自分で食える状況なんよ。自分一人で小さい舟でビューって行って、何かを獲れる。だけど、自分にはその力はまだないなと思っていたから。で、僕が一緒についていかなかったのは、モリを持って狩りをする能力が自分にまだないのに、ただ付いていって船にいても、例えば豊嶋さんが急にいなくなった瞬間とかに難破するんじゃないかって思ったんよ。だから僕はトレーニング期間を持とうと思って。それがグラフでグラフィックであったり色んなスキルをつけるっていう期間だった。で、ある程度スキルがついて独立して、いわゆるグラフィックデザイン事務所としてガンガン仕事してた期間があって、それも結局は、さっき言ったように大きな船の後ろでおこぼれをもらっている状態だと気づいて、やっぱりこのままじゃあかんなって。そろそろ自分でモリ突きに行きたいなって(笑)。

Y やっぱりモリを突きに行きたいと(笑)。

O だって自由やん。自分で道を決めれるわけで、生き方だって決めれる。でもみんなが乗ってる船にいたら、平日は常に電話に出ないといけないとか、いろんなところに挨拶に行かないといけなかったり、いろんな社会のルールがあるやんか。それがめんどくさいなって(笑)。単なるルールみたいなものは本質的じゃないし、それに従属させられてるっていうのは嫌で。だからそこから抜ける方法を徐々に作っていって、ここに来たんだけどね。 

3.

Y それとはまた別で、置田さん自身が信じてたり、好きなことをやっているファッションや飲食の方とか、それこそアーティストでもいいんですけど、そういう人と出会えたら一緒に仕事はしたいなっていうのはあるんですか?

O そういうのはあるよ。あるし、一緒に仕事する仲間は本当に欲しくて。しかもその人も何かスキルを持ってて、志を共にして一緒になんかやろうっていうのはいいと思う。けど、育てていくみたいなのは元々あんま得意じゃないし、ちょっと今はしんどいなっていうのもあるかな。でも、一人でやりたいわけではない。本当はここに来て何人かでやってるのが理想。楽しくしたいし。同じビジョンをある程度共有しながらね。あとここに来てもう1つあるのは、そういう自分でモリを突いてる人たちがいっぱいいてるから。そういう人たちは自分の舟を漕いでるから、喋ると面白いよね。でも前に奈良の生駒ってベッドタウンに住んでたんだけど、そこで出会う人たちはほぼ乗組員だから、やっぱり話してても面白くないわけよ。全然張り合いがないというか、探り合ってるサラリーマン特有の感じで。いろいろあるよね。あと同調圧力みたいなものも、この場所まで来たらほぼない。平日の昼間からウロウロしてる働き盛りの人って、都会だったらちょっとあんまりいい目で見られへんかったりするやん。そういうのも別にないし、そもそもここだとそんなに人に会わないし(笑)。僕は意外に気にしてしまうから、ここなら自分の好きなようにやれる。でも、そういう他者の目を気にしないと多分ディレクションってできないんだよね。気にしない人だったらオラオラでいっちゃうから、いいディレクションはできない気がするなあ。でもさっき言ったように、ここはやっぱり自分で生きていく能力がないと厳しい場所だから、そういうのは最低限つけた上で、共感のできないような旧来型の受け仕事っていうのを極力少しずつ減らしていって、ここでやる企画だったりとか、自分ともっと一致していることで最低限稼げたらいいかなって。別にお金持ちになりたいわけではないから。あとはこういうふうに、人が来てくれる時間を大事にできるようにしたい。みんな忙しすぎるんよね、周りのデザイナーも優秀な人が多いからなのか、独立して優秀になっていけばいくほどみんな時間がなくなって、全然会ってくれないようになったりとか。

Y わかりますわかります。なんていうんでしょう、仕事の付き合いの方が大切だから、例えば、僕が友人の事務所をフラッと訪ねていっても、まあ無視まではいかないけれど。
 
O そうそう。みんな仕事に強迫観念を持ち過ぎてるよね、本当に大事なことっていうのを見失いがちやんか。ゆっくり時間をかけて友達とかと話すのって、自分もできなかったけど、それはあんまり嫌やなと思って。
 
Y 置田さんとか横山さん※13とかエレメンツのメンバーって、田舎に移って色々されてますよね。最近横山さんのフェイスブックを見てても、繊維工場行ったりとかいろいろ上がってて。

O 変な動きしてるよね。横山は予測不可能だから、僕もよくわからない(笑)。まあでも楽しくやってるし、多分向かってる方向は似てる気はしてるけどね。彼もデザイナーとしてはもちろん力もあって、もっとバリバリやっていこうと思ったらやれるけど、そっちじゃないなってのは思っているところなんじゃないかな。あと、この場所に移ってきたことに関して言えば、他の人が参考にしやすいようにしたところはあって。デザイナーとかがむしろかっこいい仕事をするのにこっちに移ってくる、みたいなことのモデルではないけど、かっこいい仕事をするのとこういう田舎に来るのって、どっちかを捨てないといけないように見られがちで。けど、俺はそうじゃないんじゃないかなって思ってて、全然両立できると思う。むしろ時間の余裕がある分できることとか、広いスペースがあるから可能なことがあるんじゃないかと思っていて。単純なスケールメリットってあって、なにか作品を作るとしても、 どうしても人間ってその場所で考えて作ろうとするから、 都会の小さな事務所で作るものの大きさって限られてくる。 小さな部屋でバカでかいものは作れない。

Y 普段から想像もあまりしない大きさだから。

O しない。だから都会のプロダクトデザイナーがつくるものって、どうしても似通ってくるところがあると思う。それを打破するのに、環境をガラッと変えるというのは、ひとつの手段だとは思うな。 発想の面でも広がると思うし。

自宅兼オフィスの後ろにはなだらかに小高い山が連なっている。海岸までも徒歩10分くらいで行くことができる。

F あとは、単純に街に飽きたっていうのもあるんですか?

O あー、あるね(笑)。

F 飽きますよね。

O なんというか、街ってお祭りみたいな状況だと思うねん。屋台の出店みたいに店が常にいっぱいあって。本当はその状況は夏休みだけのもので、普段の日常はそうじゃないっていう方がいいんだけど、やっぱり街で仕事をしてると、ずっとお祭りを味わってるみたいなことになっちゃうから。その有り難みも感じなくなってくるだろうし。僕は田舎に住んでてたまに街に出る方が、「街ええな」みたいな感じになるし、断然そっちの方がいいんじゃないかって思うけどね。

F そうですよね、そんなに飲みに行きたくないのに行ってしまってる時とか。あかんなあって(笑)。

O それは誘われて?

F 誘われてもありますけど、なぜか自分がまっすぐ帰るのがイヤみたいな感じですかね。

O わかる(笑)、あるある。それでなんか買ってしまったりとかね。あれって誰が考えたんやっていう凄い仕組みよね。

F 「まっすぐ帰るのイヤ、なんかイライラする」と思って、友達のご飯屋さんで一本だけ飲もうと思って行ったら、もう11時半になってたみたいな。でもニューヨークにいてた時は、意外と飲むところも日本ぐらいここまで多くないし、11時ぐらいには閉まるし、コンビニみたいなのも全然24時間オープンじゃないけど、なかったらないで全然いいんだって。

O この場所なんて一見めんどくさいんだけど、ここを選んだのはそういう時間に関してもテーマがあって。草刈ったりとか、果樹を植えたりといった環境を整えることも運動になるから。多少なり自分のスペースを良くしたりとか、果樹を育てたりするなかで運動することで、時間やお金の効率を良くしたいっていうのは実はすごい裏テーマとしてあって。都会だとジムに行くのにお金使ったりとか、ストレスが溜まったらその解消で何か買ったりだとか、会社に通うのに片道1時間かかるとか、そういった無駄やどうしても不健康になるリスクが色々ある。だから、そういうのを全部取っ払いたくて。奈良でもわりと家の近くに事務所は借りてたけど、その距離すら無くしたくて(笑)。いろんな無駄を無くしていったら、結構面白いんじゃないかなっていうのは裏テーマにあるかな。で、この場所が魅力的だったらいろんな人が来てくれるから。さすがに田舎でずっと自分の家族だけだと刺激は少ないけど、今日みたいにいろんな面白い人達が来てくれる状況になれば、全然その方がゆっくり話せるからね。まだ住んで2、3ヶ月やけど、これからの楽しみがまだまだあるね。

(2020年8月25日)

○注釈

※1 graf(グラフ):大阪を拠点に、家具・空間・プロダクト・グラフィックのデザインから食、アートにわたって様々にクリエイティブな活動を展開している会社。置田さんと山本が働いていた。https://www.graf-d3.com/

※2 服部さん:服部滋樹さん。 graf代表、クリエイティブディレクター、1970年生。

※3 Gasbook(ガスブック):1996年に、日本のエーアンドピーコーディネータージャパン株式会社から創刊されたマガジン。様々なクリエイターを紹介するコンピレーション形式で、Macromedeiaのオーサリングソフト Directorを使用したCD-ROMマガジンとして創刊された。その後も形態を変化させながら、グラフィックアートを中心に、クリエイターを起用した書籍やTシャツ等をリリースするレーベルの総称になっている。

※4 フラッシュ:正式名称は「Adobe Flash(アドビ・フラッシュ)」。アドビシステムズが開発している動画やゲームなどを扱うための規格。元の開発会社はマクロメディアで旧称はMacromedia Flash(マクロメディア・フラッシュ)。2016年にAdobe Animateに名称を変更。本年2020年12月にAdobeがFlash Playerの開発と配布を終了する予定であると発表した。

※5 Whole earth catalog(ホールアースカタログ):1968年にスチュアート・ブランドによって創刊された雑誌。ヒッピー・コミュニティのための情報や商品を掲載。『宝島』や『POPEYE』などの日本のサブカル誌にも大きな影響を与えている。

※6 「Earth Day(アースデイ、別名:地球の日):地球環境について考える日として提案された記念日。4月22日がアースデイとして広く知られているほか、それ以外のアースデイも存在する。

※7 gm:2001年~2009年の間、graf独自の観点で運営されていた、ギャラリーやワークススペース、ショップスペース、ライブラリーなどを併設した“場としてのメディア”。草間彌生との家具企画制作「YAYOI KUSAMA Furniture by graf」(2002) 、奈良美智との合同企画展覧会『NARA YOSGHITOMO+graf A to Z展』(2006)等、多数の展示企画を行う。現在は、『gm projects』と名称を変え、ジャンルにとらわれず様々なプロジェクトを立ち上げている。

※8 志賀理江子:写真家。1980年生。

※9 天王寺:大阪府大阪市天王寺区南部と阿倍野区北部に広がる地域。

※10 elements:置田さんが井上真彦さん、横山道雄さんとともに行なっているプロジェクト。“ものづくりをするプロセスにおいて、私たちの周りに存在する様々な現象や要素を探求していくプロジェクトです。それは、私たちがこの世界とどのように関わってきたのかを解剖し、自分たちも世界のひとつのエレメントであることを実感する試みでもあります。(elementsウェブサイトより抜粋)”
http://elements-p.net/

※11 NOTA SHOP:滋賀県の信楽にあるお店。陶器を軸にライフスタイル全般のデザインから制作、販売を行なっている。加藤駿介さんと加藤佳世子さん、お2人のデザイナーが運営されている。
https://nota-and.com/

※12 豊嶋さん:豊嶋秀樹さん。1971年生。1998年graf設立に携わり、2009年より「gm projects」の メンバーとして活動。作品制作から空間構成、ワークショップ、イベ ント企画など、多彩な活動が注目を集める。奈良美智とともに 「Yoshitomo Nara + graf A to Z/弘前」を共同制作したほか、キュレーション等の様々な企画にも携わっている。

※13 横山さん:横山 道雄さん。1980年生。2005年 grafを経て、2014年 KUMA/ MICHIO YOKOYAMA DESIGN STUDIO設立。グラフィックデザイナーとして、菓子ブランドのコンセプトデザイン及びディレクション、和ろうそくやお米農家のパッケージデザイン、演劇の宣伝美術、装丁などを手掛ける。また、CHANCE MAKERによる‘Inspiring People & Projects’など様々なプロジェクトにも参加。置田さんとともにelementsのメンバーとして活動されている。
https://www.michioyokoyama.jp/

吉田山

プロフィール

吉田山(よしだやま)
散歩詩人
富山生まれアルプス育ち。都市が持つ複雑なストラクチャーを内面化し、表現へと結びつける。2018年に「同路上性」をテーマに掲げるギャラリー&ショップFL田SHを立ち上げ、展示の企画と運営、コンセプト管理をおこなう。また、パフォーマンスコレクティブのKCN (kitchen) のメンバーとしても活動している。

近年の主な活動に、
アートフェア「DELTA Experiment」 (FL田SHとして出展、2020)
「芸術競技」 キュレーション (FL田SH、2020)
アートプロジェクト「インストールメンツ」企画 (投函形式の展示、2020)
アートフェア「EASTEAST_Tokyo」 (FL田SHとして出展、2020)
「RISO IS IT」 (渋谷PARCO OIL by 美術手帖、2020)
KCN企画「台所革命 January revolution」(Gallery X、2020)
「大地の芸術祭2018」(新潟、2018) 等。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




1.

冬木(以下、冬)この前のアートフェアのデルタ※1でしたっけ?あの時のギャラリストの方たちによるトークを山本と2人で聞きに行ってたんですけど、彼が「なんか一人全然違うギャラリストがいる」って言い出しまして。割と皆さん真面目というか、ギャラリスト然としているというか。そんな感じだなあと思いながら聞いていたんですけど、後列の吉田さんに話が回った時に「この人なんか違うぞ」って僕も思って(笑)。大学が同じということもあって、LEE SAYAの李さん※2は以前から知り合いだったんで、僕たちはそれで見に行ってたんですけど。

吉田山(以下、吉)そうだったんですね。

「なぜかあの人が気になってる」って山本が言っていて、じゃあ今回ちょっと話に行かせてもらおうと。そしたら、川良さん※3も知り合いだったから、お願いして繋いでもらってっていうのが流れかな?

山本(以下、山)そうだね。

わかりました。そうですね…僕ともう一人でやってた「FL田SH(フレッシュ)」※4っていうスペースを始めたきっかけは、間借りで割と安めに場所を借りれるってことになって。それで、借りれるけど何をするかは決まってなかったんですよ。よく考えたら毎月お金を払うだけで使わないかもしれない、みたいなところから始まり、でもギャラリーの内装とかをつくることはできたんで、ギャラリーみたいにしてショップもくっつけるか、みたいな話になって。その時に、例えばオルタナティブスペースだったりアーティストランスペースという言い回しで本流から逃げるというか、様式を避けるような仕組みを自分たちで作らないでおこうと思っていました。できるだけ挑戦的にギャラリーとしての構えも持ってちゃんとやっていこうという話になり、PR活動や展示を作るときはフォーマルに則っていくことは意識的にやってました。でも、個人的な内情としては別にギャラリストになる気はない、みたいな。

一同 (笑)

それはまあ周りの人たちにも言ってるんですけど。もともと僕自身が、アーティストのアシスタントとかをやっていたりして。

そうなんですね。

今でいう「目」※5っていう作家さんだったりとか川俣正さん※6の、結構ガテン系のアシスタントをやってたんで。

じゃあ増井さん※7ともお知り合いで?

知ってます。

僕も何年か前に京都造形大※8で増井さんと一緒に先生してたんですよ。

そうだったんですね。増井さんには一時期よくお世話になりました。その流れで色々な技術はついたんで、僕自身でいろんな作家の設営やプロジェクトに関わったり、マネージメントや単純に手伝いみたいなことをやってて。で、ふと思ったんですよ、「あれ?なんか周り年上ばっかりだな」みたいな(笑)。

その今まで一緒にやっていた人たちがですか?

そうですね、一回り上だったり。あとはまあ同世代っていっても美術の施工者ばっかりで、すごく世界や話題が狭くなっていっている感じがして。そのような知り合いはたくさんいて、年上世代の人のプロジェクトの手伝いをやっている中で、本当はもっと同世代と一緒にプロジェクトをやりたいなっていうのも何となく念頭にあった時に、場所をやることでそれがひとつクリアになっていった感じです。逆にこのようなインテペンデントな場所に年上の人は呼びにくいから、同世代と一緒に何か作っていくことができるなと。それでギャラリーというかスペースを始めて、2年くらい経ってきたら何となく認知されだして。場所自体はもう無くなっちゃったんですけど、そのタイミングで「デルタ」のようなアートフェアが東京であったんですよ。ちょうどさっき僕らが待ち合わせをしていた場所で偶然出会ったサイドコア※9の人とかが立ち上げた「EASTEAST_Tokyo (イーストイースト・トーキョー)」※10っていう不思議なアートフェアに呼ばれたんです。おそらく僕らは数合わせ的というか、飛び道具的な感じで呼ばれたんですけど(笑)。で、呼ばれて出したらデルタもかなり影響を受けたみたいで。あの、ホームページの形式がぱっと見、一緒なんですよ。だから「あ、僕らはイーストイーストに呼ばれたから、デルタに呼ばれたんだな」みたいな感覚が個人的にはありました。だからトークショーの時も、誰かが嫌な思いをすることでないなら何でも言っていいかな、みたいな気持ちがあったから、「僕は背負ってるもの別にないんで」とか言って。

言ってましたね(笑)。

『EASTEAST_Tokyo』展でのFL田SHブース展示風景(撮影:田川優太郎)

あと、僕の信念というと大袈裟なんですけど、肩書きに縛られたくないというのがあって。例えばギャラリストだったらこうなっていくみたいな形式的なルートがあると思うんですけど、それをできるだけズラし続けたいみたいな。肩書きの輪郭を不透明な状態にしていくことで、なんか自分が常に旅をするというか、ロードムービー的な次に何が起こるかわからない状態をつくり出していきたいなと思っていて。そうして色々やってたら、今回ANB Tokyo※11の山峰さん※12にも声かけていただいて、一緒にやりますかという感じになって。

ちょっと話がズレるかもしれないんですけど、この前に関西に来られてた時の兵庫の芸術祭※13はどういう流れで?

あれはAokid君と橋本匠ちゃん※14っていう2人のパフォーマーが個人的にすごく好きで、仲良くしてるんですけど、その2人から「豊岡演劇祭※15に出るんですけど、第三者を立てないと出演できないみたいなんです」って言われて。Aokid君はインデペンデントな企画を沢山やっているんですけど、これは結構オフィシャルな企画だったんで、コロナの対策等をかなりしっかりやらなくちゃいけないってことで、そのためには制作っていうポジションの人が必要らしいんですよ。パフォーマー2人だけだと色々と怖いと(笑)。それで、舞台には出ない裏方専門の人を探さなきゃいけなくて、「とりあえず居てくれるだけでもいいから」みたいな感じで僕に連絡が来たんです。僕はマネージメントとかも経験してるんで、「どこまでできるかわかんないけど、行きます」と返事して。あとは少し作品にも口出していいかとか、一緒に作っていく状況になったら面白いですね、とか言い合いながら行きました。

じゃあ、そういうかたちで声をかけられて、色んなところに行ければというか。

そうですね。僕の中で仕事というのが、仲良くなるための媒体みたいな。だから、仲良くなりたくない人の仕事は基本的にやらないっていう。まあ1回目から嫌だなっていうのは想定できないんですけど、実際にやってみて、ちょっとこれは…ってなったら考えますね。例えばAokid君や匠ちゃんだったら、今回は手伝ったけれど、逆に僕が企画するときも彼らを呼びやすくなりますし、そういう感じで連携していければ作品やもっと色々なことについても喋りやすいというか。自分の体はひとつしかないんで軸足を芸術には置くんですけど、常にどこに自分っていう駒を動かすか、という感覚ですね。それと、やるからにはギャラリーとしてもちゃんとセールスしたい、それぞれのアーティストの展示をしっかり作っていきたいみたいな気持ちはあります。でも以前に友達に、まさかギャラリストになるとは思わなかったって言われて、自分でも「その気持ちわかる」って(笑)。その時に、これまで自分をギャラリストだと思ったことはなかったと気づいて、でもギャラリストに見られ始めたんだって。思ってもなかったところから、ギャラリストっていう肩書きが飛んできてビックリしたんですけど、「そっか、そういう風に見られるんだな」ということで、尚更そこはしっかりやろうと。

山本君もちょっと近いところはあるんじゃない?

僕もめちゃくちゃ親近感あります。さっきインタビューを録る前に吉田さんに僕がやってることは少しお伝えしてたんですけど、自分が何者でもないからできることってあるなっていうのはすごい思ってて。一応肩書きは、アートディレクターやアートコーディネーター、プロデューサーとか名乗ってるんですけど。

吉田さんも肩書きは色々…

肩書きはその都度、求められてる感じで。でも何も要求がないときは最近、散歩詩人って言ってて…

散歩詩人って、何ですか(笑)?

肩書きって普通は仕事を取るためにつけると思うんですけど、僕の中ではなんかもう、一個の遊びみたいな感じなんです。ルーティーンというか、アシスタントだったりいろんな蓄積があって、肩書きどうこうっていうよりはありがたいことに様々な仕事が来るんです。僕が今度こういう仕事をしたいという希望はあまりなくって、むしろ今以上にそこまで忙しくしたくないなって思ってるんで。なんていうか、仕事が絶対こないような肩書きを..

(爆笑)

絶対に仕事はこないけど、それでももし散歩詩人っていう肩書きで来た仕事は絶対おもしろいなっていう。絶対楽しいやつだと思うし、それをくぐり抜けて声をかけてきた人に出会いたいっていうのもあります。ただ、まだ僕も散歩詩人が何なのか全然わかってないんで、まずは僕の中で散歩詩人が何をするの人なのか考えなくちゃいけないんですけど(笑)。

2.

吉田さんのされていることは、山本と少し近しい部分もある気がするんですけど、そういった”あいだ”のことをやるという人って実は少ないっていうのもあったりするんですかね? 例えばアーティストのサポートや誰かの手伝いというか。ギャラリーも自分からの発端ではあるけど、誰かを発信する側面もあるし。

そうですね、何かを持ち上げるみたいなところはありますよね。結構その、東京でもたまに言われてるのが、アーティストがめちゃくちゃ多いっていう。で、それって日本の教育機関のアーティスト至上主義みたいなものが確実にそうさせていて。まあ映画なんかもそうなんですけど、舞台やダンスの仕事とかを手伝ったりしていて思うのが、携わってる各人が各プロフェッショナルに向かっていくっていうのが、もう全部パラレルじゃないですか。カメラマンになりたい人だったら、カメラマンを目指す。カメラマンの人が実は監督になりたいとか、別にそういうヒエラルキーはない。でもファインアートというかこの業界だと、「実はみんなアーティストになりたいんでしょ」みたいな認識を、暗に学校や上下関係の中から渡され続けるっていうか。

最初からアーティストではない職業を目指してる人はいないだろって、体制の側が言ってくる感じですね。以前はキュレーター学科みたいなものも、ほとんどなかったですしね。

今となってはちょっとずつ研究室は増えてたり、マネージメントの学科も藝大にあったりしますけど、どう考えても割合的には一割にも満たないんで。それはやっぱりなんだろう、もっといろんなものがあっていい気がしますね。さっきの豊岡の話でも、演劇関係の大学が新しくできるみたいで、それに関係して演劇祭をやって街ごと盛り上げようみたいな流れらしいです。

平田オリザ※15さんが学長をされるとか、そういう話が出てるとこですよね。

そうですそうです。確かそこにもマネージメントとかを教える学部ができるらしいです。そういうのがもっとあればとは思いながら、でも一方でそういったことをやりたい人は多分まだそんなにいないとも思うんで。ギャラリストになりたいみたいな話はあんまり聞かないですし。もちろん目立つのは面白いからいいんですけど、教育の中で「目立ってなんぼ」みたいな学びの受け方をしてしまって、それでこぼれ落ちていく人がただ単にどんどん増えていくみたいな状況は…本当はいろんなかたちがあるんですよ。でも西洋中心主義的な何かを中心にすると、そこに行かなければいけないっていうか、自分の場所が外野だと思ってしまう。そこに行かないと幸せになれないようなカルマを背負っていくみたいな。けど、それを背負わせているのは日本の芸術にまつわる教育や社会構造っていうか。

わかります。仰ってるように、大筋の美術や大きな業界にさっき言った西洋美術が目指すものとしてある中で、じゃあ日本って世界的に見たらどの立場でどういう発言ができるかって考えたら、言える人って片手で数えるくらいしか実際いないっていう。で、美大とかで教えてくれる大きな世界が先行して存在はしているが、僕らや知っている周りの人たち、色んなアーティストたちのやりたい目標が、それによって決められるのは腹が立つじゃないですか。だったら違う道自体を作った方が早いなと僕は考えているんで。そういう部分ですよね。

そうですね。そもそも考えているのは、幸せかつ挑戦したいみたいな2つの願望を、いつでもこねくりながらどうやって両立できるんだろうっていうか。完全に今に止まっちゃって幸せだということもできるんですけど、それと挑戦を組み合わせながらやっていくことは可能なのかとか考えながら行動したり。スペースを始める時も、ちょうどその半年前くらいに結婚して。

ご結婚されてるんですね。

あ、でももう離婚したんですよ…世に言うコロナ離婚です…(笑)。結婚した時の話ですが、結婚したら守りに入るというか、一気に閉じる人が多いじゃないですか。でも、僕は逆にこれはチャンスだと思って、「開こう!」ということで、場所を作ったという一面もあるんです。「開かれた作品」※16っていうタイトルの本があるんですけど、それがすごく好きで。簡単に言うと、作品の中にいかに鑑賞者が関わる余地があるかであったり、余裕というかバッファがある作品とか、これってどういう意味なんだろうって考えこむ余地があるみたいなものを総称して「開かれている」っていうふうに著者のウンベルト・エーコ※16って人が言ってるんですけど。じゃあ、自分自身の人生にもその開かれた乱数みたいなのを実装していければ、益々楽しく且つ挑戦的にいけるんじゃないかって。なので、スペースを運営することや展覧会をキュレーションすることも、僕にとっては大枠ではアート活動というか表現活動というか…。そういった色々な選択自体も、アート活動というのが自分の中ではしっくりきています。

なんというか、不思議だなあと思ったのが、スペースを持ってると段々そこに固執していく人って、結構多い気はするんですよ。場所を管理しないといけないとかマネタイズしていくとか、その場所に関連した先々の予定が詰まっているかみたいなことを考えていったりとか。でも吉田さん、そんな感じは全くないですね(笑)。

ええと、なんて言うんですかね、スペースだけで終わらないようにしようとは思っています。スペースだけで考えたらとんでもなく大変なので、他のアート活動と組み合わせて三位一体というか。僕の中でまず何かしらの循環が起きるようにする感覚ですね。自分のアートスペースはもう自分の内蔵だと思って、この臓器に資本というか機能のようなものはとりあえず存在しないみたいな(笑)。もう自分が常に介護しなきゃコイツ(FL田SH)は成長しないみたいな意識でやってたら、ようやく2年経って最近成長し始めてきて。で、なんかいい動きになってきたな、と思ってたら一旦その場所は無くなったんで。

FL田SHのスペース内(撮影:松尾宇人 展示は、金田金太郎 + 時吉あきな 『Imaginary Taxidermy』)

それは期限みたいなものでですか?

ビルの建て壊しが決まってですね。もともと定期借家契約で1年更新だったんですけど、次の更新がなくなりました。で、もともといつか取り壊されるっていうのは聞いていたので、「あ、ちょうど2年だった。やった!」と思いながら。

その時はどちらもあったんですか? まだこのスペースを続けたかったっていうのと、もう1ついま「やった」って言ったような..

続けたいって思いながらも、その場所の仕組みがちょっと不安定だったりはしたんです。間借りしてるという制約上、どんどんスペース運営へのモチベーションが上がっていくことにスペースのキャパが合わなくなってくるというか。僕、こういう話をする時に、ミニ四駆※17の話に例えるんですけど、大体ミニ四駆って主人公の能力が上回って、マシンがもう付いていけないみたいになるじゃなですか。で、次の新しいマシンを博士からもらうみたいな、その感覚というか。素朴に言えばスペースに飽きちゃったっていうのもあるんですけど、この場所自体のスペックがちょっともう厳しいな、みたいな。本当はもっとこうしたいのに、みたいなことを毎回思いながらやっていくことの難しさだったり、場所自体の使いにくさだったりっていうのがあって。随分と勝手に使わせてもらってはいたんですけど、間借りなんで別の方の荷物もあってそれを守る必要もあり、いざ本当に勝手には使えないっていうジレンマはありました。アーティストに鍵だけ渡して搬入や在廊しといていいですよっていうのも出来なかったりして。だから本当はもっとフレキシブルにやりたいみたいな気持ちはあったんです。

さっき言ってたように自分の体はひとつだし、もっと別の場所でやりたいこともあったりして。

そうです。それはそれで良い2年間だったんですけど、やっぱり企画があると基本的にはそこにずっと居なきゃいけなくなるんです。前提として、スペースを始める前のアシスタントや頼まれた仕事を結構やっていた時は、地方に飛んだり、たまに海外に行ったりみたいなことで気を紛らわせてたというか。そういうたまにある旅というか出張の開放感で、僕の人生が保たれていたというか。「お金も全然ないけど、人の金で旅行に行ける」っていう考え方でやっていってたんですけど、29歳になるぐらいに、「これだと一生適当な旅人風情だな」って思いはじめて。そこから結婚もしたし、久々に家も借りた状態になって。それで、この東京に根を下ろしてみようと…。ミニマムミュージックみたいに、”タッタッタッタッ”みたいな状態で小さく反復を繰り返す、小さい反復だけど東京っていう同じ場所でそれを繰り返すことで何か見えてくるんじゃないかっていう賭けをしてみた、というか。

賭けだったんですね(笑)。

始める前は多分自分は絶対飽きてくるだろうし、しんどくなるなと思ってたんですけど、やってみたら色んな人に会えるし、そういうこともなく2年間は過ぎました。なんていうか、元々は「どこかのアシスタントの吉田くん」だったんですけど、逆に「FL田SHの吉田くん」って呼ばれるようになって、「あ、逆に俺がFL田SHに支えられてる人みたいになった」みたいな。僕より名前が変だし、1回みたら結構忘れられない名前なので。実際、僕個人よりスペースの方が全然知っている人は多いんで、「あ、これはもう俺が育てられてんのか」、と(笑)。自分で決めた名前がこんなに色んな人に浸透してくのって結構快感というか。ただ思い返すと、名前がフザケてるように見える分、しっかりしていこうみたいな気持ちはあったかもしれないですね。単純に言えば、大体は行き当たりばったりみたいな感じなんですけど、一応スペースも軸はさっきの開かれてるかどうか、というところにあって。

そのスペースの場合の開かれているっていうのは、関わる余白があるかどうかっていうことですか?

そうですね。余白であったり、お店やギャラリーだったら誰でも来ることができるとか、そういうことも含めてですね。例えば、もっと専門的に美術の仕事だけをしていたら出会えない人や、喋れないこととかがいっぱいある気がして。でも、お店自体が開いていたら老若男女だれでも来ることができる。そうすればお互いにとって、何かしらのチャンスが発生する余地がある。っていうのは、そのスペースを始めようとした時に考えていましたね。「あ、人と会える」、みたいな。それまでの美術の仕事だけだったら、アーティストや美術のプロジェクトを動かしてる人に、「僕こういう能力があって、こういう働き方ができますよ」っていうかたちの提案しかなかったんですけど、今だったらもうちょっと色んな枠組みで動けるというか。こちらから「展示しませんか」という投げかけだったり、「展示して売ることでどちらも成長したり得になるようにしましょう」という提案もできる。今だったら、ANB Tokyoでキュレーションををやった事での経験と出会いがあるから、更に色んな話が生まれますし。

ご自身のことを「アーティストの時は」って話される時もあるじゃないですか。アーティストとして作品を作られてる時もあるんですよね?

あります。作っているんですけど、最近ちょっと思っているのが、キュレーションや企画する側とアーティストみたいな存在を混ぜこぜにできるなっていうのは考えてます。例えば最近、家の中で簡単に壁を立てて、中継設備をつけてオンライン展示を企画※19したんです。で、大阪にいる友達のキュレーターにリモートでキュレーションを頼んで、でも実際は僕がそのリモートキュレーション自体をキュレーションしていて、その下にも僕がアーティストとしている構造。展示としては、僕が2年前くらいに撮ってた映像と家にあるアートコレクションなどを並べて見せるということをしました。そういうもの含めてキュレーションであり作品であり、最終的にマネタイズできればなっていう試みです。

『鱗が目(thinking about roundabout)』展 2020

そのあいだに自分じゃないキュレーターが入ってるっていうことも、必要な要素ということですよね?

そうですね。全部を自分でやると胡散臭い感じなんで。この着想というかアイデアの元が、企画する側っていう仕事があまりエコじゃない側面もあるというか。作家だったら作家としてどんどん作品が売れていって、経済的には充実した生活を過ごせると思うんですけど、今までの様式だと企画する側だったら労働者としての自分の体以外に売っていくものがない。なので、展示企画のアイデア自体を売れるような仕組みっていうのもあってもいいんじゃないかって思って。というのも、僕がその企画のリモートキュレーションをお願いした、いま国立国際※20でアシスタントキュレーターに入ってる檜山真有※21ちゃんっていう子がいるんですけど、その子がまだ東京いた頃に、自分の一回やった展覧会の使用権を売るっていうのをやってて。それを見に行った時に、「あ、おもろい!」と。いつか僕もなんか違うかたちでやってみたいなってことは思っていたんです。そういうふうに、キュレーターだからこの立場にいないといけないとか、それぞれの既成のフォーマリズムみたいなものをじんわり溶かすようなことをやってる人が何人か出てくると、それがどんどん崩壊して、「俺はアーティストだからこれしかやらない」っていうような人が減っていく。そういった立場がどっちでもいいよねって状態になっていくと、各々自分の居場所がもっと見つけやすくなるというか。僕も自分自身がそういう考え方になってから、ずっと躁状態です。どこにでも行って楽しめるようにセッティングし直して、チューニングし直してそこの場所に行くっていう。デルタのアートフェアだったら、一応キュレーターの立場でデルタの意向も考えて、その中で最大限にハメを外す、みたいな感じで。

デルタに出してた時、FL田SHの壁のところだけ違う人種だなと思って見てました。集まってる人たちの雰囲気や、なんというかアートフェアでの展示、作品に対する態度が他のギャラリストと違ってるように見えたというか。

もともと僕らを呼ぶこと自体、ディレクターの人からすると多分挑戦だったと思います。本当に依頼して大丈夫かみたいなところもあったと思うんで。だから、こちらも大丈夫だけれど大丈夫じゃないかもしれないキワのことを丁寧にやるみたいな心持ちでした。

3.

そもそもの初めから、地球を救いたいみたいな大きな話は僕にはやっぱできないんで、自分の身の回りから循環させて持続可能な状態にしていって、それを周囲の人とかと連携取りながらやって、広げていければいいなと。だからまずは僕自身も様々な事柄は気に掛けながら、やりたいようにやることが真理というか、大切だとは思っています。もちろんフィジカル面では要所要所で無理したりもするんですけど、大枠として無理はしないっていうか。

わかります。それが一番色んな人につながるし、救えることにつながるっていう感じですよね。まず自分のことできなかったら、誰も救えないよなって逆になったりもするし。

そうですね。結局それで理想を追い求め続けすぎて疲れてしまうと、人にやっかみを持つ人になっていってしまうんで。自分の存在をいつでも作り直し続けるというか、疑いつつ信じるみたいなことをしないと、考えもガッチガチになるじゃないですか、リフレッシュできないっていうか。かといって、不安になり過ぎると居ても立ってもいられなくて、何かにすがってしまうというか。「(大事なのは)お金だー!」とかになっちゃうんで。そういうバランスを保ってやっていきつつ、やっぱり挑戦もしていく。ただ、どんどんやればやるほど忙しくなるじゃないですか。忙しくなればなるほど、どこかしら体に不調も出たりするんで。で、そうなると「これは多分持続性ないな」と体から自覚する。だから、最近どうやって持続できるかは色々考えているんですけども。

僕も自分が関わっているアートプロジェクトとか、持続しているものについて考えてますね。僕がいなくなってもずっと残り続けてるっていう状況が、なぜか存在してるといいなっていうか。だから、その持続のさせ方が肝にもなってくるなっていうのは思っています。

気楽に何かをやれる場所というか、自分の居場所を作るのは自分しかいないっていうことを、意外と誰も教えてくれないんで…まあそれは自分で見つけるしかないかもしれないんですけど。

いやでも、そうですよね。例えばドクメンタみたいな国際展はわかりやすい、さっき言ってた西洋中心主義のわかりやすいその業界の目標なだけで、あなたがやりたい作品の話ではないよねっていう訳で。そこの関係性に関してはしっかり持っておかないと、なんか面白くなくなっちゃいますよね。

そうなんですよ。もちろん国際展も出たら面白いんでしょうけど、そういう話でもないみたいな。どういう方角を頼りにしていくかは、その人自身の嗅覚と知性の話だと思うんで。僕は僕なりに、ちょっとボートで海を彷徨ってる感じですけど、それが結構楽しいっていうか、「あーなんかいいとこ来たなー」、みたいな状態です。今回のANBの展示は「楕円の作り方」ってタイトルで展示を作ってたんですけど、キュレーターやアーティスト、もう全員が対等な立場でプロセスを踏んでいく、っていうのをやってみたという感じです。既存の作品を借りて来ずにほぼ新作のみだったので、どんな展示になるかを誰もわかってない状態で。なので、もしかしたら大破綻するかも、とも思いながらプロジェクトを進めていってました。個人的には、作家と僕らキュレーション側っていうのが、いかに豊かな人間関係を結び、そして良いプロジェクト空間を作れるかどうかっていう点にしか注力してなかったので、もしかしたらこれはビジュアル的には完成しないかもしれない、っていう可能性もあったんですけど。蓋を開けてみたら意外と展示然としてたんで、一緒にキュレーションをやっていた布施くん※22と、びっくりしたねって。

『ENCOUNTERS』展内4Fスペース「楕円のつくり方」(キュレーション:吉田山、布施琳太郎)
(撮影:山中慎太郎(Qsyum!))

そんな感じだったんですね。

さっき言ったように基本的には仲良くしたいとか興味があったりする人と仕事をしたいと思ってるんで。もちろん良い作品、良い作家というのは前提にあって、キュレーションという視点があり、その中でも文脈というか自分たちの表現したい空間を目指しつつも、仲良くしたい人だったり今後も一緒に付き合っていきたい人を呼んで展示をやるっていう、エゴの塊みたいなプロジェクトの進め方をしてみた、っていうのがあの展示です。できるだけ全部会話をするというか、「あなたのこの旧作品を借りたいです」っていう一方的な付き合い方じゃない状態で進めていく。「あなたに興味があるんだけど、何を置いていけばいいかを一緒に考えて決めていっていいですか」みたいな。そういう挑戦をANBではしていました。山峰さんも「単純なトップダウンではないことをこの場所ではやりたい」って言ってたんで、僕も尚更その考えを引き継ぎたいと思いましたし、じゃあ展示の作り方自体にそのギミックを突っ込もうと思って。

なるほど。でもそうですよね、僕も結構アートプロジェクトをやってるんで、どっちかというと新作を作ることにしか興味はないんですけど、「なんか作りませんか?」って言いたくなりますね。新しい場所というか、ここだから出来ることがあるし、せっかく一緒にやることになって出会ったメンバーで出来ることがあるはずだから。そっちの方が断然楽しい。

楽しいですね、やっぱりドライブがかかるというか。もちろんその行く先が見えない怖さとかはあるんですけど。「どこに向かっているんだこの車は」という感じなんですけど、車内はとにかく楽しい。

なんだかんだ良いものができますしね、そういう時って。

そうなんですよね。そもそもアーティストが勿論相当に力がある人たちなので、成功したことではあるんですが。なので、まあよかったなと。展示に関して賛否両論はありますけど、個人的にはそもそも僕自身がすごく満足してしまっているんで、そこはもう誰にも譲れないぞと(笑)。もちろん反省とか、次はこうしよう、みたいな宿題は自分の中であるんですけど、まずは自分自身を誤魔化さないというか。自分で満足していくしかない、というのは明確なんで。

結局やるしかないですもんね。

そうですね。そういう意味では、今日はデルタを結構話の軸にしてしまうんですけど、出展依頼が来たのが1ヶ月前くらいで。

トークショーの時も少し言ってましたね。

彼らがやるってなって、案内を出しても開催が1年後だったら熱意が冷めそうだから、1ヶ月後に開催っていう泥舟に一緒に乗れる人がいい、みたいなことを言ってたような気がしますね。最初はアートフェアをやりたいらしいっていうメールが友達づてに来て、「そうか、どんな感じだろう」と思って企画書見たら、来月に開催って書いてあって。で、一瞬考えたんですけど、こんなスピード感は慣れてるなと思って。「1ヶ月ありゃいける、乗るぞー」って。それで、やっぱり結果的に出てよかったなって思います。今日みたいに新しい人にも出会えましたし。

(2020年10月29日)

○注釈

※1 DELTA Experiment (デルタ エクスメリメント):2020年8月に大阪のTEZUKAYAMA GALLERYにて開催されたアートフェア。東京、大阪、京都の拠点とする7ギャラリーが出店。
https://delta-art.net/

※2 李さん:李 沙耶(り さや)。ギャラリスト。2019年に東京、不動前にLEE SAYAをオープン。https://leesaya.jp/

※3 川良さん:川良謙太。VOUオーナー。https://vouonline.com/

※4 FL田SH(フレッシュ):ギャラリー、ショップ、リソグラフ印刷スタジオが三位一体となった、アートショップ。吉田さんが高田 光さんとともに2018年にオープン。入居ビルの建て壊しに伴い、2020年7月をもって神宮前スペースでの活動を終了。移転中は、様々な場所で企画を継続している。

※5 目(め):日本の現代芸術活動チーム。2012年に現代美術家の荒神明香と表現活動集団wah document(南川憲二+増井宏文)によって結成。

※6 川俣正:アーティスト。1953年北海道生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科卒業後、同大大学院博士課程満期退学。82年のヴェネチア・ビエンナーレ以降、世界各国の国際展やグループ展に参加してきた。その作品は公共空間に材木を張り巡らせるなど大規模なものが多く、製作プロセスそのものも含め作品となっている。

※7 増井さん:「目(め)」のメンバー。

※8 京都造形芸術大学:京都府にある私立芸術大学。2020年4月1日付で大学名を京都芸術大学へ変更。

※9 SIDE CORE (サイド コア):2012年、高須咲恵と松下徹により活動を開始。2017年より西広太志が加わる。美術史や歴史を背景にストリートアートを読み解く展覧会「SIDE CORE -日本美術と『ストリートの感性』-」(2012)発表後、問題意識は歴史から現在の身体や都市に移行し、活動の拠点を実際の路上へと広げている。

※10 EASTEAST_Tokyo (イーストイースト・トーキョー):2020年6月に東京で行われたアートフェア。http://www.easteast.org/web/

※11 ANB Tokyo:六本木に新たなアートコンプレックスとして2020年10月11日にオープン。本年11月8日までオープニング展として「ENCOUNTERS」を開催。吉田さんは布施琳太郎さんとともに4Fのキュレーションを担当。https://taa-fdn.org/anb-tokyo/

※12 山峰潤也 (やまみね じゅんや):キュレーター/一般財団法人東京アートアクセラレーション共同代表。東京芸術大学映像研究科修了。東京都写真美術館、金沢21世紀美術館、水戸芸術館を経て現職。パブリックミュージアムのキュレーターとして培った経験を元に、六本木に出来たアートコンプレックス「ANB TOKYO」のディレクションや行政や企業との共同事業、アーティストコレクティブ、展覧会企画など、新たな方向で邁進中。

※13 豊岡演劇祭2020:兵庫県豊岡市にて開催された演劇祭。https://toyooka-theaterfestival.jp/

※14 Aokid × 橋本匠 (あおきっど、はしもと たくみ)
Aokid:14 才の頃にブレイクダンスを始め、大学では映画を専攻しながら平面や 立体作品も制作。1_WALL グラフィックグランプリなど。〈東京 ELECTROCK STAIRS〉、鈴木優理子振付作品や BONUS ダンス演習室に参加。aokid city という独自の公演を持つ。
橋本匠:イメージが人類に与える影響を表現するインプロヴィゼーション方法論 「トランスフォーめいそう」を構築する。六本木アートナイト 2013 など 多くの場でソロパフォーマンスを発表。3 人組フンドシ演劇ユニット 〈さんざん〉やラッパー〈抜け作〉としての活動もある。

※15 平田オリザ:日本の劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、こまばアゴラ劇場支配人。戯曲の代表作に『東京ノート』『ソウル市民』三部作などがある。

※16「開かれた作品」:ウンベルト・エーコによる芸術論。芸術作品とは、享受者の積極的介入によって意味内容が可逆的に発見される「開かれた」形態であるとし、現代芸術の可能性について論じている。1962年初版発行。

※17 ウンベルト・エーコ:イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前(Il nome della rosa)』の著者として最もよく知られる。2016年2月19日、癌のために84歳で死去。

※20 国立国際美術館:大阪市北区中之島にある、独立行政法人国立美術館が管轄する美術館。設立は1977年(昭和52年)。当初は大阪府吹田市の万博記念公園にあったが、2004年(平成16年)に現在地へ移転。

※19 キュレーション、アートマネジメント、流動現代ギャラリー「FL田SH」主宰、散歩詩人として活動する吉田山のコレクションしてきた作品と、吉田山の作品による個展『鱗が目(thinking about roundabout)』が吉田山の網膜剥離治療による自主隔離に設けられた時間、10月19日から48時間の間、自宅で開催される。web中継を通して鑑賞する展覧会。https://yoshidayamar2020.peatix.com/ 

※21 檜山真有 (ひやま まある):1994年大阪府生まれ。同志社大学文学部美学芸術学科卒業、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻キュレーション領域修了。修士論文テーマは「セス・ジーゲローブのキュレーションの技法に関する研究」。展覧会企画に、2018年「Pray for nothing」(「ゼンカイ」ハウス、兵庫)、2019年「超暴力」(山下ビル、愛知)など。

※22 布施琳太郎(ふせ りんたろう)
1994年生まれ。アーティスト。2017年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。現在同大学院後期博士課程映像研究科(映像メディア学)在籍。スプレーを用いた絵画やインスタレーションの制作、展覧会企画や批評も行う。近年の企画に20年『余白/Marginalia』(SNOW Contemporary、東京)、「隔離式濃厚接触室」(https://rintarofuse.com/covid19.html、2020)。

進藤冬華

プロフィール

進藤冬華(しんどう・ふゆか)
札幌を拠点に活動するアーティスト。地域の歴史や文化に関わるリサーチを通じて作品を制作し、地域の抱える問題や、見えない過去の歴史、文化などとの対峙を試みている。 リサーチの方法で、ある場所に滞在したり、史跡を訪れるなど、自身が移動し、地域を歩き回ったりすることが多いことから、近年はツアーやピクニックなどを企画し、参加者と地域をめぐるような活動を行ったり、自身が街に出て地域の人々に何かを仕掛けるようなパフォーマンス作品を展開している。

参加した主な展覧会やアートプロジェクトとして、
「鮭のうろこを取りながら」(2015年、北海道立北方民族博物館)
「対馬アートファンタジア2016」
「Parallex Trading」(2019年、das weisse haus、ウィーン)
「移住の子」(2019年、モエレ沼公園)
「Month of Art Practice」(2019年、 Heritage Place, ハノイ)
「たよりをつむぐ」(2020年、茨城県常陸太田市)など。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

河原功也 Koya Kawahara_キュレーター




1.

冬木(以下、F)最初に知り合ったのはNYで、進藤さんがアジアン・カルチュアル・カウンシル※1のプログラムで来られてて、僕は吉野石膏美術財団※2から助成金を貰って行ってた時で。でも改めてこんな感じでアーティストの始まりとかを聞いたことは、今までなかったですよね?

進藤(以下、S)簡単に言うと、本当に受験だから、みたいな感じ(笑)。

F 大学受験ですか?

S うん。進路を決めるでしょ、その時に美術って決めた人だから。でも絵を描くのは嫌いだったし、図工とかも全くダメだったし。だけど、高校生からしたら図書室で見た現代美術の本から、美術ってすごく変に見えて。だから、そういうので決めたんです。私、高校までって何やっていたか何考えていたかあまり覚えてないんですよ。基準もないことだから誰かと比べられないし、何がどうだったとかわからないんですけど…。河原君は高校生の時、何してました?

河原(以下、K)僕は小・中・高とずっとサッカーしてました。ただボール蹴ってるだけでしたけど。僕も芸術を選んだ理由は進藤さんと近くて、図書館で現代美術の本を見つけたのがきっかけです。小山登美夫さん※3の本だったんですけど、「なんだこれ?」ってパラパラと見てて、こんな世界があるのかと思ったっていうのが始まりですね。で、自分は描いたり出来なかったんですけど、その本の中に“ギャラリー”っていうキーワードがあったんで、そういったマネージメントする側について調べてたら、もうなくなっちゃんたんですけど、京都造形大にARTZONE※4っていう学生がギャラリーを回してる施設があったんですよ。そこがおもしろそうだなって。実践的に出来た方が自分には良いかな、と思って受けました。

F それで卒業してから3331※5に?

K はい、11月で退社するのですが。今は、有給消化中です(笑)。

S そうなんですね。ええと、話を大学の頃に戻すとしんどかったです。大学の頃は作らなきゃいけないのに、作るのが得意じゃないから。私が行ったのは美大じゃなくて、北海道教育大学の美術コースっていう、教育関係の授業を取らなくてもいいコースがあるんです。大学院は北アイルランドにある総合大学の中のアートカレッジに行ってました。でも、全然あの…真面目にやってなかったね。私は本当に楽しく遊んでしまいました(笑)。当時の作品の記録がないもん。でも改めて思い出してみると、学部を卒業して札幌の中にあるアーティストが運営してるオルタナティブスペースに入って、そういった運営を手伝ったりとかしてる時に、ちょっとプロジェクトっぽいことをやったりはしていました。でもね、みんな絵を描いたり物を作ってる時に、プロジェクトのような作品をやってても誰も何も言わないんだ。

K それは反応がないってことですか?

S ないんです。そうすると、やっぱり私はそれをやめるっていうか。当時の私はいつも反応がない事に悩んでた気がします。

F 絵を描いてる人がいる横で、進藤さんはプロジェクトというか…

S 凧揚げしたりしてました(笑)。でも、あんまり仲間みたいな人はいなかったかな。いたのかもしれないけど、あんまり覚えてなくて。それで、私すごく根性がないので諦めちゃうんですよ、頑張りがきかない。だから今考えるともったいなかったと思う。ずっとそれを続けてたら、もうちょっと違ったと思います(笑)。大学が終わってから一回札幌の外に出て、大学院修了後4年間ぐらい美術関連の企画の仕事をやってたので、制作に気合いが入ってない時期もあったんです。アーティストが運営するギャラリーで運営に関係したことをやったりとか、その後もレジデンス・プログラムの事務局にいたりとかして。でもその仕事をしてると、あまり精神が綺麗でなくなっていく感じがあって、私には合ってなかった。結局それを辞めて、そこからやっと制作に集中するようになったんだと思います。だから、大学院修了したのが2006年くらいだったのに、初めて個展をやったのも2011年で。ちょっと時間が経ってるのね、制作しようって思うまで。でも、ひとつ覚えてるプロジェクトは、ジャンクディラーっていうか、廃品回収みたいにゴミとかを集めて売る人が、昔は馬車で来てたんだって。で、馬とカートを用意してそれをやるっていう。※6

K 日本でですか?

S 北アイルランドで。私はプロジェクトを計画する側だったので、お金を集めたりとか色々やって。現地で私のいたスタジオのボスをフィーチャーしてやったんですけど、彼自身は内装やテーブルだったり装飾を作ったりしてる人で。馬車を作るもとの材料も、とりあえず2人で車で走ってて、農家にあったカートを見つけて、「そのボロボロのやつを売ってくれ」って引き取って持って帰るっていう。で、動かなかったんだけど、それをちゃんと直したりして。馬は誰かに借りてくるんだけど、カートや他のものは全部直して作りました。なんか、スタジオではみんなバラバラなんだけどそれぞれの職能はあるので、サバイバル能力はめちゃめちゃ高いところでした。本当に車とかもスクラップヤードから持ってきて、自分で直して車検通して乗るみたいなところ。日本だとすぐに新しいものを買うけど、そこの人たちは古くなったものを上手く再利用してた。そんな感じのところにいた経験から、地元の人と交流し、彼らと生活する中ですごく文化的なものや伝統って本当はいっぱいあるんだなと思ったんです。アイリッシュ音楽とか食べ物もそうだし。そういう場所なので、自分の背景が自然と気になってきて。ご飯も一緒に食べるし休みも一緒に過ごしたりするけど、持ってるバックグラウンドは違うから、普段の生活はみんなとシェアできてるのに、背景は全然共有してないっていう状況が生まれる。

「RAG & BONE PROJECT」2007年、Catalyst Arts、ベルファスト」

F それは進藤さんと現地の周りの人たちのあいだで?

S そう。当たり前なんですけど、見てるテレビも違うし、みんなが知ってる音楽も私だけ知らないとか。そうなると、普通に「じゃあ自分の背景って何だ?」ってなりますよね。そこから歴史とか文化的なものに対する関心が生まれて、帰国したらそういうことをやろうって思ってた部分はあります。それでさっき言ったように、帰国して何年かは働いてたんですけど、その時にはもうサハリン※7とかに調査に行くことは始めてました。北海道って、文化圏的なものは北に繋がっているものがあるんじゃないかと思っていて。国境で分けられるものじゃなくて、違う繋がりがあるのかなと思ったんです。まだ実制作はあまりしてなかったんですけど、そこから割と色んな地域に行き始めて。

F じゃあ、おじいちゃんおばあちゃんも北海道の人で。

S そうです、北海道の人は明治期以降に入植した移住者が多いのですが、うちの父方の祖父母もサハリンに住んでました。で、やっぱり第二次大戦後北海道に引き上げてきてる。北海道ってそういう人がすごく多いんですけど、私も自分の祖父母がそうだったっていう話は全然知らなくて。本当に祖母が亡くなる間際にそういうことを意識するようになったんです。だから、サハリンに行くと本当に日本領時代のものがまだ全然あったりする。サハリンには少数民族の人もいる多民族の場所なんです。少数民族の人もいるし、あと朝鮮系の人も多いんです。それは日本領時代に移住して、日本人は帰ったけど、彼らは残ったりしている歴史がある。あと、北朝鮮ともまだ繋がりがある人たちもいます。一度、韓国から学術系のリサーチに来てた人と一緒になったんですけど、博物館とかにハングルのいろんなものとか掛け軸とかもあって、その人が言うには「多分それは北朝鮮から来てる」って。そんなこんなで、サハリンに行った時は少数民族の人たちのところに行って、手仕事を習ったりとか、そういうことをやってたりしてました。

F 2017年にNYでリサーチしていたことも、その流れですよね? 歴史とか、自分の手前の文化を調べたりするうちに、そういった流れで…

S 主には北海道開拓の話だったんです。明治の日本では、北海道開拓のために、技術が進んでいたアメリカ人の技術者とかアドバイザーを招聘していたので、その人について私は調べていて、それでアメリカに行ったんです。流れとしてはそうなんですけど、その時は興味を持ってる分野がサハリンに行っていた時よりもう少し近代よりになってましたね。以前は、博物館の昔の道具とかだったり、興味の分野も少し違いました。

「記録ー人物像」2016年、240×179mm 湿板写真

F 歴史を追っていくうちに、近代のことに興味の対象が変わっていった感じですか?

S 徐々にズレていったと思います。北海道のことを作品にしようと思ったら、アイヌの話やもっとそれ以前の話もありますが、明治以降の北海道開拓時代は歴史の大きな変換点なので、そこについてはいつか作品にしようと考えていました。それまでは、海を越えて近隣のサハリンや青森との関係を見る中で、北海道という地域がどんな場所なのか知ろうと思っていたけど、明治期に西欧からの影響が入ってきて、近隣の影響だけではないものが、北海道の背景に入ってくることを考えると、いつかアメリカに行ってみたかった。それに、やっぱりちょっと難しいなって思ったのは、例えばアイヌの人についても今よく言われてる文化の盗用※8があるから、その点で難しさも感じましたし。あと、2015年に北方民族博物館※9っていうところで展示をしたんですけど、それが2008年ぐらいからサハリンに行ったり、ずっと見ていたりしたことの、ひとつのまとまった作品展示になったんだと思います。だから、そこで一旦区切ったのかな…でも自分自身が難しさを感じてたなと思います。今だったら美術に対する理解とか、ちがう分野での交流は生まれてきているかもしれないけど、その当時にアーティストとして一人でそういうアカデミックな対象に入ってくのは、疑いの目を向けられるというか、怪しまれる。やっぱり学術とは全然違う方法で歴史であったり、そういった研究対象でもあるものを扱っていくから。他にも例えば、アートプロジェクトに参加していて「プロジェクトをされているアーティストさんですよ」って大学の人に紹介されるのと、全然何の後ろ盾もなく入っていくのでは違いますよね。だから、最初は大変だったなと思います。

F 河原君もプロジェクトとかに興味があるって言ってなかった? 何かを複数人でやる状況とか、コレクティブ自体の仕組みについてだっけ?

K そうですね、気になっています。今回3331を退社したのも、10月と11月にインドネシアに滞在する予定だったんですけど、それがコロナもあって難しくなってしまって。今回は、冬木さんに連絡をもらって面白そうだったので、お邪魔しにきた感じです。

S じゃあ本当はそのインドネシアのコレクティブを見に行くというか、調査しに行くはずだったんですか?

K はい、調査というよりはもう少し緩いものなんですけどね。それに派生して、コレクティブ的な組織は日本にもいっぱいあるので、それらについても話を聞いたりとか会いに行ってみるのも面白そうだなと思っていて。なんというか、東南アジアのコレクティブは生きていくために集団になる必要があって、コレクティブ自体をやっているっていう感触があって。で、それと比較した時に日本ではどうなんだろうとか、或いはそれぞれのチームを組む理由とか、まあいろんな側面があると思うんですけど、そういう生の声を聞いたりとか現場を見てみたいってのはありますね。

F 進藤さんもコレクティブっていうと少し違うけど、共同スタジオで制作されてましたよね?

S うん、今もスタジオにいます。札幌のなえぼのアートスタジオ※10ってところに居てるんですけど、そこでも始めにコレクティブにするかどうかっていう議論はちょっとあって。

F 違いはどういう…?

K そこは気になりますね。そもそもの「コレクティブって?」ってところですよね。

S 意識としては、私たちのところはもっと個々のスタジオの仕事を優先する。最初に話し合って、グループとしての何かを優先するんじゃなくて、まず個々のアーティスト活動があり、そのためのスタジオであることを優先するっていう考え方にしたはずです。なので、コレクティブって私のイメージではもっと一緒に何かをやってる感じがあります。一人一人の単独のものではなく、組織として何かプロジェクトをやったりするっていう。もちろん私のスタジオでもオープンスタジオとかはあるんだけど、そこまでそんなにメンバーで一緒にやってないかなあ…。何かプログラムをやりたい場合は、大体が最初に言い出した人が中心になってやる感じです。けど、みんな忙しいからそこまでやっぱり頻繁に色々できない。

「なえぼのアートスタジオ」

2.

S 私が展示とかで一緒になる機会が多いのは、冬木君くらいの年齢から少し上の人が多いんです。自分と同じ年齢くらいの人はキャリアがいき過ぎてて、一緒になることがない。だって年齢的には田中功起さん※11とか藤井 光さん※12とか、あの世代だから。でも私は2011年に始めて、キャリアのスタートが遅かった。一緒になるアーティストの感じとかは、多分そこと関係あるんだろうなと思ってて。

K 始めた年が。

S うん、何かあるんだろうなって気がします。

F ありますよね。僕は遅い組というか、単純に割と時間がかかったタイプなんで(笑)。

S まあ大変だよね、そういうのって。一旦きっかけが得れるまではね。

F それこそ進藤さんとオンゴーイング※13の繋がりで言えば、山下拓也君※14とかが僕と同世代ですね。確かひとつ下かな?彼はもっと早くから出てたと思いますけど。あとは地主麻衣子ちゃん※15も同い年なんですよね。

S 地主さんも同い年なんだ。やっぱり私はあのへんと一緒になってる率が高いなあ。例えば地主さんはいつも展覧会で一緒になるなっていう時が一時期あった(笑)。そこの世代って何かありますよね。私の世代とはもう意識や感覚がちょっと違う。それに、いま活発に活動してる人が多い印象がある。会わないだけかもしれないけど、逆に私とそこのあいだの人ってあんまり思いつかない。そういう世代に関係したことについては前から気になってるんだけど、誰も何も言ってないのかな?

F 僕が学生だった時の周りの印象でいうと、名和晃平※16さんや鬼頭健吾※17さん、あと小谷元彦※18さんとかが教員からもう少し上の准教授くらいになられてて。あの時いわゆるアートバブルで、その流れに乗ってる人たちが結構早くに先生になってたんです。だから、ちょうどコマーシャルギャラリーですごく取り上げられてるような人たちが先生で、その影響を受けてたのが僕の上ぐらいの人たちでしたね。

S なるほどね。じゃあそこを見て育っているその少し上の世代は、冬木くんとは意識が違うんだ?

F 個人的にはちょっと違いますね。まあ、同級生にも影響を受けてる人は沢山いますけど。河原君から見たらどう?

K その上の人たちと違うなっていう点では、冬木さん世代の人たちは僕たちとも結構一緒にやってる印象があります。下の世代とも何か作ってくれてる感覚はありますね。

S うん、ちょっと意識は違いそう。あとね、ジェンダー的な感覚もすごく違うと思う。やっぱり冬木くんたちの世代から、女性のアーティストがすごく増えるでしょ?

F そうですね、言われてみたらそうかもしれない。

S 私の周りで女性のアーティストで活動してる人ってあまりいないんですよ。それで、私と同じ世代の男の人っていうと、なんというか少し考え方に昭和感があったりする人もいるし。でも、もう冬木くんたちの世代になると、ジェンダーに対しても意識が違うと思います。そういうことに関しても、私とは色々違う世代なんだろうなって。どうしてなんだろうね。

F 何かあるんでしょうね。

S でも多分アートバブルの後の世代っていうことは、なにか関係ありそうですよね。おそらく、当時みんなっていうか多くはそっちに行ったんだよね…でも、アートバブルが終わったことは関係しているとして、その後の世代の人たちが作品を売ることが最優先じゃない方向に行ったのは、やっぱりそうじゃないって思ったからなのかな。どう思ってそっちに行ったんだろう。冬木くんは売る方向を目指したことあるの?

F いい作品を作ってたらなんとかなるだろうっていう感じで、楽観的でした(笑)。でも、そもそも美術をやろうと思って大学に入ってなかったんですよ。もう少し時間が経って、「何かやるのなら、やっぱり美術かなあ…」という考えになっていったんで。

S でも、多分私ぐらいの年齢の人たちは選択肢のオプションがあまりなかったんでしょうね。目指すところの最終形は1つしかないっていうか、ピラミッドのトップがどこであるかがはっきりしてるんだろうね、本当はオプションだらけなのに。もうちょっと冬木君や河原君の世代になってくると、必ずしもそうじゃなくてもいいっていうか、そこがちょっと崩れてくる。例えばわかりやすく言うと、西洋的な美術が一番いいってことも、はっきり言って今はもう崩れてるじゃない?でも、それを信じている一定の世代から上の人たちはそういった教育を受けてきたし、みんながそれを目指してたから、そういう思考になりますよね…。確かにそれは私の中にもある気がするな。私の世代や少し下ぐらいまではそういう思考が強そうだなって感じはします。特に地方の場合はそれが強い気がする、若い世代はわからないけど。

K 実感としてあるんですね。

S ただ、私自身はこの1年くらいって、もう作品がものを作らない方向になっていってるんです。そうすると例えばギャラリーとかそういう場所に絡んでいけない訳なんです。そうすると、ちょっと考え方って変わっていく。箱の中でやる展示に何を出せばいいかわかんなかったりもして。例えば、ツアー形式で作品をつくると、ツアーをやっている時がライブみたいに一番ピークがあって。で、それを別のところで同じものを見せる場合に、単純に記録を見せることには違和感を感じていて。要するにライブでお客さんが感じるものと、その後に、例えば展覧会でお客さんが感じるものを同じにするのはすごく難しくて、だから箱での展示はツアーとは別の体験とか何かが見えるようにしています。ツアーっていう色々なものを見ながら歩いたりする、この行為ってことは核にあるんだけど、観客が作品に出会う状況によって、変わる必要があるんですが、そこがどう展開できるかに今すごく興味あるんですけど。

F ツアーの形式ですか?

S 2019年にベトナムで、家からお墓まで行くピクニック※19っていうのをやったんです。大きくは3つのパートに分かれていて、ひとつはまず企画するところ。で、企画ってすごくいいのは実際にやらなくてよくって、妄想だけで行ける(笑)。こうなってここに行くっていうのを、自分の思っている通りにロマンチックに行ける。まずそれは作品の中の見せ方の1つ目だなと思っていて。で、次に実際に行く。行くのはもちろんリアルだから、そのための準備や計画をちゃんと練らなきゃいけないところもあったりする。私はやる立場ですから、自分が楽しむというのもあるんだけれど、すごく気を使わなきゃいけないところもあったりして。リアルタイムにその場をつくるために私は動いているっていうか、ピクニックを妄想していた時とはまた何か違う感覚ががあるわけです。その中で企画書を町の人が読めるように、私は行く道々に貼っていってたんですけど、その街の壁に貼ってる状態を写真に撮ってポスターにしたものと、フェイスブックにもその企画書を載せていたものがあって、最後にギャラリーで展示する時は、結局その2つのビジュアルをギャラリーに貼るっていう発表の仕方をやったんです。何をやったのか自分でも完璧には理解していないんですけど、それについてはギャラリー用の展示を自分なりに考えたわけです。でも、展示においてはそういう行為ってすごく難しくないですか?作品としてのものがないことや、ライブみたいなものを別の場所でどうやって展開するか、その時の参加者以外の人と何か共有したりとかを、こちらが言いたいことも含めてプレゼンしていくかっていうのはなかなかすごく複雑で…。おんなじことでもなくて、何回もできない。例えば、もしこの場でさっきのピクニックの話をするんだったらどうやるか、レクチャーパフォーマンスになるのかどうかとかはわからないですけど、そこをどうしたらいいんだろうって今すごく思ってるんですよね。今回のプロジェクト※20もターゲットは街の人ですけど、それを例えばプロジェクトの後、別の場所で展示にするとかに持っていく時にどうやるのっていうこととか、不思議なんですよね。みんなどうしてるんだろう?冬木君とかは?

F 僕は結構分けてますね。

S ギャラリーでやる時はそれはそれで、それ以外の場合はそっちでって?

「理想のピクニック」2019年、Month of Arts Practice、 写真:Thu Cam」

F 組み込める場合は組み込むし、組み込めないものは、もう組み込まないです。ただ、そうですね…。美術館とかギャラリーに比べて、それ以外の公共の場所の方がダイレクトなアプローチはできるんですけど、場所に関する自分の興味はもうちょっと漠然としています。そもそも作品っていうものってパッケージされているじゃないですか、例えばある任意の場所に固定されてる。で、認識としても言葉で包括できたり、こういうものですって説明できたり、ここからここまでってまとめられるというか。でも、作品をパッケージする時間軸を伸ばせばもう少し変化してくるというか、他の要素が入ってくる気がするんですよね。2017年に大阪の江之子島文化芸術創造センター※21っていうところで展示があったんですけど、その時に作ったのが大きいオレンジを潰す装置みたいな作品で※22。そこで働いてる人が仕事の中でイライラしたりネガティブな感情になった時に、それを使ってオレンジを潰して、潰した瞬間にいいオレンジの匂いがして。部屋全体にオレンジ臭がするんですけど、でもその発端はイライラだったりネガティブだったりで、「これは何色の感情なんやろう?」って思って。絞ったオレンジはジュースとして飲んでもらって、あとには潰れたオレンジしか残ってないんですけど、それをセンターの中にいくつも展示台みたいな箱を用意して、そこに返してもらう。展示室で完結しなくって、その手前にどこからか来る人とか、どこかにいってしまう匂いとか、場面も構成要素もどんどん変わっていくものな気がするんです。それこそ20代の頃はそういう志向はもっと漠然としてたんですけど、やっとその江之子島で作ったものが、そういう線的な伸ばし方をしていくことの試みとして、「やっと初めてちょっと噛み合ったぞ」みたいな。初めてギアがハマったって感覚が、その32歳の時に作った作品で。でもそれも、思いついた瞬間は自分の作品のことを全部が全部わかっているわけではなくて、やっぱりちょっとずつわかっていってて…。

S 今は前よりしっくりきてるの?

F はい、段々少しずつしっくりきてますね。

S じゃあ過去に別のやり方をやっていてしっくりきてたことはあるの?

F あります。

S そうなんだ。じゃあそれはもう飽和したっていう感覚だったり、それとも全く別の埋められないものだったりしたっていうこと?

F 一番最初に作っていた幾つかの作品が、自分でもよくわからないけどいいなっていう状態だったのが、やっと自分で何をやっていたかが解ってきた、という感覚です。それこそ大学の一、二回生の時に作ってた作品ですね。後付けなのかもしれないですけど、自分ではそういうことだったのかと割と腑に落ちることがあって。すごい紆余曲折しながら…。

S だんだんわかってきてるってことか。冬木君はやっぱり作品って自分のために作ってるんですか?

F そもそも自分っていうものがそんなにないと思っていて。たまたま1984年生まれの、日本っていう国の大阪っていう割と大きめの都市で育った、そんなに背も高くもなく目立ったものもなくて、だから共通点がいろんな人にあるであろう人間が考えて作ったもの、みたいな感じです(笑)。自分が特別だとか才能があるとは全く思わないですし。

S 自分が例の一人みたいになってるのね。でもそれはすごくわかります。私もそういう感じはある。私自身がそういうことを思うようになったのはすごい最近かもしれないんだけど、作品って誰のために作ってるかとか何に向けて作ってるとかはありますよね。

F あ、ちなみに進藤さんって辞めたくなったことってありますか?

S 本気で辞めるみたいなのはないですね。

F でも、ちょっと辞めたいって言いたくなるようなローな時とかあるじゃないですか。

S あるある、もう死にたいって思ったりします。すっごい泣いたりする(笑)。

F 誰のために作ってるかって言うなら、そういう時に意外と考えるのが、多分もう二十歳ぐらいの男の子で僕みたいなヤツはどっかにいるんですよ。なんとなく今の美術の状況に腹立っていたり、どこか自分のことを賢いと思っている、なんか鼻っ柱の強い奴がいるんです。で、その自分みたいなヤツに、僕がやっていることや今の日本の美術がクソばっかりだと思われたくないっていうのが、実は結構あるんです(笑)。それこそ、誰のために作ってるとかは特にないんですけど、でも美術を続けたいっていう衝動のひとつになぜかそれはあるんですよね。

S なんだろうそれ…。でも、要するに自分の若い頃に対してだよね。

F 多分そうだと思います…。何なんでしょうね(笑)。

S でも、私はわからないな。自分の20歳ぐらいの時に対して作品を作ってるかっていうと作ってないな。だって私はホントひどかったからね。本当にしょうもない若者だったと思います(笑)。でもそう思うと、冬木君は頑張ってたんじゃない?うまくいかないと思いつつ、割とがむしゃらなところがあったんじゃないかな。

F そうですね…。でも学生時代は頑張ってたって意識もなく、本当に楽しくてしかたなくて。中学や高校の時にいじめたとかいじめられたみたいなことは全くないですけど、それまでは全然つまらなくて。

S わかる!私の高校の記憶がないってそういうことだと思います。でも、それって自分自身も楽しむ方法がわかってなかったんですよね。

F そうですね。だから、みんなと一緒の中で選ぶしかなくって、サッカーやってとか、彼女といたりしかなくって。限られた中でしか知らなかったんだと思います。だから大学に入って本当に楽しくなりましたよね。

S 世界が狭いのは当たり前ですよね、それしか知らないから。私も制作はしなかったけれど、すごい楽しかったです。あの大学の時代で人生の大事な遊ぶ部分はかなり全うしたと思います。

F なんか友達の幅というか、感じも全然違って。

S 話が合うんだよね。息ができる感覚がありましたよね。

3.

S でも、やっぱりやりたいかどうかって重要ですよね。自分が本当にやりたいことかどうか、自分の行きたい方向に行ってるかみたいなことって。

F そうですね…多分自分はどこに行っても作れたり、ある程度フレキシブルにできる方ですけど…なんかそれでもやっちゃいけない部分があるなっていうのはすごく思いますね。

S 確かにそれはわかります。私も今回のこういう地域に来るプログラムって本当に全然知らなくて。自分に何も接点もない場所に来るからすごく難しいと思ってたんですけど、実際に来てみてそれなりにはできるんだなっていうのは思いました。

F 進藤さんはいつもちゃんとやられてる印象はありますよ。今回のプロジェクトも進藤さんの目線だなってすごく感じましたし、ちゃんと地に足が着いてる。結構最初から進藤さんにはその印象があって、確か2度目にお会いしたのがISCP※23のオープンスタジオの時で。

K ISCP?

S ISCPってNYの長い歴史があるレジデンスで、世界中からアーティストが来るようなところで。だから、色んな人がいておもしろかったですよ。

F そこでオープンスタジオがあって、割と気合い入れて4Kの映像作品をプロジェクションしてる人とか、結構しっかりと平面や彫刻を展示してる人ばっかりなんだけど、なんか進藤さん一人が画用紙を切っただけみたいな(笑)。

S 壁一面、切り絵みたいなやつね(笑)。そのとき私は、オープンスタジオって完成品を見せるだけの場じゃないと思ってて、多分勘違いしてたんだと思う。だからリサーチの途中のものを見せてたんだけど。

F それが逆に異質ですごく良かったんですよね。本当に1人だけ違ってた。それで、あの展示を見た向こうのギャラリーの人に声かけられても、進藤さんは「やらない」って言ってて。それも進藤さんの判断基準があるんだなと思って聞いてました。その違うっていう判断は、実際のギャラリーの人と話してっていうのも勿論あると思うんですけど。

S あの時はギャラリーのサイトとかも見たりして、でも多分違うのかなあと思ってしなかったんですが、思い返すとギャラリーとの関係は継続の可能性があると思うと慎重になっていたと思います。でもプロジェクトとか展示は、その時限りで関係がリセットされるから引き受けやすいというか…。でも、難しくないですか?誰かが一緒に仕事しましょうって言ってくれた時に、ほとんどの場合は受けますよね。受けないっていう選択肢はほぼないですよね…。でも、今もプロジェクトをやってて大事だと思うのは、やっぱりその人と一緒に仕事をして、そのプロジェクト自体がすごく良くなるってことじゃない?最近は相手が本気を出してくれない時は、なんとか出させるように仕掛けることも少しはできるようになってきたから。それでよくなるんだったらやるべきだし、受けたら本気でやりましょうっていう感じでやろうとは思っています。言わなくて後悔したこともいっぱいあるから、率直に話せなくて後から問題になることには、なるべくならないようにはしています。色々なプロジェクトや滞在制作も経験して、前よりは慣れてきたかなあと思います。

F そのプロジェクトの中にとりあえずちゃんと話を聞いてくれたり、まだ全力ではないにしても、こっちの言うことを理解しようとしてくれる人がまず1人いてくれたら、なんとかなる気はしますよね。

S なりますね。例えば企画側とか役所の人にそういう誰かがいれば、確かになんとかやり抜ける気がします。あと逆に面白いのは、役所や外部の人がはじめは冷ややかな感じなのに、話す中で向こうが開いていくようになったりすると、結構面白いことになる場合もすごくある。いいチームになる時は、逆にあまりアートを知らない人の方が、好奇心で楽しんでやってくれることとかがありますよね。なんかきっと美術の方でずっと仕事してる人とかは、アーティストがやろうとすることを評価するんでしょうね。ジャッジメントしながら仕事するからそういう風になるんだと思います。それはそれで別の挑戦のしがいもあるから、いいと私は思いますけど、でもやっぱり人は大事ですよね。思い返すとダメな時あったなあ…。あと自分がダメだったとかもあったな、全然本気になれない時とかね(笑)。

F でも、どう考えても本気を出せない場合もありませんか?それこそレジデンスみたいに制作期間のタイムリミットがある時とか。

S 冬木君は発表するときに途中な感じはないんですか?いつもやりきった感じはあるの?

F その中でもなんとか最適解は出したいなっていうのはあります。期間が1ヶ月だったら、ほぼ1ヶ月かかるような無理なことはさすがに考えないですけど。そういう意味では、僕も進藤さんも「1週間後に何かして」って言われてもできるタイプだとは思います。とりあえず何かは出せるから。でもその、そこそこの答えも出なかったみたいな(笑)。

S 本当にダメな時?(笑)。

F はい、そのとりあえずの回答にも全く納得できなかった時はないですか?。

S 私の場合は、自分の中で大事なポイントにちゃんとフォーカスが当てれていない時だと思います。原因は時間的な制約とか人とかじゃなくって。まあ、自分がそれで諦めたせいもあるんだろうなと思ったりもしますけどね。本当にひどい人とか条件の時とかもあるから、ふざけんなって思うこともあるけど(笑)、でも尚更向こうが予想以上のものを出してやりたくなる。昔、ある滞在制作したところの担当者が引き継いだばかりの人だったんですけど、本当にやる気がなくて、アーティストのやっていることを「訳がわからない」って周りに吹聴するような人だったんです。やっぱり社会の中で美術の存在って、そんな程度に思われる場合もあることはもちろん知ってるんですけど。でも、腹立ったから本当に死ぬほど本気でやったら、その担当の人の態度が最後に変わったのね。だからそういう風に人が変化することもあると思ってて。で、それはそれでいい経験だったんですけど、やっぱり同時に、美術ってダメだなとも思いました。一緒にやる人の話とはまた別なんですけど、その時に「世の中には通用しにくいな」っていうある種の挫折感はありましたね。あと、私は近所の人にアーティストだって本当に言ってないし、絶対バレたくないんです。変人扱いされるのわかってるから。

F 僕も近所に結構好きなスナックがあって、70歳ぐらいのお母さんが一人でご飯も作ってるようなとこで。本当にむちゃくちゃ居心地いいところなんですけど、そこでは僕も全部「デザイナー」で通してます(笑)。

S そうなるよね!私、このあいだ車の一時停止違反で捕まった時もアーティストって言わなかった(笑)。

一同 (爆笑)

S 警察になんて言えないでしょ?。「デザイナー」って言った、私も。

K デザイナーならそのラインは大丈夫なんですか(笑)?

S なんかまだ理解されるじゃないですか。だって、アーティストとか美術家って「ゴッホ?」ってすぐ出ちゃうじゃん、そしたら無理ですよね。「そんな職業あるの?」的な感じだよね(笑)。

F 「アーティストです」って言うと、次に返ってくるのが「絵とか描いてるんですか?」って大体その質問なんですけど、僕らはそれもやってないから、結構きついですよね。

S 近所にバレるとやっぱり面倒なんですよね…。でも本当は嫌ですよね、こういうの。もっとオープンになって、いま話してるみたいに普通にいれるようになりたいですよね。それぐらいアーティストが職業として社会的に理解されてる感はまだなくて、それは変わってほしいとすごく思ってます。

K そういう理解がされていないことって、日本特有の感じですか?海外と比べると、感触として何かありますか?

S 海外にはアーティストとして行くので、もうそれ自体は隠さないです。その期間はそれが仕事として行ってるから、普通に言えるんですけど。でも、そういう「美術とその外」みたいなことって日本って窮屈ですよね。今回のプロジェクトの、意図的に異物として街に入り過ごしてみるっていう試みは、そういう考えもあってやろうと思ってる部分はあります。

F やっぱりアイデアが地続きにありますよね。

4.

S 2019年にモエレ沼の北海道開拓についての展示※24をやったっていうのがあって、そこで自分の中で一回リセットされちゃったんだと思います。それまで歴史のことをずっとやってきたのが、そこが契機になって今はちょっと離れていってるんだと思う。だから今は現在形で世の中に関わることをやってるのかなって気はしています。今回の不審者として街に入ることも、この場所を下見した時の印象では割と高齢化が進んで、新しい人が入ってきて欲しいと思ってるって感じたところから始まっていて。新しい人って異物だから、アーティストという不審者を受け入れられるなら、他の人も受け入れられるかもよっていう、そういう提案みたいな感じで私はやっていたんですけど。けど、作品がそういう風になってきていて、それって自分にやりたいことがないのかもしれないって気がちょっとしてたりもします。やっぱり以前はそういう自分の暮らしていたところの歴史について、一般的にはこう言われてるけど、本当はそうじゃないみたいなところを突きつけたい気持ちがあったんですけど、ある意味、モエレの展示でなんとか歴史についての展示に持っていったので全うされちゃってるのかもしれません。あとは私の北海道の歴史にたいする意識もすごく変わった。私のはじめの認識には、明治初期、本州などからの入植者が頑張って北海道を開墾し礎を築いた。現在の生活は彼らの苦労の上に成り立っているみたいな、そういう美談になってるのが私の中の認識だったし、一般的に北海道開拓に対する認識もそういう認識はあった(ある)のではないかと思う。一方で、北海道開拓って、ロシアの脅威からの防衛とか、天然資源の開発のため道外からの入植者を募り、土地の利用を制度化していったり、アイヌの人々への不利な制度や入植者の差別的な認識など、違う視点もある。今はこういう認識も浸透してきているのではないかな?こうした認識が浸透すれば、私が作品で扱う必要ないじゃんみたいな気持ちが、ちょっとあったりするところも、作品にする対象が移行してきてることと関係あるのかもと思っています。

K その開拓の話って、今回の異質なものが入り込むっていうところと繋がってるって思っていたんですけど。元からそこにいる人の立場からしたらって話ですけど、要は歴史の中で入植者は異物である、と。そう考えると、今回ここでやってることは、より自分ごととしてそれを置き換えていて。

S そういう視点でも見れますね。北海道の場合は、入植者がマジョリティになっているから、やっぱり強者の歴史は美談として語られるっていうか。ここ最近のいろんな動向でも、例えばBlack Lives Matter※25の話とかから考えても、今ってもっとマイノリティの側に目がいっていて、そっちの視点から見るっていう話とアイヌの話は全然別じゃないというか、今の社会の状況ではあると思います。こうしてマイノリティーの側が発言できることや対話が進む状況はこれからもっと進んでいったらいいなと思います。

(2020年11月4日)




インタビューはこの後、アイヌの現在の状況についての話を中心に、美術のカルチュアル・スタディーズ等の話題へと変わってゆくのですが、進藤冬華さんの意向により2020年11月4日に行われたインタビューの掲載はここまでとさせて頂きます。以下に進藤さんから、掲載を見送った箇所の代わりに執筆頂いた文章と、本インタビューについてのバーズの考えを掲載させていただきます。

私は、作品の中でアイヌのことについて触れたこともありますが、いろいろ複雑で難しいなと感じています。誰もが目にできるこうしたサイトで話すことも以前よりやりにくいと感じています。その原因は自分の認識の問題かもしれませんし、外的な状況のことなのかもしれません。私の何代か前の家族は、本州から北海道に入植していて、私は侵入者側の子孫とも言えます。北海道のことを作品の中で扱うとき、そういう背景がある私自身という事がいつも付いて回るし、別の場所で作品を作るときより強固に自分の背景に対峙する事を求めてくるように思えます。また、発表にした時にどういうリアクションになるのか予想がつかない、ブラックボックスみたいな所がある。こうは言っても、実は、大人になるまでアイヌの事について気にかけたことはあまりないし、生活する中でアイヌの人々を身近に感じることはありませんでした。色々な状況を知り、北海道に暮らしてきたのにアイヌのことが自分の中で存在していなかったと認識した時はショックでした。
こうして、アイヌの事について話すことが(当時者や当事者じゃない場合でも)できやすい状況になったらいいなと思いますが、そんなに簡単だとは思いません。今こうやって、この場で発言することは何か一歩を踏み出すことにつながったらいいなと思います。(そして試行錯誤しながら、それに挑戦しているひとが、様々な分野で既にいると思う。)
以前北海道の外で、こうしたことを話したけど、全然共感されたようには思えませんでした。そんなに気にすることはないというような反応でした。その時私は、自分がセンシティブすぎるのかもしれないと気持ちが揺らぎましたが、今こうして再度この話をしてみると、同じ状況が現れてきます。そして、今回はこうした意識の隔たりが何とかならないかなと思い始めています。

進藤冬華


進藤冬華さんとバーズは、今回のインタビュー掲載にあたり何度も連絡を取り合い、掲載原稿に至りました。
掲載を見送った文章を思い出してみると、進藤さんが信頼している人物(冬木さん)であることと、お二人を含めた少ない人数だからこそ、話して頂けた内容になっていたのだと考えております。その内容がそのまま不特定多数の人が見ることのできるWEBサイトで掲載され、読み手の解釈が思わぬ方向にいってしまうことは、バーズの意向でもありませんでした。現在、社会は「いいね」やフォロアー数が価値を持っていますが、話の内容によっては個人の考えや思想を他人と共有するとき、信頼関係や人と向き合う時の態度、状況、環境が大きく関係し、決して多くの人と共有できることではない場合もあると今回の件で感じました。
バーズは、ゲストの方たちが生きて活動する中で感じていること、考えていることをできる限り素直に発信したいと思っております。しかし一方で、そこには誰にでも話せることと特定の誰かだから話せることがあり、それらの関係について思考し、より良く届けられる方法もまた模索しながら発信できる場所にしていきたいと考えています。

Birds

○注釈

※1 アジアン・カルチュアル・カウンシル:アメリカ・ニューヨークに本部を持つ非営利財団。ビジュアルアートおよびパフォーマンスアートの領域で、アメリカとアジア、またはアジア諸国間における文化交流等の支援を行なっている。

※2 吉野石膏美術振興財団:吉野石膏株式会社所蔵の絵画221点などを基本財産として2008年2月に設立、2011年より公益財団法人吉野石膏美術振興財団となる。若手美術家育成のための助成や、美術に関する国際交流の助成等を行っている。

※3 小山登美夫:ギャラリスト。1996年に江東区佐賀町に小山登美夫ギャラリーを開廊。奈良美智、村上隆をはじめとする同世代の日本アーティストの展覧会を多数開催。

※4 アートゾーン:京都造形芸術大学が運営するオルタナティヴ・スペース。2004年より様々な活動を行ってきた。2019年活動終了。http://artzone.jp/

※5 3331 Arts Chiyoda:東京都千代田区にあるアートセンター。千代田区文化芸術プランの重点プロジェクトとして始まり、2010年よりオープン。https://www.3331.jp/

※6 RAG & BONE PROJECT (2007年、Catalyst Arts、ベルファスト http://www.oldcatalystarts.hilken.co.uk/rag-and-bone/)

※7 サハリン島:北海道の北に位置する細長い島。ロシアと日本の間で領土が行ったり来たりした歴史がある。1905年の日露戦争勝利後、南樺太が日本領となるが、第二次大戦終了後ロシア領となり多くの日本人が日本へ引き揚げた。ニヴフ、ウイルタなど少数民族が暮らす。

※8 文化の盗用 :英cultural appropriation: 自分の文化ではない物事を、特にその文化を理解していることや尊重していることを示さずに、取ったり、使用したりする行為。

※9 北方民族博物館:北海道網走市にある博物館。http://hoppohm.org/index2.htm

※10 なえぼのアートスタジオ:札幌を活動拠点とするアーティストが中心となって運営、管理を行っているシェアスタジオ。元缶詰工場で2フロア約270坪の倉庫を改装し、2017年7月にスタート。
https://www.naebono.com/

※11 田中功起:美術家・映像作家。東京造形大学客員教授。1975年生。

※12 藤井光:美術家。映画監督。1976年生。

※13 Art Center Ongoing:2008年にオープンした東京吉祥寺にある民間のアートセンター。https://www.ongoing.jp/ja/

※14 山下拓也:アーティスト。1985年生。

※15 地主麻衣子:アーティスト。1984年生。

※16 名和晃平:現代美術家。京都造形芸術大学大学院特任教授。1975年生。

※17 鬼頭健吾:アーティスト。1977年生。

※18 小谷元彦:彫刻家・美術家。東京芸術大学准教授。1972年生。

※19 「理想のピクニック」2019年に、レジデンスで進藤が滞在していたハノイの家から、ホップティエン墓地まで観客とともにピクニックへ行くイベント。ホップティエン墓地は日本とフランスがベトナムを統治した第二次大戦時に亡くなった地元の人々を埋葬した共同墓地である。
https://www.shindofuyuka.com/portfolio1

※20 「街が見る⇄街を見る」https://kenpoku.info/shindo
常陸太田市の鯨ヶ丘での滞在制作で行ったプロジェクト。進藤がちょっと変わった人(不審者)として、変装して街をうろつく。新たなよそ者として街に入り込み、よそ者を街が受容するとはどういうことなのか問いかけようとした。

「鯨ヶ丘の下見を終えて」(プロジェクトの企画書より抜粋)

“この街に滞在するにあたり、私が興味を持ったのは、この地域は現在高齢化が進みつつあり、新しい人々が移住してきたり、ここを訪れたりしてこの地域を活性化したいと考えていることです。私はこの街にとって明らかに「よそ者」ですから、私が街に入ることで、この街で新しいよそ者を受容していくことについて、何か考えを促すようなことをしたいと考えています。

私がやることは、ちょっと変わった格好や行動をしつつ街の中に出没しウロウロすることです。街の人の反応によって徐々に活動を展開していこうと思っています。プロジェクトで重要なのは、アーティストと住民の直接的な交流ではなく、まず住民がちょっと変わった滞在者(アーティスト)を目撃し、ドキッとしたり、怖いと思ったり、何だろう‥と目が離せなくなるなど、普段の風景、生活の中に現れる異物に反応することだと思います。それは、住民からのわかりやすいリアクションではないかもしれません。

以前、小学校に派遣されるアーティストインスクールプログラムに参加したとき、私が変装して校内を歩くと子供達や先生の中で私をわけのわからないことをしている「わけのわからない人」として避ける人が一定数おり(好奇心をもって寄ってくる人もいる)、こうした反応は美術が社会との接点を持った時の状況がむき出しになった一つの反応として強烈に印象に残っています。
こうした経験から私は今回、意図的にこうした「異物」として、街に入り一ヶ月過ごしてみたい。街の中に異物が存在することで何が起こるのか興味があります。この地域は外から人来る人を受け入れようとしている場所です。それは、私のような異物を受け入れることと、ともすれば似ているかもしれません。
私はアーティストや美術作品は社会の中の異物であることが一つの側面だと常々思っています。異物をめぐり、人々は何かを考えたり、ショックを受けたりすることがあります。こうした美術が存在できることは、社会や人々の寛容さと関係があるように思います。”

※21 大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco):アートやデザインを通して都市や社会の課題解決に取り組んでいる文化施設。旧大阪府現代美術センター。

※22 感情的分岐点 2017
https://ryotarofuyuki.tumblr.com/post/182983415538/%E6%84%9F%E6%83%85%E7%9A%84%E5%88%86%E5%B2%90%E7%82%B9-emotional-branch-point-2017-27-27-h3m

※23 ISCP:International Studio & Curatorial Program。ニューヨークにあるアート・イン・レジデンスプログラム(若手アーティストやキュレーター達に、一定期間、制作/活動の場を提供するプログラム)で、制作・研究の奨励、アーティスト達の様々な文化的背景とホストカルチャーであるニューヨークの文化との相互作用と発展を目標にしている。

※24 2019年に札幌のモエレ沼公園で開催された進藤の個展「移住の子」。明治初期の北海道開拓や御雇外国人、ホーレス・ケプロンへのリサーチをもとに展開した作品を展示。
https://moerenumapark.jp/fuyukashindo/

※25 Black Lives Matter:黒人に対する暴力や人種差別の撤廃を訴える、国際的な運動の名称。