髙橋誠司あるいは一方でタカハシ ‘タカカーン’ セイジ

プロフィール

髙橋誠司あるいは一方でタカハシ ‘タカカーン’ セイジ
バンド活動が発端。アール・ブリュット、その創作過程との出会いから、イベント企画やパフォーマンス活動をスタートさせる。2014年頃「無職・イン・レジデンス」開始、美術展参加、演劇上演協力など表現形態を超えた活動が活発化。2015年「古屋の六斎念仏踊り」復活事業招聘、現在も継承のため参加。近年では「『芸術と福祉』をレクリエーションから編み直す」(助成:おおさか創造千島財団)を2017年に開始し、2019年の京都芸術センターでの発表、2020年「すごす/センター/家/AIR(略称:すごセン)」のオープンへと活動が展開している。 https://www.seijitakahashi.net/

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティスト https://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




タカカーンさんとはじめて会ったのは、昨年の春頃に此花にあるPORTという場所を訪れた時だった。その後はなんとなく展示の情報を聞いたり、Facebookで知り合いになって投稿を見るぐらいで、面と向かって話をする機会はこれまでなかった。(Facebookの情報で1984年生まれであることと、GRAPEVINE※1が好きだということは共通点だと知った。)

第一回目としてタカカーンさんに話を聞きたいと思ったのは、その活動や態度が気になったからである。現代美術という分野の中で個々のアーティストはそれぞれの目的や考えを持って制作や活動を行なっている。その中でも、僕自身は割とオーセンティックなタイプであると思う。美大に行き、彫刻を一応の出自としていて、ものを作り、展示を行う。

おそらく僕もタカハシ ‘タカカーン’ セイジという人も現代美術というフィールドで活動していることにはなるのだろう。そのフィールドにおいて彼が「場」を作ろうとしていることは何となくわかるが、その目的は他の作家とは結構違うような気がしている。なにが違うのだろうか。その部分が気になり、現在タカカーンさんが短期で入居している北加賀屋のSuper Studio Kitakagayaまで、山本正大と二人で話を聞きに行った。

(冬木遼太郎)

1. キャリアのはじまり

冬木(以下 F)すみません、今日は時間を取っていただいて。

タカハシ(以下 T)いえいえ。

F いきなりなんですけど僕、一昨日で36歳になって。で、僕と同じくらいの年齢で作品だけでご飯を食べてる作家さんって本当に少ないと思っていて。でもそういう形でなくても、ちゃんと活動している人はたくさんいてる。で、この現状に対してとりあえずみんな何かしら考えてるとは思うんです。このインタビューのシリーズをやろうと思ったのも、そういった作品の売買っていうかたち以外で何ができるんやろうっていう疑問とか、専業ではない作家の方が大半なら、むしろそっちの多様性の方が気になったんですよね。

T 今日インタビューされるなあと思って、自分のキャリアを思い出していたんですけど、米子さん※2とかFLOAT※3の周辺ってめちゃくちゃ面白い人たちがいっぱいいるのに、それこそみんなが表現活動から報酬を多くもらえているわけではないじゃないですか。お金をもらいたいとそれぞれが考えているかはわからないけれど、それだけじゃなく広い意味でも正当に評価されたらいいのになと思っていて、なら僕がその人たちを紹介しようと。その時はキュレーションっていう言葉も知らなかったんですけど。でも世の中って、なんて言ったらいいんですか、人を紹介という同じ行為にしても、権力がある人や有名な人が紹介すると全然違うじゃないですか。あ、これは自分が紹介者になってもあかんと。だからキャリアの最初は有名になろうと思ったんです(笑)。

F じゃあ、最初は紹介する側から美術というか、芸術に関係した活動をはじめたかんじですか?

T んー、そうですね、美術というかはわからないですが。その前からしていたバンドが活動のスタートでしたけど、バンド解散後に一人で活動する時にはそんな感じでした。

F バンドはいつ頃から?

T 2008年から4年くらいですかね。在学中からやっていました。それが米子さんとつながったきっかけではありますね。僕らのバンドの音源を聞いてくれた人が紹介してくれて。

F それはバンドのSjQ※4として、米子さんやアサダさん※5と知り合って…

T いや、アサダさんとはまた別で知り合って。たまたま同時期に米子さんとも知り合ったかたちです。「SHC」っていうイベントがFLOATであったんですよね。FMトランスミッターを使って、FLOATの外とかでみんながラジオの周波数を合わせて音楽を聴くイベントで。屋外にプロジェクションした映像を見ながら各々で音を聴いて、聴きたくなかったらイヤホン外してって。道ゆく人にしたら、音も聞こえないのに映像見ててみんな集まって、何してるの?っていうような状況をつくっていて。それに出たことが最初ですね。建物の外壁にプロジェクションしてたから道路からも見えるし、全くそのことを知らない人も場に入ってくる。そういった普通の生活と地続きなイベントに出会ったのが最初だったのもあって、人がどう生活してるのかっていうのが、ずっと気にはなっています。「生活とアート」とか言うつもりはないんですけど、そういうところからなんとなくスタートしましたね。

山本(以下 Y)それはさっき冬木さんが説明していた、どうやって生きていくかというか、アーティストとして生きていくかっていうこととも関係していくわけですよね?

T そうですね。キャリアのはじめは、暗中模索で。ギャラのみで生活できるのか、とか、ギャラをもらうにはどうするのか、とか。みんなどんな仕事してるんだろう? 兼業ミュージシャンの人を見てて、ヒゲが許される職場っていいな、そもそもヒゲがあまり生えないのだったな、と省みたり。

F 改めて説明させてもらうと、このインタビューは気になる人と話をするところから始めてみようか、というかなり漠然としたところからスタートしたんです。それこそバーズのメンバーの目的もモチベーションも全然違って。でもとりあえずやってみようってところからスタートして。この機会に気になっていた人に話を聞きに行けるのはいいことだし、ある意味でその人を紹介できることにもなるしって。本当にたくさんの人が美術やクリエイティブなことに携わったりしてる中で、そのいろんな人の「幅」みたいなものがちゃんと見えてきたら僕は嬉しいなと思っていて。で、その時にタカカーンさんは割と端の方にいてる感じだなっていうのを凄く思ったんです。例えばフェイスブックでタカカーンさんの投稿とか見ていても、別に何か作っているわけでもない。どうやら場づくりのようなことはしているけど、それをあらためてソーシャリーエンゲージドアートや関係性の美学うんぬんで単純にまとめてしまうのはなんか的外れだし。っていう時に、改めて話を聞きたいと思った感じです。

Y 僕も、いま冬木さんの話を聞いててもやっぱりそうだなって思ったのが、どうやって作家やクリエイターが生活しているのかもなんですけど、なんかその、生活するために自分の作品を売れるものに寄せて作るとか、そもそも売れるものを作る人はもちろんいるわけですね。ただ、それが本当にやりたかったことかどうかも、やっぱり僕はその人に聞いてみたいんですよね。で、タカカーンさんはどっちかと言うと売れるためではなくて、生活していくための方法論ではなく本当に自分がやりたいことをやっている。 

T まあそんなにピュアじゃないですけどね(笑)。

F でも、お金を得れるとしても目先の作品が売れるとかいう話ではなくて、タカカーンさんの考えている手段や方法が出来上がってくるのはもっと先でしょう?

T 得れるかなあ…でもまあ、自分のやっていることがソーシャリーエンゲージドアートとか言われたら、ラッキーやなあとか思いますね。もはやこの歳ですからね(笑)。指摘されたら「ああ、そうです」とか言って。

Y そこはうまいこと使うんですね(笑)。

2. カテゴライズする / されること

T アール・ブリュット※6というか、主に知的障害がある人たちの創作支援に関わったのが最初だったんです。で、アール・ブリュットって日本では障害者のアートって捉えられがちですけど、僕もアウトサイダーのアートをやってる人って言われたいと思ってるんですよね。いわゆるアウトサイダーアーティストって言われた方が、作家としての見られ方がカウンター効いてると思うんです。実はインサイダーの方が辛かったりするじゃないですか。アウトサイダーアーティストの人自身が望んだ通りに展覧会は組んでくれないかもしれないけど、それこそ紹介や評価についての文章も誰かが書いてくれるし。ある意味、最強の状態じゃないですか。それこそ美術の、インサイダーのアーティストが、最もやってほしいことをやられてるわけじゃないですか。公的なお金が使われたり、サポートがあったり、勝手に作品が広がっていくし。

F 僕はアール・ブリュットにすごく詳しいわけじゃないんですけど、アウトサイダーアーティストって言われる中にいる人たちが描いてる絵とかは、本人が展示したいとか他の人に見せたいっていう意思をもう離れてるようなところも感じるんですけど、一概にそうではないんですか?

T 自分がよくふれあう知的障害のある方に話を限定してしまいますが、そこを持っている人もいますね。展覧会に出展されることで周りのその方への関わりがよりポジティブなものになったり、自身の作品が飾られた展覧会でそこの人に歓待された経験からモチベーションに転じているのかなという作家と触れ合ったことがあります。一緒に展覧会を観に行くこともありました。

F そのへんの意識を持っている度合いは個人差というか、グラディエーション状ですか?

T グラディエーション状ですね。でもそれはまあ、インサイドの人にも言えることだとは思うんですけど、作ってる人の中で誰に見せるわけでもない人もいれば、めちゃくちゃ展覧会やりたい人もいるだろうし。ただその、展示方法などの細部については障害がある方々の思った通りに展覧会が実現しているのかについて厳密にわからないですけど。

F でも、アウトサイダーに入れてほしいって言ってる人はもう自覚してるから無理ですよね。

T ある定義上は“正規の美術教育を受けてない人”っていうことですから、入れるはずなんですけどね。

F 定義はそうなんですね。

T 一応そうですね。色々ありますけど、主にはそういうことですよね。

F でもそれこそタカカーンさんの作品って、申し訳ないんですけど僕はまだ実物を見たことがなくって。でも山本くんはこの前ここに来たんよね?「すわる」っていうイベントの時に。

Y もう、このままの状態やったよ(笑)。

F 物理的に椅子を解体してなんか作り出そうと再構築するっていう作業の手前に、椅子の座り心地とかを確かめるんじゃなかったっけ?

T 「すわる」はそんな感じでしたね。僕は技術はないから、いざとなったら再構築できるかもわからないから。スタジオは短期で借りていて、それこそ自主レジデンス気分なのですが、とりあえずせっかくなのでなんかやってる感じを…(笑)。ただ解体してしまったら元には戻らないから、この状態を共有したいなみたいなことが発端です。

Y 僕はそこが面白いなって。だってスタジオに来たら、いきなり「好きなイスに座ってみてください」って言われてスタートして、今から何の話をするかとかも一切説明ないねんで(笑)。

F だから、タカカーンさんの場づくりに必要なのはなんというか、ある目標を提示したら、それについて話したりする場ができるわけですよね。今回の場合は「解体して理想の椅子をつくる」っていう。もしかしたら再構築して本当に作るかも知れないけど、とりあえずその到達点の手前に集めた椅子があると座ってみたり、座り心地とか理想の椅子の話をする場ができる。だから椅子を選んだんだなあと思って。

T …どうかな(笑)。

一同 (笑)。

T もともとスペースを作るために京都に引っ越す予定だったんです。でもコロナでその予定が延びてしまって。浜松の「たけし文化センター」内にあるシェアハウスに長期レジデンスしていたので家賃もったいないなと。年始早々にはすでに借家を引き払って実家に荷物も置いていたからこうなってしまい、そのまま実家で半年暮らすことになってしまった。久しぶりの母との暮らしは、ありがたくご飯がおいしかったりしたものの、特に身近にいる母や祖母の感染リスクを考えるとどんどん出歩けなくなってきて、やばいこれしんどいと思って。タイミングよくこの北加賀屋のスタジオを借りられたので、それで何しよう、みたいな話なんですよね。あと、このあいだに文化庁の助成金をもらおうかなと思って全体概要考えてる時に、椅子って木材でできていることが多いから、接ぎ木、大阪と京都を接ぎ木、、コロナを経ての、こう、なんか、みたいな(笑)。

Y タカカーンさんの中での製図はあって、色々経た上での椅子なんやろうな(笑)。

T いや、でも美術の中で最近ハラスメントの問題ポロポロ聞きますけど、男の子同士とかのマウンティングはきついなと長らく思っていて。僕は結構ハラスメントに敏感なんですよね、最初務めた会社で結構パワハラにあったから。一般大学の商学部を出て、普通に営業職でした。

Y 営業職やったんですか!

T その頃にFLOATに出会って、米子さんに会ったばっかりのときに「一緒にレギュラーイベントしましょう」とか急に言われて。何も知らないんですよ、僕のこと(笑)。僕も知らないし。それで「やってみたかったことをやってみるための時間」っていうのを、3、4年ぐらい毎月一回朝からやったんですね。自分のアイデアの出し方としては、その後の活動もほぼそれを焼き回してる感覚に近いですね、振り返ると。

Y そのときに月に一度何か企画を作って…?

T 最初は米子さんと僕ともう2人メンバーがいたんですけど、それぞれ出自もジャンルも違うからやりたいと思っていたことをやりたくて。まあいわゆるセッションが最初に浮かんだんでやってみたんですけど、それも違うなあって米子さんが言い出して。もっと既成の表現とかじゃないような、ちょっとしたやってみたかったことってあるじゃないですか。それこそ人前で朗読するのを聞いてほしいとか、告白したことないから告白の演技をしてみたりとか。その時はまだ並行して音楽もしてたんですけど、そういうことをやり出してから、こういうのもありなんだって。

Y 表現の仕方としてですか?

T 音楽をやってると、音楽のことばっかり考えてるように思えて。しかもまあ音楽と美術って今ほどつながりなかったから。米子さんやアサダさんとかはSjQとかやってたんで、そのあたりもつながってるのかもしれないですけど。

やってみたかったことをやってみるための時間 (旧フロリズム:参加者のアイデアにより、
音楽・ダンス・絵画など表現の形態を問わず行うセッション/演奏の会 2014

F ちなみに、バーズのメンバーのはがさんは、タカカーンさんの活動はアサダさんとのつながりが最初というか、入りだったのかなあ、とは言ってたね。

Y そうだね。

T アサダさんの中ではどれもつながってるんでしょうけど、アサダさんは全部音楽だって言って全然違うこともやっていて、それも救いになりましたね。自分がバンド解散した後に知り合ったから、あーこういうのもいいんだって。アサダさんに紹介されて障害福祉の世界にも入ったんですよ。

F そうなんですね。

T 公務員受験の試験勉強に恋にかまけて身が入らず、公務員に似たようなものとしてNPOというのがあるらしいぞという希望を抱いて…つまり就職先を探していて、アサダさんが関係されていたあるアートNPOに相談して、そこでアサダさんとも初めて会ったんですけど「そういう就職斡旋はしてないんです」って言われて。でも後日個人的に連絡がきて、「遠いけど滋賀県の近江八幡に仕事あるよ」って。それが、いわゆる障害のある人たちが中心となる音楽祭の事務局やったんですけど、「音楽やってるとこういう世界とも繋がるんだ」って思って。ほんまにそういうとこですね。アサダさんと米子さん、SJQ様々っていう。運転とかしました、ツアー行く時(笑)。

一同 (笑)。

T 本当にあの二人、ナチュラルに振り切れてる人たちだから。ポッドキャストでラジオやってたんですよ、あの二人。めちゃくちゃ面白いんで聴いてみてください。

F そうなんですね、今も聴けるんですか?

T いまも聴けます。iTunesにありますよ。※7

3. 価値づけについて

F この形式張った感じで聞くのは少し嫌なんですけど、そういうアサダさんとの関係で就いた仕事から、福祉っていう要素は考える対象や作品に入ってきた感じですか? 今も福祉はタカカーンさんの作品に関係してますよね。

T そうですね、うーん…

F でもいま言う手前で、なんかすごいインタビュアー臭いと思って。簡単につなげるのがすごい嫌な気もしたんですけど..

Y わかるわかる。

T まあ話のガイドだからいいんじゃないんですかね。

F いますごい嫌やったな…でもなんていうか、さっきの男の子同士のマウンティングが嫌だっていうのも、タカカーンさんが思ってる福祉も多分つながってて。誰がルールを決めて、誰がそこに入れて、逆に誰が入れないのかみたいな。なんか、もうちょっと漠然とした上でのみんなでの決め事とかに関係する気はしてて。

T そうですね。

F で、いまやられていることも括りというか、そこに関係したなにかはあるのかなと。

T 「『芸術と福祉』をレクリエーションから編み直す」プロジェクトとかもしましたからね。敢えてそういう名目を出したのは、千島財団の助成申請をするにあたって、思い切って大風呂敷広げてみようと思ったからなんですけど。美術は違うかもしれないけど、もともと福祉とアートはまあ同じことだと思っていて。福祉と芸術文化はほぼ一緒というか、どちらも人の尊厳を扱うじゃないですか。

「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直すプロジェクト『集落の「中の人」はどう見たのか、方言を習うことについて』2018

T ちょうどよかったんですよね。福祉の話に戻ると、音楽っていうスキルを活かす時に「音楽祭の裏方してよ」って言われて、現場ではないですけどそれが実は福祉で、知的障害のある人と触れ合う仕事だったんですよね。だから、偏見がなかったと言い切っていいのか。もともと偏見を抱く経験すらなかったけど、いわゆるなんというか、その人たちをかわいそうとも思わなかったし、なんか怖いとも思わなかったのを確認した。大人になったら障害のある人と普段こんなに出会わないんもんなのかと思いました。その現場やと出会いすぎるから、むちゃくちゃいるやんって。彼らそれぞれの凄みに圧倒されっぱなしでした。

Y いるところに行かないと障害者の人たちには出会わないってことですか?

T そうですね。もちろん街にいらっしゃいますが、出会えてはいない。しっかりと必要な目的のためにアール・ブリュットを推進している団体だったんですけど、それにもまた一方で僕は違和感を感じて。ようは絵を描ける人とか作品をつくれる人だけを推進してしまう恐れがうまれるのではないかというか。簡単に言ったら、障害者ってこういう絵が描けてすごいよねってことになってしまう。ポストコロニアリズム※8じゃないけど、なんかこう、一方的に上から価値を与えてるんじゃないかな、みたいな気持ちもしたんです。で、実際その後も作業所でアトリエ活動の支援スタッフをやっていて、現場はそんな風じゃなかったけど、視察とか行政が来ると「私たちも障害のある人の施設をやってるんですけど、どうやったら絵を描けるようになりますか」とかって言われるんですよね。

F はい。

T いや、そんなんじゃないよみたいな。僕がいた作業所も20年くらいかかって色々な積み重ねや発見があってこうなってる。ある程度、美術をやろうとは思っているけど描けない人を排除してきたわけじゃないし。そんな人たちに声かけてみて、実際にやって、偶然描くことにはまったりするわけですよね。で、結構面白い作品が生まれてきて、まあ展覧会してみよっか、みたいな。そんな感じだったから今があるのに、インスタントにそれを目指してしまう後追いの人たちが生まれてきた時に、どうやったら絵が描けるかっていうシンプルな問題になってしまうと、描けなかったら不本意なわけでしょ?なんでよ、みたいな。障害のある人たちが絵を描くこと自体が、なんか教育的になっちゃって、すげー暴力やなって感じて。悪気なく言ってるからマジで怖いって思ったんですよね。それと実際に作業所で絵が売れたりとかすると、入ってくるお金やそもそもの出展料とかっていうのも、作業工賃から考えたらすごい額なんですよね。もう桁が違うんですよ、2桁くらい。そうなってくるとまた現場で不公平感が生まれたりとかして。僕がいたところは、最初はお母さんの会とかが発足で何十年前にできた作業所だったんです。だから、絵が売れた人のお母さんも、急にこんなお金もらっていいんかなと感じたり、全部寄付しちゃったりとか、もらえませんっていう反応だったりする。絵なんか描かせないでもっと作業だけさせてください、みたいな場面もあるし。あらためてお金って怖いなって。大学は商学部出身なんですけど(笑)。
 
F ちょっと整理すると、要は絵が売れてお金っていうかたちになったり、描いたものが価値づけられてきた時に、それはそれで作業所の中で普通にされてる作業との差とか、描く人と描かない人との差とか、あるいはやっかみとか、色んな差がその新しい価値によって生まれてきてしまうみたいな。

T そうですね。何かが価値化する時って、やっぱりその日陰になることもあるだろうし、もしかしたらそこへの配慮のことをソーシャリーエンゲージドアートって言えばいいのにって思ってるんですけど。結構みんな価値化のことばっかりに血眼になっていて、不具合に気づきにくいんですよね。救われる人が一人でも多くなってるっていうのは、そうかもしれないけど。(絵を)描けない人の価値がそのままやったらいいんですよ、描ける人が評価されても。でも下がるんですよね。

F より下がる。

T そう。それはちょっと…別のところでその人は救われてるかもしれないけど、でもこうなってることもあるっていうのを思ってほしいし、美術も芸術もそうだけど、ようは一番健全な業界の状態って、面白くない人もいれないといけないんですよ。

F そう思いますよ。

Tそもそもおもしろいって誰が決めてるねんって話だけど、50歳の新人を正当に評価できたらその業界は健全だと思います。いわゆる将棋界とか、文学とか。やっぱりちょっとね、美術は青田買いが過ぎるというか。大学の美術教育と連結し過ぎてるのかもしれないですけど、ちょっとヒーローを探し過ぎてるし、過度に消費的やなとは思いますね。本当はおもしろくなくても続けれるとか、お金を得れたりもするのが健全だと。言いたいことはそれに尽きるんですけど。

Y うん。

T 自分の活動はそれを体現しようとしているというか、ちょっと美しく言うとそんな感じですね。「お前何も作ってへんやん」という声に対して、じゃあ作るってなによとか。1つのジャンルを価値化することに必死になり過ぎて、その他に対する配慮がなくなってるんじゃないかなとか。いまの助成金にしても、舞台できなきゃ死んじゃうから舞台関係者に金くれって言ってても、どこかで牌は限られてるから。じゃあそれ以外のアーティストは死んでいいの?っていう。大袈裟ですね…

Y その条件に入らないって言うなら、そもそものその条件って何やねん、みたいな。

T 生きてる人って評価しにくいんですよ。で、作品と作家が別のものだっていうのは死んでからのことなんですよね。そういう意味で本当に批評できている人は少ないと思うから。やっぱり生きてる人の生き様も評価に関係してくるんですよね。だから変な話、逆算してそうしてるわけじゃないけど、サバイブするには友達多いほうがいいと僕は思ってますね。

Y それはたくさんの人が自分に対して、いろんな価値観をちゃんと持ってくれるからですか?

T それもありますし、それこそ本当にコネ。もちろん仕事はくるし。良し悪しですけどね。媚びる必要はないけど、悲しいかなそれはないって言うと嘘になりますね。

4. 超民主主義な公園

F やっぱり今日お話を聞く前から思っていたのは、参入できる人と排除される人がいるっていうところに敏感というか、そこにタカカーンさんは意識を持ってるんだろうなっていうのは、何となく感じていたことですね。僕もそこまで詳しい訳じゃないんですけど、フェミニズムに関する議論で一番ベストな状態って、活性化された議論が行われてる状態こそが望ましい、というのがあって。完全な解決なんてしないし、それこそ解決しちゃダメみたいな。で、一番良い状態っていうのは自由に個々人が発言している状態がずっと起きてることで、それこそが良い。だから結論が訪れないみたいなのがいいっていう話で。

T わかりますわかります。

F だから、僕がタカカーンさんの「すわる」に行った話を山本くんから聞いた時に、彼が「いや、別にタカカーンさんが作り出す様子もないねん。作るかも知らへんけど、とりあえず何も始まらへんねん」って言っていて、僕は「いや絶対そうでしょ」と思って。フェミニズムの議論が志向するような活性化した議論の持続じゃないですけど、僕はタカカーンさんがそれに近い場を考えてはるのかな、と思っていて。

T そうやと思います。

F もちろん指針というか目指すべきものは提示しつつも、みんなで座って、何となく話が始まって..っていう状態のために「椅子作ります」って言ってるんじゃないかなと。

T そうですね、みんなでああだこうだ言うのは大事だと思いますね。そうやなあ..最近振り返ることが多いから死んでしまうんかなとたまに思うんですけど(笑)、「超民主主義な公園」をつくれたらいいな、という活動当初からのイメージはありました。それが本当に可能なのかっていうのは考えてましたね。

F それはみんなが自由に使えるっていう?

T 真っさらなのかわからないですけどまず場所があって、遊具ひとつ置くのにこれがベストっていう話をしたら、最後まで置けないんですけど。

Y でも意外と今の話を聞いたら、僕は去年冬木くんがやった「突然の風景」※9の態度は、民主主義というか..

F いやー、あれは僕が決めてるよ(笑)。

Y 来た人たちの現場での態度は民主的やったと思ったよ。

F あれはその、同じ経験を持ってることが話し合いのはじまりには必要なんじゃないかなって思って。いろんなそれぞれの人の経験の円があるなかで、まず同じ経験をしてるところがあるから、話し合いが可能になるはずなんじゃないかなと思ったんです。だからまず共通の経験を作ろうっていうのと、やっぱりああいう運動場とかグラウンドのところに、雑然と車が集まってるのって、津波の後とかにニュース映像で見る感じやと思うんです。でも、あの作品を経験してたらもし本当に地震や津波が来たとき、ちょっと違うと思うんです。それは、そういった結構しんどい急に訪れた危機みたいな時でも、周りと関係したり協力したり、気持ちの持ち直しが早い気がするんです。だから、そのもしかしたらの未来のためになる心の予行演習というか。

Y 1回経験しているからね。この景色って見たことあるっていうのだけでも人ってある程度安心する。

F そう。っていうのが実はあの作品でやりたかったことで。

T ウェブとかを通してわかったような気になりますよね、現在って。あれは多分行かないとわからないやろなあ…めちゃ暑かったし。覚えてるもん。

Y 暑かったですよね。でもそれもよかった。

T そうね。より記憶に残ると思うなあ。

Y だって、今年の暑さも去年のあの日より断然マシやわって思うもん(笑)。下が砂だから照り返しあるし。

T グラウンドって行かないもんね、大人になると。

F 発表は全部で3回やったんですけど、タカカーンさんが来てくれたのは確か1回目やったと思います。でも、1回目が終わったあとが一番よくって。1回目の終わったあとに「え、終わり?」みたいな場の空気になった。そこにいた人みんなが一瞬「ん?」みたいな感じになったんです。

Y そうそう。

F けど2回目3回目って、やっぱり知ってる人がすぐ拍手しちゃうかんじで。

T あー何回も見てる人がいるわけね。

F そうなんです。だからどう考えても1回目が良かったんです。誰も場を先導する人がいない状態みたいになって。

Y 謎の幸せな空間がね、できちゃってるっていう(笑)。

F 誰も先導しないと、集団ってこういうことになるんやっていう(笑)。あれは思ってもみなかった瞬間で、全然予想してなくて。

Y そういう意味では冬木くんが考えている指針はあるけれども、タカカーンさんが言ってた「超民主主義の公園」っていう、そこに来た人たちそれぞれが何を考えるのかみたいな状況になる作品やったなって。冬木くんの場合はもちろん物はあるけど、みんなが考えるっていうことはちゃんとできてたかなっていう。

T そうやろうねえ…色々なことが「なんでそうなってるんだっけ」っていうのはなんか常に気になるんですよね。めちゃくちゃルール多いじゃないですか、現在って。まあ制度が多いんですけど。多分みんな今回のコロナで奨励金もらったりとか、支援を受けるみたいな時に意識したと思うんですよね、制度の使い所っていうか、制度って使わなきゃって。でも僕らが社会に生きるときに、そもそも制度がむちゃくちゃ多いことは望んでいた訳ではないじゃないですか。かといって、それをどう使っていくかっていう話は一切教えてもらってないし。

F うん。

T なんというか、それを捉え直すことができるきっかけが欲しかったんですよね、その「超民主主義の公園」って。だから公共の空間っていうけど、ようは「公共」って一人一人が責任を持っている状態じゃないですか。でもなんか行政がやってくれるものみたいなかんじになってる。そうじゃなくてちょっとしたことも、例えば道の1つとってみても、そこに住む人たちの何かが現れるというか…

Y 意見があった方が、健全。

T 道をもう少し太くしたらいいんちゃうか、みたいな話もそうだし。あれはウチの爺さんがな、みたいな話とかでもいいし。まあ自治的な話ですよね。

5. 行政とアートプロジェクト

T 実はそれこそ、冬木さんがやった次の年度に茨木にプランを出してたんですけど※11、ダメでした。基本的には審査とかすごい苦手なんですよね。

Y 今となってはこの話も含めてタカカーンさんのやろうとしてたことはすごくわかります。まあアートプロジェクトとかって、プロジェクトを作る時点で既に方針とかコンセプトっていうか、そのアートプロジェクトをどうしたいかっていうことの土台がまず一個あって、そこにまた次は審査員っていう土台が乗る。土台の上に土台を乗っけていってるイメージなんですよね。でも、こっちでいうアートプロジェクト自体がやりたい方針の土台と、作家がやりたいことの土台っていうのは、本来はどっちがどっちにも乗せれないわけですね。アートプロジェクトの方の話を一番大切にするのか、それとも作家がやりたい作品の話を一番大切にするのかっていう大切なことが2つあるなかで、一番大切にするべき話っていうのをどちらにするかっていうことを決めるのは難しい。でもアートプロジェクト側の話に、だいたい作家は合わせてくれるわけやん。

F 要はアートプロジェクトっていう仕組みがある中に、どう作家は自分のやりたいことを落とし込んでいくかっていう順序になってる。

Y そう。けど、僕は本来作家がやりたかったことを純粋につくれた方が、言いたいことは伝わりやすいと思ってるんですよ。

T アートプロジェクトもきっともともとはそうでしたもんね。

Y だから、そういう意味でアートプロジェクトには色んな要素が乗っかりすぎる傾向もある。だから例えば、タカカーンさんのやりたいことっていうのは、まずタカカーンさんのやりたいことのルールをアートプロジェクト側も審査員もある程度わかってないと、通しにくいというか。

F なんか、どんなん出したんですか?

T めちゃめちゃラフに書いたんですけど、去年に芸セン※12で展示があった時に、すごすための場所みたいなものとして「仮説の施設をつくる」っていうのをやったんですね。見るべきものも何もないし、すごせって言われてもっていう状態なんですけど、まあフラットな場所をつくるみたいなことをやったんです。で、それをたまたま台湾人の建築の先生が見に来て、一緒にやりたいと言われて。いやお金とかいるんちゃうの?って言うと、向こうは「いいよいいよ」とか言うけど、なんか申し訳ないから、ちょうどHUB-IBARAKIがあるし出そうと思って。出して落ちた情報は未だに全く伝えられてないんですけど(苦笑)。チャンスを持ってます。

Y いま話してくださった、市民の話を一回ちゃんと聞いてみましょうっていう、まあ大まかにいうとそういうコンセプトのものだったんだけど、やっぱり、審査員とか、状況やよね。アートに対する目線の状況もあるなかで、そういうのをたぶん、しっかりやりたいってなった時にどうやれば、提案から実施までできるのか。そこまで考えると正規ルート、いままでの話の流れならアートプロジェクトに応募するって方法以外で考えたほうができるかもしれないと思っちゃう。

京都レクリエーションセンター~施設のための試演~ 2020 撮影:守屋友樹

F なんかこう、そういったタカカーンさんの作りたい場って、色んな違いがある人が話をできたりとか、一緒にいれる場づくりだからもちろん意見の違いが絶対あって、それも含めてタカカーンさんはオッケーにしてるじゃないですか。

T もちろんもちろん。

F でも別に茨木だけじゃなくって、ほとんどのアートプロジェクトとかビエンナーレとかってお祭り側じゃないですか。普段はみんな通常の生活があって、普通に仕事をしていて。で、それに対するお祭りとか祝祭みたいなものとしてあるから、みんなが楽しい空気や同じものを共有できるみたいなかたちが行政が提供して欲しいものの前提にあるけど、でもタカカーンさんのやりたいことって「みんな違うよね」じゃないですか。考え方の差異の見える化というか。だからこそ僕は茨木にはそんな試みの方をしてほしいなって。

T なるほどねえ…なんかいま公共って誰にも文句を言われない状態をつくるってかんじになってるけど、それは公共じゃないですよね。

Y まあだから、いま言ってた公園とか公共って言ってるけど、結局、意見を募って作るってるのではなく、誰か公園を作れる人の意見で作られている。公園の周りに住む人の意見がない公園に対して公共である。っていうことが普通におきてるんやなって思って。

T そうですねえ…それと、僕のしている話もデカすぎるんですけど、「アートと社会」って言い過ぎたツケがいま回ってきてるなとは思っていて。それは企業メセナとか、個人からスポンサーとしてお金もらってる時期と、次にもう不景気になってしまって行政がほとんど全部のアートに対するスポンサーというか基盤になってしまった時に、やっぱり行政の他の役割と同じように説明しようとしてしまったっていうか、行政そのものがそうなってしまったというか。アートが誰しもが楽しめるものとか、意味のわかるものとかっていう共通の認識になってきたんですよね。

F うん。

T それはそれでひとつの発展かもしれないですけど、なんか、もうちょっとアートって普遍的なものだとは思うんですよね。まあ病理じゃないし、自分の分身っていうのも気持ち悪いですけど。知的障害のある人たちが作品をつくるところを見てると思うというか、マジでその選択しか有り得へんねんなっていうものが出来てくる時とか、20年かけて微妙に色使いが変わっていってるのを発見した時とかに「うわー!」ってなるんですよね、ゾクゾクくるっていうか。人の一生って取るに足らないものかもしれないけど、ものすごい濃密なものかもしれないみたいなことを感じる。なんかそういうところをもうちょっと強調しててもいいんじゃないかなって思うんですよね、アートって。別に美談にするつもりはなくて。もっとドロドロしたものだとは思うんですけど、結構いまは様式美っぽくなってきているというか、さっきの話じゃないですけどアートプロジェクト然としたものとか、見栄えや建前としてそれらをつくるのは大事かもしれないけど、あまりにそっちに傾くと虚勢されたみたいな感じがするし。

Y そうですね。

T 僕は社会とかパブリックって言ってやってるけど、ものを作れない人が参照してくれたらいいな、とはちょっと思ってます。自分は音楽とかやってきたけど、無理にそこで秀でなくともというか。最初は自分のやっていることを、人を食ったような表現と思ってワザとやってる部分もあったんですよね。作ってる人を小馬鹿にしてる時期もあったんですよ(苦笑)。なんか作ることばっかりを考えてるのって、作れない恐怖に襲われてるのか、なんで作ってるの?っていうことも含めて、作ってしまってる人をちょっとバカにしてたんですよね。それらしいものとかトレンディーなものを作ってるのを見てて、もしその人より活躍できたら、こういうこともありと言えるんじゃないかなって最初は思ってました。20代は若いから攻撃的でしたし、権威的な人にだいぶ怒ってましたしね(笑)。

6. お金を稼ぐことについて

F でも、そんなことを思いつつも、そもそも僕もタカカーンさんも絶対に作品だけで食べていこう、みたいなことはあんまり思ってないと思うんですよ。

T そうですね。

F 僕はなんかそっちの方が生産性のある話ができる気がしてるんです。それこそ、タカカーンさんが福祉に関係したりとか。ようは数%ぐらいのアーティストしか作品で自活できてない今の状況があって、それ以外の方には大多数がいる。まあ作品だけで食べていくっていう人はそれはそれでいいとは思うんですけど、別に作品で収入を得ることだけを無理に目指して少ない牌を奪い合うより、そっち側の作品では自活できてない人がどうしてるかの方が絶対に多様性とか考え方の違いが複雑にあるんだから、そういう話をした方がいいと思うんですよね。

T もちろん。

F そういうのがこのバーズの目的の1つで。だから、アーティストのあり方や生きていき方も変わっていくんちゃうかなと思っていて。で、そういうことも見える化させていきたいというのも実は思ってるんですよね。

T 確かによくありますよね、美大出てなんとなく仕事あるんちゃうかなと学生に思わせて、ないみたいな。

F あれ本当によくないですね(笑)。

T 最近ちょっと整理して考えてたんですよね。学問で美術って、簡単に言ったら美学じゃないですか。あるいは美術史とかね。そこが学問で、そういった学問で食べていけるのって学者だけじゃないですか。でも、アートってものを作ることができるから、その副産物から画商とかマーケットがあって。それがすごい何億とかになってるから、いけそうな気がするが、普通食えなくて当たり前じゃないですか。ようは文化人類学で食えるのって話じゃないですか。好きにフィールドワークしてて食えるのかって言ったら食われへんし。そこが混ざってるから話がややこしくて、どっちの話をしてるんだろうと思うんですよね。学問を研究してるのか、商品を作っているのか。混ざっちゃったらしょうがない話やとは思うんですけど。
それとご存知と思うんですけど、資本主義がなんでもお金になるって言ってるけど、実際僕らは依頼が来たらいっぱいものごとを考えて、シャドウワークじゃないですけどむちゃくちゃ動いてるのに、それが全然一切お金に変わってないわけじゃないですか。それには良さもあるかもしれませんが、悪さもあるわけですよね。それについても思うところはあるし。さっき言ったなかではアーティストは好きなことしてるから、好きだからいいでしょみたいなのにもつながりやすい。でも、名前出る以上は適当な仕事はできないわけですよね。結局最後にフィーが少なくてごめんなさいって言われても、やっちゃうじゃないですか。何千円しかないけどって言われても真剣にやるやろうし。

F なんか、山本くんと一緒にいることがこの2年くらい多いんですけど、この人がいいのはそのへんをもう割り切っているというか..

T 割り切ってる?

F この人ちゃんと稼ぐんですよ。

T すごいなあ(笑)。

F もともと一番最初はグラフ(graf※13)やったっけ?

Y うん、グラフで。そっからほぼ独学やったけど独立して。まあでもそこから色んな人とか企業との繋がりのおかげで。

T 知らない世界だ(笑)。

F 僕も全然です(笑)。

Y さっき冬木くんが言ってたような、生きることと作りたいことというか、生きるためにやらないといけないことと考えて生産したいことを一緒にしちゃうと、純粋に考えることを占領し出すというか、それに介入しだす感じがあると、やりたいことがやりづらくなるんちゃうかなと思ってて。売らないといけないってなったらニーズにちょっと合わせにいかないといけないとか、そういうことが出だすと、東京のエンタメ性の強いアートシーンみたいなことになると思っていて。大変だろうけど、意外と分けてやった方が、純粋にすごくいいものっていうのが生まれるっていう可能性はあるんかなっていう。

T そうですね…以前、戦争画家ってなんで生まれたんやろうってある人に質問したら、知らず知らずに描いていて、そもそも褒められなかった画家が急に褒められてきて、周りに乗せられていった結果それを描いてしまってて。で、振り返って自分だけが悪いことになってるみたいな。そうじゃなくて、乗せた人がいるんだよっていう。買う人がいたんですよね、だから。

Y そうそう。

T だから、僕も言われましたよ。福祉の仕事をしているときに、自分はアーティストと思ってなかったし作品とも思ってなかったけど、やってることに対して「作品なの?」ってめっちゃ言われ続けて。無職・イン・レジデンスの最初のレジデンスをやった時に、武田力っていう演出家と出会ったんですけど、最初はヤな奴やって(笑)。「アーティストは一本でやってなんぼや」みたいな。自分では、よくないんかなあってずっと思って劣等感を感じてたんですけど。ある瞬間にこれはダメだと思って。そんなにハートが強いわけじゃないからその状態になると思ったんです。お金を稼ぐためのものを最優先にしだすと思ったし、それしかしなくなると思ったんです。それが美しいわけじゃないけど、向き不向きだなと思いますね。

〈無職・イン・レジデンス〉のリーフレット 2015

Y ほんとにそれが向いてる人はやってもいいんですけど、生きるためというか社会を回すための話が多くなっている作品とかシーンに関しては、その話をちゃんとして欲しい。だから美大で青色申告教えてくれないのと一緒というか。

T 教えてくれないだろうね(笑)。

Y それをふわっとさせた状態で、それがまるで最高峰なんだよ、みたいな見せ方しよるわけじゃないですか。いや、社会を回したいからやってんだよっていうのをちゃんと言ってくれないと困るなとは最近思ってるんですけども。

T ほんとに色々早めに知りたかったね、憲法の話も。なんで小学校で学ばへんねやろう。

Y この歳になってやっと距離感がわかってくるというか。

T そうなんですよ、やっとなんですよね。今まで何やったんやろうって思うぐらいで。

(2020年8月12日)

○注釈

※1 GRAPEVINE(グレイプバイン):1993年に大阪で結成されたバンド。タカカーンさんは頻繁にライブにも行っているそう。

※2 米子さん:米子匡司さん。音楽家。トロンボーン、ピアノ奏者。プログラマー。元SjQのメンバー。此花で複合建物「PORT」や「FLOAT」を運営されている。冬木も作品を技術面で手伝ってもらったり、相談させてもらったことがある方。

※3 FLOAT:此花にある米子さんが運営されていた住居兼オープンスペース。

※4 SjQ:サムライジャズカルテット。以前に米子さんとアサダさんが所属していたバンド。

※5 アール・ブリュット:既存の美術や文化潮流とは異なる文脈によって制作された芸術、あるいはその作品。フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet 1901-1985)によって考案された。文中でタカカーンさんが話しているように、以前は障害者の芸術という意味合いが強かったが、その定義自体は変遷し、現在は美術教育を受けていない人による表現を指す場合が多い。

※6 アサダさん:アサダワタルさん。1979年大阪生まれ、東京都⇄新潟県在住。
文化活動家 / アーティスト、文筆家、社会福祉法人愛成会品川地域連携推進室コミュニティアートディレクター。
 
※7 米子さんとアサダさんのラジオ:「スキマ芸術」http://sukima.chochopin.net

※8 ポストコロニアリズム:西欧中心主義や植民地主義に対する反省的な視点、考え方。それ自体もまた西欧的な観点からの価値づけ方であるという批判もある。

※9 突然の風:大阪府茨木市主催のアートプログラム、HUB-IBARAKI ART PROJECTにて2019年に冬木が発表した作品。5月26日が発表日だったがものすごく暑かった。タカカーンさんも見に来てくれていた。https://ryotarofuyuki.tumblr.com/post/186622894888/%E7%AA%81%E7%84%B6%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF-sudden-view-2019-car-car-horn

※10 HUB-IBARAKI ART PROJECT:大阪府茨木市で実施する「継続的なアート事業によるまちづくり」を目的にしたアートプロジェクト。山本は7年間、ディレクターとして携わっている。
https://www.hub-ibaraki-art.com/

※11:HUB-IBARAKI ART PROJECTのプラン募集のこと。通年、一人もしくは一組のアーティストが選出される。

※12 京都芸術センター:明倫小学校の校舎を利用した京都市の運営するアートセンター。2000年の開館以来、多岐に渡る芸術活動の支援と発表を行っている。
https://www.kac.or.jp/

※13 graf:大阪を拠点に、家具・空間・プロダクト・グラフィックのデザインから食、アートにわたって様々にクリエイティブな活動を展開している会社。https://www.graf-d3.com/

置田陽介

プロフィール

置田陽介(おきた ようすけ)
1976年 大阪府生まれ。
1998年 学習院大学法学部卒業。2005年より2012年までデザイン会社graf所属。2013年1月よりOkita Yosuke Attitudesとして活動。グラフィックデザインを起点に、多岐に渡る仕事に携わる。
現在、Attitude inc.代表。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




置田陽介さんは、僕が10年前に勤務していた大阪のデザイン会社graf(グラフ)※1の時の上司で、現在はアートディレクションとグラフィックデザインを主な生業にしながら、様々なジャンルに精通した活動を行っている。過去にも断片的に仕事に対する態度や生活と仕事の距離感などについて聞いていたが、今までしっかりと伺う機会はなかった。

グラフィックデザインやプロダクトデザイン、家具や建物、その他のかたちある物を創造して生み出す仕事には必ず意匠を考える工程が発生する。デザインというとその意匠を作り出す仕事に目を向けられがちだが、複数人(チーム)で1つの物を創造する場合、度合いはあるが同じ方向を見て進まなければいけなくなる。いわば、船を航海させるときの船長のような立場の人間が必要で、その役目をディレクターは行うことになる。当時の置田さんの仕事を横で見ていたことを振り返ると、デザイン/意匠を行うことよりも、ディレクション/企画でアウトプットされるものごとの質を上げる動きをしていると感じていた。

それは、置田さんの仕事以外の生活、本人が考える「生きる」ことへの態度が影響しているのか。置田さんが職にしているクリエイティブ業とそれらの距離感や、様々な職業がある中でデザインを選択した理由。また近年、クリエイティブ業で活動しやすい都市から、島へ移住したことなど。さまざまなことが彼の中でどのように繋がっているのか、妙に気になりだした。たぶん、置田さんがなにを大切にしているのか、それをどのように世界で表現しようとしているのか。それが気になっているのだろう。そんなことを前日に思いながら、大阪からほど近い淡路島に冬木遼太郎と二人で話を聞きに行った。

(山本正大)

1.

山本(以下 Y)僕は副手というか、何ていうんだっけ、ティーチングアシスタントとしてグラフの授業にいてて、そこで置田さんと知り合って。

冬木(以下 F)じゃあ最初は授業アシスタントと先生っていう関係で、置田さんがグラフから来られてて。そのあと山本くんが入って?

Y そうそう。結構無理やり入らせてもらった時に、口聞きしてくださったのが置田さんで。

F 無理やり?そうなの?

置田(以下 O)割と強引やったね。ガンガンきてた。

Y 本当に、弟子にさせて下さいくらいで。なぜかグラフの事務所に毎日来てるみたいな。

F そんな感じなんだ(笑)。

Y そうそう。で、置田さんが服部さん※2とか上の方に掛け合ってくれて。そのままはちょっとっていうのが多分あっただろうし、どうしたらいいかっていうのを考えて下さって。

O 1階のフリースペースみたいなところでね。あの時期はなかなか大変だったね。 

Y そこから何とか入らせてもらったけど、本当に何もできない状態のままいてるし…

R それは、「デザインの仕事させてください」って? もう少し広く?

Y もうちょっと広い意味で。勉強っていうと働くものとしてよくないけど、ディレクションとか企画を学ぶつもりで。あの時はグラフのビルの1階がフリースペースで、植物の販売だったり自社商品をどうプロモーションするかとかを、置田さんが中心になってやってて。

F じゃあ何年ぐらい一緒にやってたの?

Y 1年半か2年..グラフでお世話になったのは1年半くらいかなあ。まあ無理やり行ってた時期も合わせたら2年くらい(笑)。

F それで、いざ入ったら何から始まったの?

Y どうしていくかっていうのも一緒に考えるかたちで始まって。置田さんが「どうするつもりなん?」って聞いてくれて。で、僕も「こうやと思ってるんですけど、無理ですかねえ…」みたいな(笑)。おかしな就職だよね。

F 強気やね。

Y 僕の勝手な想像だけど、そのとき裏で置田さんが色々と動いて下さっていたんだなっていう。まあ、すごく勉強させていただいて。今回それこそ、置田さんに話を聞きに行こうと思ったのも、僕のディレクションすることに対する意識は、やっぱり置田さんがやっていたことがあるんだろうなっていう自覚はあります。そういう思いがあったのと、あとは最近移住されたっていうことも気になって、今日は話を聞きに来ました。

置田さんの自宅兼オフィスの前にて

Y 最近ウェブに投稿された記事や本を読むと、例えばこのあいだまでやっていた展覧会とか直近のできごとだったり、いま流行っているものについて書かれている。で、それが何らかの媒体に載るっていうかたちが圧倒的に多いなと思っていて。東京の展覧会とかを見てても、集客するための展覧会が凄く多くなっているように感じていて。でもなんというか、そういった時間の速度とは距離をとって、ちゃんと自分で考えて作ってアウトプットしている人はたくさんいるのに、その人たちの話す言葉ってあんまり聞く機会もなかったり、読む機会も多くはない。それこそアーティストやクリエイターはすごい考えてるし、面白いのはアウトプットされた作品だけじゃないっていう中で、ちゃんとした話を見聞きできたら楽しいなっていうことを、最初にバーズのメンバーで話してる時に僕は言ってたんです。で、そう考えたときに、置田さんは所謂グラフィックデザイナーがやっている仕事の領域よりも、もう少しディレクションに寄ったというか..

O 多分そうだね。一応肩書きはグラフィックだけど、自分でもそこまでグラフィックデザイナーっていう意識はないし、周りからもなんか色々やってるんだなって感じに見られてると思う。それはそれで面白いかなと思うし、グラフィックデザインも写真家も多分アーティストも、今はそれだけで食べていくってなかなか難しいよね。実際、それだけをやってる人って減ってきてると思うし。時代のいろんな変化に対応できなくなってきてるのは、やっぱり旧来の枠組みにとらわれている人達だとは思うんよね。まあ一部のトップスターは知らないけど、例えば写真家でもやっぱりファッションしか撮らない人が、コロナでロックダウンした状況でそれしか撮れなかったら、もう仕事はないわけやん。でも、どう言われようとファッションも静物も撮るし、雑誌の取材に行ってたりもした人たちの方が今でも仕事を回せてるし、色んなことを経験してるから幅も広くなっていってるよね。動きの早い世の中、どんな状況になっていっても生きていけるサバイバル能力というか生命力というか、そういうものが何より大事やと思うね。

F 今日、ここに来る前に置田さんのホームページを山本くんから送ってもらって、そこに載っているお仕事は拝見したんですけど、最初の業界の入りというか、経歴は何からだったんですか?

O グラフィックだね。でも大学は美大とかじゃなくて、高校や大学くらいまで自分が何をやりたいかはよくわからなかった。というのはウチの周りがみんな税理士だったり弁護士だったり、そういう勉強系の職業の人が多い家系で。で、行ってた学校も進学校だったから、どっちかいうと勉強ばっかりしてた。 部活もしてたけど、アートやカルチャーに触れる機会はそこまでなくて、そういうことで仕事になるかどうかもあんまりわかってなかったし。それで、大学は東京に行って、フォトショップとか、マックとか色んな機械を買ったんやけど、そこからそういう世界に入っていった。デザイン事務所でバイトしてるうちに「あ、こっちの方が面白いな」って。周りはみんな企業に就職していく中で、自分は全然授業出ないでそういうことばっかりやっていて。で、結局そっちに行ったみたいな。大学卒業していきなり独立して、友達と事務所始めたからね。

Y ええ、そうなんですか。

O なんかその、第一次スモールオフィスブームっていうかね。

Y そんなんあったんですか。

O 若手のグラフィックチームが結構出だしていた頃で、ええと、知らんやろなあ…「GAS Book(ガスブック)※3」っていう、媒体はDVDかビデオだったんだけど、そこに若手の色んなクリエイターが作った広告やビジュアルイメージを集めたものがあって。で、その大半は個人で始めたようなやつらが面白いものを作ってた。僕が仕事をやり出した時期はそういうものが出来だしたりして、丁度ウェブの仕事が黎明期だった。フラッシュ※4でちょっと動かしたりすると、すごいって反応で、何十万も貰えるみたいな世界だったんだけど。古くからやってるデザイナーって、考え方がもう紙しかないからウェブにはなかなか参入できなかったんだけど、僕らの世代ってちょうど紙とデジタル両方の合間みたいな時期だったから、ウェブにもあんまり抵抗なく入れた。で、グラフィックもやってたけどお金になってたのはほぼウェブのフラッシュだったりサイトだったり。実はそっちを結構作ってた。そういう仕事をやる会社を同じデザイン事務所でバイトしてた友達と無謀にも、しかも5人で始めて。「3dl design(3デシリットル デザイン)」っていう、なんか変な名前でやっててんけど(笑)。それがだんだん上手くいくようになったりして、ちょこちょこ大きな仕事とかもやり出すようになった。その頃にフリーでやることの面白さっていうのは感じてたね。まあ、しんどかったけど。

Y で、もう既に事務所はやってたのに?

O 事務所はやってたけど、とにかく働き方が不健康だった。運動しないし、ずーっとパソコン見てるし。クラブとかすごく好きだったから、そんなところばっかり行ってたけど、まあ不健康。で、大きな仕事がちょっとプツっと切れたタイミングだったり、ずっと一緒にやってたけど少し仲間割れみたいなのがあったりとかで、一回リセットしようというか、解散しようってなった時があって。

Y それがいくつぐらいのときですか?

O まだ25、6ぐらいかなあ..渋谷の結構家賃が高いところに事務所を構えて、だんだん上手くいってたけどこの先は限界あるなってみんな思い出して。もともと技術的な下地がすごくあったわけじゃなかったからね。僕自身も付け焼き刃でやってたけど。ちょっとしんどいなってのもあったし、仲間割れみたいなこともあって、「一回辞めよう」ってなって。で、辞めてみて、その時はこれからまたデザインを追求しようという気にそこまでなれなかった。それはひとつには、広告関係の業界の、例えば受発注の仕組みのようなものが見えて、なんかおもしろくないなって思ったり、こういう世界なんだって見えたものが、あまり本質的じゃないなって。その、「本質的じゃないな」って思うことが大きかったかな..多分それがすごく大きかったんだと思う。その頃に自分がハマっていったのは、ホールアースカタログ※5とか、結構スピリチュアルな方向。地球のこととか、アースデイ※6っていうイベントがあるんだけど、そういうものに行ったりしてるうちに、段々ちょっとヒッピー系の奴らと仲良くなっていって(笑)。でも僕はそっちの方が本質的だと思ってたし、要はヒッピー的な考え方の方が世界が良くなると思ってた。それで、そういうのに結構どっぷりいってた時があったね。その時はもう肉体系のバイトとかしてたからね。

Y 打って変わって(笑)。

O なんか配管掃除みたいなことをやったりとか。でも、それも自分の限界を知りたいっていうか、一日中オフィスにいてクーラーが効いた中でデザインの仕事してるのが人間じゃないでしょ、みたいに思っているところがあって。それって動物として変だと。それよりも体を動かす方がいいし、日雇いとかだとそのまま日当を貰える。これってめちゃくちゃ「生きる」っていうのに近いなって。それで、そういう働き方と考え方にハマってた時期があって、だんだん日本が窮屈で嫌になってきて、海外に移住したいなと本気で考えるようになって。そのためのお金を貯めるのに東京だと難しいから、実家のある大阪に帰った。それで実際半年くらいヨーロッパで放浪したり暮らしたりしたけど、結局日本に戻ってきて。戻ってきてしばらくしてグラフと出会った。しかもグラフと出会ったのもデザインの部門じゃなくて、gm※7の部門が面白いと思ったんよ。スペースを持ってイベントをやって、お客さんの顔が見えて、ダイレクトにコールアンドレスポンスがある場をつくるっていう、そういうことの方がすごく生き生きしてて楽しそうだと思った。

F グラフの中の、スペースで何か企画をする部門がgm?

Y うん。それが、gmさん。だだっ広いスペースがあって、そこで展覧会の企画とか音楽のイベントだったり色々やってたんですよね。外仕事でもキュレーションとかはやられてたけど。

O そうそう。だから、山本くんが入る前のもっと前に、僕が入った頃はグラフビルがあって…グラフビルは知ってる?

F 知ってます知ってます。

O あのビルが一棟あって、そこに工房やレストランがあったり、事務所とかショールームがあったりしてた。その横のビルの1階に広いスペースがあってそこがgmっていう部門で、イベントをしたり現代アートのギャラリーみたいに展覧会を回していったりとかをしてたんよ。しかも作り方がグラフの特徴を生かして、建て込みをする。巨大迷路みたいのを作ったりとか、すごい建て込みをして。志賀理江子※8ちゃんっていう写真家の展覧会を見て僕はグッときたんだけど、その展示も空間の中に更にもう一個部屋を作って、真っ暗にしてやってた。そういうのも含めて面白いと思って。だから、グラフィックデザインを求めてグラフに入ったわけじゃなくてそっちに興味があった。

Y そうだったんですね。

当時のgmのギャラリースペース(Chez Andreas och Fredrika展 2006-2007)

O でも、実際に入って自分も企画をやっていくうちに、こいつはグラフィックデザインをやってたんだっていうのがだんだんバレてくる(笑)。そうすると、「展覧会のチラシ作って」から始まって。こっちにグラフィックチームの仕事も少しずつこぼれ出してくるようになってきて。だから、企画をしながらそれ以外の仕事もやってた。gmは人が見にくるスペースがあるから、土日はずっといないといけない。月曜日は休みなんだけど、グラフィックのクライアントワークも同時にやってたから、月曜日はそういった仕事をしてた。だから本当に休みなかってん、数年ずーっとほぼ会社におったみたいな。でも、めっちゃ面白かったけどね。

Y なんか、当時の作家さんがグラフで展示する時は、置田さんの家がレジデンススペースみたいになってたって話を聞いて。

O そうそう(笑)。なんで知ってんの、それ?

F なんかもう、全部仕事してるみたいな感じですね。

O そうやねえ…しかもグラフから前の家まで結構遠かったんよ。当時、天王寺あたり※8に実家が貸してた長屋があって、そこに住んでたんだけど、「アーティスト泊めてあげてよ」みたいな感じになって。「遠いですよ」って言ったら自転車2台用意されて(笑)。

2.

Y 置田さんの中でグラフィックデザインとか何かを作る時に、そういったレジデンスであったり、直接仕事には関係なさそうな色んなことをやってるわけじゃないですか。そのあたりって今の仕事に影響はあるんですか?

O それはあると思うなあ。どういう影響があるかっていうと、やっぱりその場をどう生かすかっていうことを、どうしてもすごい考えてしまう。だから単純に、グラフィックが強くて勝ってりゃいい、みたいな回答にはならないというか…グラフィックデザインバリバリの人って結構グラフィック単体で勝負しようとするから、ともすればグラフィックはすごい立ってるけど内容と全然あってなかったり、内容はショボいけどグラフィックは立ってて、そこで引っ張ろうとしてるみたいなものが結構あるんだけど、どうしても僕はその内容を見るというか、どう内容と融合していくかを優先して考えてしまうクセが強いかな。まあ、もともとすごい絵が描けるとかかそういうタイプじゃないみたいな部分もあるんだけど。でも、グラフィックだけ抜き取って「すごいポスターでしょ」みたいなのはちょっと、あんまりそれがいいのかどうかはわからへんな、みたいな。

F あらためてさ、ディレクションって何?別の言葉で言うと何になるんかなって。山本くんもディレクターだよね。全部を見る人…みたいなことなの?

Y あー、でも今日話をしに行くから、じゃあ僕はディレクションって自分が何を考えてるんだろうって改めて思って。で、昨日ふと思ったのが、例えば事業とか何かをやる時に、まず最初に「何をしたいか」っていうような目的地を決めることが多い。で、そこにどう辿り着くかもあるけど、その目的地よりもうちょっと先に行くためにはどうすればいいかっていうことも歩きながら考える、みたいな。メンバーはみんないっぱいいる中で、目的地がズレたらおかしくなるし、そこに行くための方法は考えるけど、最初に考えてたことからも、もうちょっと先に行く気がしてて。

F 例えば最初の目的地が「展覧会をしましょう」だったら、もうちょっと先は何?より良い展覧会?

Y より良い展覧会なのか…大元にある作家がやりたいことを聞いて、それだったら展覧会もやるけど、こうした方ががやりたいことに近くない?みたいな。なんていうのかな、解答の出し方はより良い展覧会だけではないと思う。

F なんか単純にさ、「新しい製品を作りましょう」っていうことのディレクションということだったら、デザインや費用、販路とか全てを見てる人がディレクターだと思うけど、おそらく置田さんや山本くんのディレクションは、もう少し違いますよね。

O やってることは結構広いかな。人との付き合いもめちゃくちゃ重要だし、例えばクライアントも含めてプレイヤーも何人か集まってチームで話す時に、なんかちょっと喋りにくいとか、空気悪いなと思ったら良い雰囲気にしていかないといけないから。ディレクターっていう言い方が正しいのかわからないけど、自分はそういう仕事もディレクションに含まれてると思ってる。それはまず目的地に行くためのディレクションをするっていうことで。ディレクションってのはやっぱり、それぞれの方向を向いている人たちに「いや、こっちでしょ」って言わないといけない。その仕事でもあって、時には付いて来いよっていう仕事でもある。でも、強引に付いて来いって言って嫌われてしまうとよくないから、あいだを繋げることもしないといけないし。あとはやっぱり自分もゴールを見ているなかで、クライアントさんが描いているゴールを、「ここに持って行きたい」っていうところを聞き出すことからディレクションは始まる。言うのが下手な人もいるのでそれを聞き出して、そこに向かうための全ての責任を自分が持つっていうか、そういうところが結構大きいんよね。で、グラフィックっていうのは、自分にとってひとつの武器だし、道筋を描くときや目的地を共有するときにものすごく強力なツールとして機能するんだけど、でもやっぱりあくまで1つのツールとして捉えてるというか…目的地に向かうためにはこういう方がいいんじゃないか?っていう色んな道筋を常に考えるようにはしてるってことかな。

Y 道筋を考えることをもう少し掘り下げて聞きたいんですが、話の端々に聞こえる人との関係性というか、話し合う場だったりコミュニティだったり、なんか置田さんはそういうことをすごい大切にしてるんだろうなってことを思ってて。そのあたりはなにかあったりするんですか?

O ええと、何?周りの人を大切に?

Y なんというか、ディレクションしたり仕事でグラフィックをやること以上に、自分の立ち位置や状況を選ぶとか..

O いま話してて思ったんだけど、さっきのディレクションの話でいうと、ある目標を提示されてそこに向かうっていうこと。で、それを成功に導くってことは散々色んなことやってきて、まあ自分でもある程度できるとは思ってる。でも、結構それに飽きてきたっていうか(笑)。「それはあなたの目標でしょ」って。相手と僕の目標がズレてる場合でも、仕事として受けたら僕は手伝わないといけないわけやん。いまの自分のマインドからすると、服屋さんの服とかもうどうでも良かったりする、正直に言うとね。もちろん洋服でも、すごく真剣に向き合って作ってる人達もいるし、エコだったり新しい視点に目を向けているものもあるから一概には言えないけど、既に世の中にあるのと同じようなものを売ってる会社の側が、そういう商品の売り上げを上げたいっていう目標があっても、自分がそれに対してディレクションして持っていくってのは、もう気持ちの面ではほぼないわけよ。本気で入れない。チームを導くためとかさ、お金をかせぐためみたいなんでやるんだけど、正直どうでもいいと思ってる部分があるというか。だけど、普通だとそういった仕事をしない限りお金は入らないわけで、会社員ってそうやんか。でも、そういった仕事を本当に心底愛せてるかどうかっていったら、ほぼ自分にはもう気持ちはない。でもやっぱりそこから抜けたらお金は入らないから、暮らしていけないからっていう理由で続ける。自分もそれは怖かったから。もし若い頃だったら「もうやーめた」ってきっぱり辞めていたけど、子供もできて家庭も持ってたから、それ以外のことでどうやって食えるかみたいなことを、やっぱり徐々に実験していくしかなくて。本当に自分のやりたいことでやっていけるかっていうのを色々実験していって、そのひとつがelements(エレメンツ)※10だったりする。elementsをやってみて、あんなに訳がわからないものでも、それなりにファンができたりとか、展覧会ができたりとか、本が作れたりとかしてる。こんな難しいテーマでも響く人いるんやって。で、周りを見てても、滋賀県にあるNOTA SHOP※11とかも、ド田舎ですごいぶっとんだお店をやっている。立ち上げ当時、「こんなとこでこんなエッジ効かせて誰が来るんやろう?」って正直心配してみてたけど、今やインスタや口コミで勝手に話題になって、ものすごく賑わってる。それをみて、今の時代、一見変わったことでも自分の信じるものを愚直にやり通すことが結局一番大事なのだな、と。そういうのを見たりとか、いろんなことでちょっとずつ、いけるんじゃないんかっていう確認を段々作っていって、新しい生き方へのソフトランディングを徐々にしている状態。

elementsでの制作風景

F 山本から話をたまに聞いてたんですけど、それこそ豊嶋さん※12がグラフを抜けられて、そのあとにやっぱり豊嶋さんに付いていったというか、同時期に東京に行った人は何人かいて。でも「単純に仕事をする環境で色んなものが近くにある点では東京とか大阪がいい、でもそういうかたちじゃないことを置田さんは考えてて、また違う場所を選んだのが僕は気になる」って彼は言ってたんですよ。

Y 必ずしも仕事をしやすい状況ではないと思うんですよ。クリエイティブ業とか、バリバリお金を稼ぐことをやりやすい場所ではないところに敢えて移住したんだなとは思っていて。けど、いま言ってた価値や資本じゃないところで選ばれている。「それに飽きた」っていう言葉をさっきは使われてたと思うんですけど。

O 飽きたっていうのもあまり良くない言葉だとは思うんだけどね。だけど独立はしてて、自分の舟を走らせてるつもりだったけど、よく考えたら、こう、巨大な船があって。結局みんな大きな船に乗ってるわけよ。で、どこに進むかもわからない。もしかしたら、ずーっと前の方にいる人が舵を取ってるかもしれないけど、もうその人は見えない。ほぼみんなそこに乗っちゃってるわけで、ずーっと先の見えない舵について行ってる。それで、僕は自分が独立して自分の舟を漕いでるつもりだったけど、気がついたらその大きな船の後ろで、おこぼれを貰ってただけっていう状況。ファッションの仕事をしてたり、飲食の仕事のディレクションをし たりしても、もし大元がダメになったら自分も一緒に倒れてしまう。まさに今のコロナだったり、世の中の変化が急に起きた時に、結局自分も一緒に死んでしまうなっていうことに気がついて。

Y わかります。

O でも、豊嶋さんもそういう気持ちはあったんだろうね。グラフをやめてgmだけでやっていくっていう時も、そういう気持ちがあったと思う。でも、豊嶋さんは自分で食える状況なんよ。自分一人で小さい舟でビューって行って、何かを獲れる。だけど、自分にはその力はまだないなと思っていたから。で、僕が一緒についていかなかったのは、モリを持って狩りをする能力が自分にまだないのに、ただ付いていって船にいても、例えば豊嶋さんが急にいなくなった瞬間とかに難破するんじゃないかって思ったんよ。だから僕はトレーニング期間を持とうと思って。それがグラフでグラフィックであったり色んなスキルをつけるっていう期間だった。で、ある程度スキルがついて独立して、いわゆるグラフィックデザイン事務所としてガンガン仕事してた期間があって、それも結局は、さっき言ったように大きな船の後ろでおこぼれをもらっている状態だと気づいて、やっぱりこのままじゃあかんなって。そろそろ自分でモリ突きに行きたいなって(笑)。

Y やっぱりモリを突きに行きたいと(笑)。

O だって自由やん。自分で道を決めれるわけで、生き方だって決めれる。でもみんなが乗ってる船にいたら、平日は常に電話に出ないといけないとか、いろんなところに挨拶に行かないといけなかったり、いろんな社会のルールがあるやんか。それがめんどくさいなって(笑)。単なるルールみたいなものは本質的じゃないし、それに従属させられてるっていうのは嫌で。だからそこから抜ける方法を徐々に作っていって、ここに来たんだけどね。 

3.

Y それとはまた別で、置田さん自身が信じてたり、好きなことをやっているファッションや飲食の方とか、それこそアーティストでもいいんですけど、そういう人と出会えたら一緒に仕事はしたいなっていうのはあるんですか?

O そういうのはあるよ。あるし、一緒に仕事する仲間は本当に欲しくて。しかもその人も何かスキルを持ってて、志を共にして一緒になんかやろうっていうのはいいと思う。けど、育てていくみたいなのは元々あんま得意じゃないし、ちょっと今はしんどいなっていうのもあるかな。でも、一人でやりたいわけではない。本当はここに来て何人かでやってるのが理想。楽しくしたいし。同じビジョンをある程度共有しながらね。あとここに来てもう1つあるのは、そういう自分でモリを突いてる人たちがいっぱいいてるから。そういう人たちは自分の舟を漕いでるから、喋ると面白いよね。でも前に奈良の生駒ってベッドタウンに住んでたんだけど、そこで出会う人たちはほぼ乗組員だから、やっぱり話してても面白くないわけよ。全然張り合いがないというか、探り合ってるサラリーマン特有の感じで。いろいろあるよね。あと同調圧力みたいなものも、この場所まで来たらほぼない。平日の昼間からウロウロしてる働き盛りの人って、都会だったらちょっとあんまりいい目で見られへんかったりするやん。そういうのも別にないし、そもそもここだとそんなに人に会わないし(笑)。僕は意外に気にしてしまうから、ここなら自分の好きなようにやれる。でも、そういう他者の目を気にしないと多分ディレクションってできないんだよね。気にしない人だったらオラオラでいっちゃうから、いいディレクションはできない気がするなあ。でもさっき言ったように、ここはやっぱり自分で生きていく能力がないと厳しい場所だから、そういうのは最低限つけた上で、共感のできないような旧来型の受け仕事っていうのを極力少しずつ減らしていって、ここでやる企画だったりとか、自分ともっと一致していることで最低限稼げたらいいかなって。別にお金持ちになりたいわけではないから。あとはこういうふうに、人が来てくれる時間を大事にできるようにしたい。みんな忙しすぎるんよね、周りのデザイナーも優秀な人が多いからなのか、独立して優秀になっていけばいくほどみんな時間がなくなって、全然会ってくれないようになったりとか。

Y わかりますわかります。なんていうんでしょう、仕事の付き合いの方が大切だから、例えば、僕が友人の事務所をフラッと訪ねていっても、まあ無視まではいかないけれど。
 
O そうそう。みんな仕事に強迫観念を持ち過ぎてるよね、本当に大事なことっていうのを見失いがちやんか。ゆっくり時間をかけて友達とかと話すのって、自分もできなかったけど、それはあんまり嫌やなと思って。
 
Y 置田さんとか横山さん※13とかエレメンツのメンバーって、田舎に移って色々されてますよね。最近横山さんのフェイスブックを見てても、繊維工場行ったりとかいろいろ上がってて。

O 変な動きしてるよね。横山は予測不可能だから、僕もよくわからない(笑)。まあでも楽しくやってるし、多分向かってる方向は似てる気はしてるけどね。彼もデザイナーとしてはもちろん力もあって、もっとバリバリやっていこうと思ったらやれるけど、そっちじゃないなってのは思っているところなんじゃないかな。あと、この場所に移ってきたことに関して言えば、他の人が参考にしやすいようにしたところはあって。デザイナーとかがむしろかっこいい仕事をするのにこっちに移ってくる、みたいなことのモデルではないけど、かっこいい仕事をするのとこういう田舎に来るのって、どっちかを捨てないといけないように見られがちで。けど、俺はそうじゃないんじゃないかなって思ってて、全然両立できると思う。むしろ時間の余裕がある分できることとか、広いスペースがあるから可能なことがあるんじゃないかと思っていて。単純なスケールメリットってあって、なにか作品を作るとしても、 どうしても人間ってその場所で考えて作ろうとするから、 都会の小さな事務所で作るものの大きさって限られてくる。 小さな部屋でバカでかいものは作れない。

Y 普段から想像もあまりしない大きさだから。

O しない。だから都会のプロダクトデザイナーがつくるものって、どうしても似通ってくるところがあると思う。それを打破するのに、環境をガラッと変えるというのは、ひとつの手段だとは思うな。 発想の面でも広がると思うし。

自宅兼オフィスの後ろにはなだらかに小高い山が連なっている。海岸までも徒歩10分くらいで行くことができる。

F あとは、単純に街に飽きたっていうのもあるんですか?

O あー、あるね(笑)。

F 飽きますよね。

O なんというか、街ってお祭りみたいな状況だと思うねん。屋台の出店みたいに店が常にいっぱいあって。本当はその状況は夏休みだけのもので、普段の日常はそうじゃないっていう方がいいんだけど、やっぱり街で仕事をしてると、ずっとお祭りを味わってるみたいなことになっちゃうから。その有り難みも感じなくなってくるだろうし。僕は田舎に住んでてたまに街に出る方が、「街ええな」みたいな感じになるし、断然そっちの方がいいんじゃないかって思うけどね。

F そうですよね、そんなに飲みに行きたくないのに行ってしまってる時とか。あかんなあって(笑)。

O それは誘われて?

F 誘われてもありますけど、なぜか自分がまっすぐ帰るのがイヤみたいな感じですかね。

O わかる(笑)、あるある。それでなんか買ってしまったりとかね。あれって誰が考えたんやっていう凄い仕組みよね。

F 「まっすぐ帰るのイヤ、なんかイライラする」と思って、友達のご飯屋さんで一本だけ飲もうと思って行ったら、もう11時半になってたみたいな。でもニューヨークにいてた時は、意外と飲むところも日本ぐらいここまで多くないし、11時ぐらいには閉まるし、コンビニみたいなのも全然24時間オープンじゃないけど、なかったらないで全然いいんだって。

O この場所なんて一見めんどくさいんだけど、ここを選んだのはそういう時間に関してもテーマがあって。草刈ったりとか、果樹を植えたりといった環境を整えることも運動になるから。多少なり自分のスペースを良くしたりとか、果樹を育てたりするなかで運動することで、時間やお金の効率を良くしたいっていうのは実はすごい裏テーマとしてあって。都会だとジムに行くのにお金使ったりとか、ストレスが溜まったらその解消で何か買ったりだとか、会社に通うのに片道1時間かかるとか、そういった無駄やどうしても不健康になるリスクが色々ある。だから、そういうのを全部取っ払いたくて。奈良でもわりと家の近くに事務所は借りてたけど、その距離すら無くしたくて(笑)。いろんな無駄を無くしていったら、結構面白いんじゃないかなっていうのは裏テーマにあるかな。で、この場所が魅力的だったらいろんな人が来てくれるから。さすがに田舎でずっと自分の家族だけだと刺激は少ないけど、今日みたいにいろんな面白い人達が来てくれる状況になれば、全然その方がゆっくり話せるからね。まだ住んで2、3ヶ月やけど、これからの楽しみがまだまだあるね。

(2020年8月25日)

○注釈

※1 graf(グラフ):大阪を拠点に、家具・空間・プロダクト・グラフィックのデザインから食、アートにわたって様々にクリエイティブな活動を展開している会社。置田さんと山本が働いていた。https://www.graf-d3.com/

※2 服部さん:服部滋樹さん。 graf代表、クリエイティブディレクター、1970年生。

※3 Gasbook(ガスブック):1996年に、日本のエーアンドピーコーディネータージャパン株式会社から創刊されたマガジン。様々なクリエイターを紹介するコンピレーション形式で、Macromedeiaのオーサリングソフト Directorを使用したCD-ROMマガジンとして創刊された。その後も形態を変化させながら、グラフィックアートを中心に、クリエイターを起用した書籍やTシャツ等をリリースするレーベルの総称になっている。

※4 フラッシュ:正式名称は「Adobe Flash(アドビ・フラッシュ)」。アドビシステムズが開発している動画やゲームなどを扱うための規格。元の開発会社はマクロメディアで旧称はMacromedia Flash(マクロメディア・フラッシュ)。2016年にAdobe Animateに名称を変更。本年2020年12月にAdobeがFlash Playerの開発と配布を終了する予定であると発表した。

※5 Whole earth catalog(ホールアースカタログ):1968年にスチュアート・ブランドによって創刊された雑誌。ヒッピー・コミュニティのための情報や商品を掲載。『宝島』や『POPEYE』などの日本のサブカル誌にも大きな影響を与えている。

※6 「Earth Day(アースデイ、別名:地球の日):地球環境について考える日として提案された記念日。4月22日がアースデイとして広く知られているほか、それ以外のアースデイも存在する。

※7 gm:2001年~2009年の間、graf独自の観点で運営されていた、ギャラリーやワークススペース、ショップスペース、ライブラリーなどを併設した“場としてのメディア”。草間彌生との家具企画制作「YAYOI KUSAMA Furniture by graf」(2002) 、奈良美智との合同企画展覧会『NARA YOSGHITOMO+graf A to Z展』(2006)等、多数の展示企画を行う。現在は、『gm projects』と名称を変え、ジャンルにとらわれず様々なプロジェクトを立ち上げている。

※8 志賀理江子:写真家。1980年生。

※9 天王寺:大阪府大阪市天王寺区南部と阿倍野区北部に広がる地域。

※10 elements:置田さんが井上真彦さん、横山道雄さんとともに行なっているプロジェクト。“ものづくりをするプロセスにおいて、私たちの周りに存在する様々な現象や要素を探求していくプロジェクトです。それは、私たちがこの世界とどのように関わってきたのかを解剖し、自分たちも世界のひとつのエレメントであることを実感する試みでもあります。(elementsウェブサイトより抜粋)”
http://elements-p.net/

※11 NOTA SHOP:滋賀県の信楽にあるお店。陶器を軸にライフスタイル全般のデザインから制作、販売を行なっている。加藤駿介さんと加藤佳世子さん、お2人のデザイナーが運営されている。
https://nota-and.com/

※12 豊嶋さん:豊嶋秀樹さん。1971年生。1998年graf設立に携わり、2009年より「gm projects」の メンバーとして活動。作品制作から空間構成、ワークショップ、イベ ント企画など、多彩な活動が注目を集める。奈良美智とともに 「Yoshitomo Nara + graf A to Z/弘前」を共同制作したほか、キュレーション等の様々な企画にも携わっている。

※13 横山さん:横山 道雄さん。1980年生。2005年 grafを経て、2014年 KUMA/ MICHIO YOKOYAMA DESIGN STUDIO設立。グラフィックデザイナーとして、菓子ブランドのコンセプトデザイン及びディレクション、和ろうそくやお米農家のパッケージデザイン、演劇の宣伝美術、装丁などを手掛ける。また、CHANCE MAKERによる‘Inspiring People & Projects’など様々なプロジェクトにも参加。置田さんとともにelementsのメンバーとして活動されている。
https://www.michioyokoyama.jp/

吉田山

プロフィール

吉田山(よしだやま)
散歩詩人
富山生まれアルプス育ち。都市が持つ複雑なストラクチャーを内面化し、表現へと結びつける。2018年に「同路上性」をテーマに掲げるギャラリー&ショップFL田SHを立ち上げ、展示の企画と運営、コンセプト管理をおこなう。また、パフォーマンスコレクティブのKCN (kitchen) のメンバーとしても活動している。

近年の主な活動に、
アートフェア「DELTA Experiment」 (FL田SHとして出展、2020)
「芸術競技」 キュレーション (FL田SH、2020)
アートプロジェクト「インストールメンツ」企画 (投函形式の展示、2020)
アートフェア「EASTEAST_Tokyo」 (FL田SHとして出展、2020)
「RISO IS IT」 (渋谷PARCO OIL by 美術手帖、2020)
KCN企画「台所革命 January revolution」(Gallery X、2020)
「大地の芸術祭2018」(新潟、2018) 等。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




1.

冬木(以下、冬)この前のアートフェアのデルタ※1でしたっけ?あの時のギャラリストの方たちによるトークを山本と2人で聞きに行ってたんですけど、彼が「なんか一人全然違うギャラリストがいる」って言い出しまして。割と皆さん真面目というか、ギャラリスト然としているというか。そんな感じだなあと思いながら聞いていたんですけど、後列の吉田さんに話が回った時に「この人なんか違うぞ」って僕も思って(笑)。大学が同じということもあって、LEE SAYAの李さん※2は以前から知り合いだったんで、僕たちはそれで見に行ってたんですけど。

吉田山(以下、吉)そうだったんですね。

「なぜかあの人が気になってる」って山本が言っていて、じゃあ今回ちょっと話に行かせてもらおうと。そしたら、川良さん※3も知り合いだったから、お願いして繋いでもらってっていうのが流れかな?

山本(以下、山)そうだね。

わかりました。そうですね…僕ともう一人でやってた「FL田SH(フレッシュ)」※4っていうスペースを始めたきっかけは、間借りで割と安めに場所を借りれるってことになって。それで、借りれるけど何をするかは決まってなかったんですよ。よく考えたら毎月お金を払うだけで使わないかもしれない、みたいなところから始まり、でもギャラリーの内装とかをつくることはできたんで、ギャラリーみたいにしてショップもくっつけるか、みたいな話になって。その時に、例えばオルタナティブスペースだったりアーティストランスペースという言い回しで本流から逃げるというか、様式を避けるような仕組みを自分たちで作らないでおこうと思っていました。できるだけ挑戦的にギャラリーとしての構えも持ってちゃんとやっていこうという話になり、PR活動や展示を作るときはフォーマルに則っていくことは意識的にやってました。でも、個人的な内情としては別にギャラリストになる気はない、みたいな。

一同 (笑)

それはまあ周りの人たちにも言ってるんですけど。もともと僕自身が、アーティストのアシスタントとかをやっていたりして。

そうなんですね。

今でいう「目」※5っていう作家さんだったりとか川俣正さん※6の、結構ガテン系のアシスタントをやってたんで。

じゃあ増井さん※7ともお知り合いで?

知ってます。

僕も何年か前に京都造形大※8で増井さんと一緒に先生してたんですよ。

そうだったんですね。増井さんには一時期よくお世話になりました。その流れで色々な技術はついたんで、僕自身でいろんな作家の設営やプロジェクトに関わったり、マネージメントや単純に手伝いみたいなことをやってて。で、ふと思ったんですよ、「あれ?なんか周り年上ばっかりだな」みたいな(笑)。

その今まで一緒にやっていた人たちがですか?

そうですね、一回り上だったり。あとはまあ同世代っていっても美術の施工者ばっかりで、すごく世界や話題が狭くなっていっている感じがして。そのような知り合いはたくさんいて、年上世代の人のプロジェクトの手伝いをやっている中で、本当はもっと同世代と一緒にプロジェクトをやりたいなっていうのも何となく念頭にあった時に、場所をやることでそれがひとつクリアになっていった感じです。逆にこのようなインテペンデントな場所に年上の人は呼びにくいから、同世代と一緒に何か作っていくことができるなと。それでギャラリーというかスペースを始めて、2年くらい経ってきたら何となく認知されだして。場所自体はもう無くなっちゃったんですけど、そのタイミングで「デルタ」のようなアートフェアが東京であったんですよ。ちょうどさっき僕らが待ち合わせをしていた場所で偶然出会ったサイドコア※9の人とかが立ち上げた「EASTEAST_Tokyo (イーストイースト・トーキョー)」※10っていう不思議なアートフェアに呼ばれたんです。おそらく僕らは数合わせ的というか、飛び道具的な感じで呼ばれたんですけど(笑)。で、呼ばれて出したらデルタもかなり影響を受けたみたいで。あの、ホームページの形式がぱっと見、一緒なんですよ。だから「あ、僕らはイーストイーストに呼ばれたから、デルタに呼ばれたんだな」みたいな感覚が個人的にはありました。だからトークショーの時も、誰かが嫌な思いをすることでないなら何でも言っていいかな、みたいな気持ちがあったから、「僕は背負ってるもの別にないんで」とか言って。

言ってましたね(笑)。

『EASTEAST_Tokyo』展でのFL田SHブース展示風景(撮影:田川優太郎)

あと、僕の信念というと大袈裟なんですけど、肩書きに縛られたくないというのがあって。例えばギャラリストだったらこうなっていくみたいな形式的なルートがあると思うんですけど、それをできるだけズラし続けたいみたいな。肩書きの輪郭を不透明な状態にしていくことで、なんか自分が常に旅をするというか、ロードムービー的な次に何が起こるかわからない状態をつくり出していきたいなと思っていて。そうして色々やってたら、今回ANB Tokyo※11の山峰さん※12にも声かけていただいて、一緒にやりますかという感じになって。

ちょっと話がズレるかもしれないんですけど、この前に関西に来られてた時の兵庫の芸術祭※13はどういう流れで?

あれはAokid君と橋本匠ちゃん※14っていう2人のパフォーマーが個人的にすごく好きで、仲良くしてるんですけど、その2人から「豊岡演劇祭※15に出るんですけど、第三者を立てないと出演できないみたいなんです」って言われて。Aokid君はインデペンデントな企画を沢山やっているんですけど、これは結構オフィシャルな企画だったんで、コロナの対策等をかなりしっかりやらなくちゃいけないってことで、そのためには制作っていうポジションの人が必要らしいんですよ。パフォーマー2人だけだと色々と怖いと(笑)。それで、舞台には出ない裏方専門の人を探さなきゃいけなくて、「とりあえず居てくれるだけでもいいから」みたいな感じで僕に連絡が来たんです。僕はマネージメントとかも経験してるんで、「どこまでできるかわかんないけど、行きます」と返事して。あとは少し作品にも口出していいかとか、一緒に作っていく状況になったら面白いですね、とか言い合いながら行きました。

じゃあ、そういうかたちで声をかけられて、色んなところに行ければというか。

そうですね。僕の中で仕事というのが、仲良くなるための媒体みたいな。だから、仲良くなりたくない人の仕事は基本的にやらないっていう。まあ1回目から嫌だなっていうのは想定できないんですけど、実際にやってみて、ちょっとこれは…ってなったら考えますね。例えばAokid君や匠ちゃんだったら、今回は手伝ったけれど、逆に僕が企画するときも彼らを呼びやすくなりますし、そういう感じで連携していければ作品やもっと色々なことについても喋りやすいというか。自分の体はひとつしかないんで軸足を芸術には置くんですけど、常にどこに自分っていう駒を動かすか、という感覚ですね。それと、やるからにはギャラリーとしてもちゃんとセールスしたい、それぞれのアーティストの展示をしっかり作っていきたいみたいな気持ちはあります。でも以前に友達に、まさかギャラリストになるとは思わなかったって言われて、自分でも「その気持ちわかる」って(笑)。その時に、これまで自分をギャラリストだと思ったことはなかったと気づいて、でもギャラリストに見られ始めたんだって。思ってもなかったところから、ギャラリストっていう肩書きが飛んできてビックリしたんですけど、「そっか、そういう風に見られるんだな」ということで、尚更そこはしっかりやろうと。

山本君もちょっと近いところはあるんじゃない?

僕もめちゃくちゃ親近感あります。さっきインタビューを録る前に吉田さんに僕がやってることは少しお伝えしてたんですけど、自分が何者でもないからできることってあるなっていうのはすごい思ってて。一応肩書きは、アートディレクターやアートコーディネーター、プロデューサーとか名乗ってるんですけど。

吉田さんも肩書きは色々…

肩書きはその都度、求められてる感じで。でも何も要求がないときは最近、散歩詩人って言ってて…

散歩詩人って、何ですか(笑)?

肩書きって普通は仕事を取るためにつけると思うんですけど、僕の中ではなんかもう、一個の遊びみたいな感じなんです。ルーティーンというか、アシスタントだったりいろんな蓄積があって、肩書きどうこうっていうよりはありがたいことに様々な仕事が来るんです。僕が今度こういう仕事をしたいという希望はあまりなくって、むしろ今以上にそこまで忙しくしたくないなって思ってるんで。なんていうか、仕事が絶対こないような肩書きを..

(爆笑)

絶対に仕事はこないけど、それでももし散歩詩人っていう肩書きで来た仕事は絶対おもしろいなっていう。絶対楽しいやつだと思うし、それをくぐり抜けて声をかけてきた人に出会いたいっていうのもあります。ただ、まだ僕も散歩詩人が何なのか全然わかってないんで、まずは僕の中で散歩詩人が何をするの人なのか考えなくちゃいけないんですけど(笑)。

2.

吉田さんのされていることは、山本と少し近しい部分もある気がするんですけど、そういった”あいだ”のことをやるという人って実は少ないっていうのもあったりするんですかね? 例えばアーティストのサポートや誰かの手伝いというか。ギャラリーも自分からの発端ではあるけど、誰かを発信する側面もあるし。

そうですね、何かを持ち上げるみたいなところはありますよね。結構その、東京でもたまに言われてるのが、アーティストがめちゃくちゃ多いっていう。で、それって日本の教育機関のアーティスト至上主義みたいなものが確実にそうさせていて。まあ映画なんかもそうなんですけど、舞台やダンスの仕事とかを手伝ったりしていて思うのが、携わってる各人が各プロフェッショナルに向かっていくっていうのが、もう全部パラレルじゃないですか。カメラマンになりたい人だったら、カメラマンを目指す。カメラマンの人が実は監督になりたいとか、別にそういうヒエラルキーはない。でもファインアートというかこの業界だと、「実はみんなアーティストになりたいんでしょ」みたいな認識を、暗に学校や上下関係の中から渡され続けるっていうか。

最初からアーティストではない職業を目指してる人はいないだろって、体制の側が言ってくる感じですね。以前はキュレーター学科みたいなものも、ほとんどなかったですしね。

今となってはちょっとずつ研究室は増えてたり、マネージメントの学科も藝大にあったりしますけど、どう考えても割合的には一割にも満たないんで。それはやっぱりなんだろう、もっといろんなものがあっていい気がしますね。さっきの豊岡の話でも、演劇関係の大学が新しくできるみたいで、それに関係して演劇祭をやって街ごと盛り上げようみたいな流れらしいです。

平田オリザ※15さんが学長をされるとか、そういう話が出てるとこですよね。

そうですそうです。確かそこにもマネージメントとかを教える学部ができるらしいです。そういうのがもっとあればとは思いながら、でも一方でそういったことをやりたい人は多分まだそんなにいないとも思うんで。ギャラリストになりたいみたいな話はあんまり聞かないですし。もちろん目立つのは面白いからいいんですけど、教育の中で「目立ってなんぼ」みたいな学びの受け方をしてしまって、それでこぼれ落ちていく人がただ単にどんどん増えていくみたいな状況は…本当はいろんなかたちがあるんですよ。でも西洋中心主義的な何かを中心にすると、そこに行かなければいけないっていうか、自分の場所が外野だと思ってしまう。そこに行かないと幸せになれないようなカルマを背負っていくみたいな。けど、それを背負わせているのは日本の芸術にまつわる教育や社会構造っていうか。

わかります。仰ってるように、大筋の美術や大きな業界にさっき言った西洋美術が目指すものとしてある中で、じゃあ日本って世界的に見たらどの立場でどういう発言ができるかって考えたら、言える人って片手で数えるくらいしか実際いないっていう。で、美大とかで教えてくれる大きな世界が先行して存在はしているが、僕らや知っている周りの人たち、色んなアーティストたちのやりたい目標が、それによって決められるのは腹が立つじゃないですか。だったら違う道自体を作った方が早いなと僕は考えているんで。そういう部分ですよね。

そうですね。そもそも考えているのは、幸せかつ挑戦したいみたいな2つの願望を、いつでもこねくりながらどうやって両立できるんだろうっていうか。完全に今に止まっちゃって幸せだということもできるんですけど、それと挑戦を組み合わせながらやっていくことは可能なのかとか考えながら行動したり。スペースを始める時も、ちょうどその半年前くらいに結婚して。

ご結婚されてるんですね。

あ、でももう離婚したんですよ…世に言うコロナ離婚です…(笑)。結婚した時の話ですが、結婚したら守りに入るというか、一気に閉じる人が多いじゃないですか。でも、僕は逆にこれはチャンスだと思って、「開こう!」ということで、場所を作ったという一面もあるんです。「開かれた作品」※16っていうタイトルの本があるんですけど、それがすごく好きで。簡単に言うと、作品の中にいかに鑑賞者が関わる余地があるかであったり、余裕というかバッファがある作品とか、これってどういう意味なんだろうって考えこむ余地があるみたいなものを総称して「開かれている」っていうふうに著者のウンベルト・エーコ※16って人が言ってるんですけど。じゃあ、自分自身の人生にもその開かれた乱数みたいなのを実装していければ、益々楽しく且つ挑戦的にいけるんじゃないかって。なので、スペースを運営することや展覧会をキュレーションすることも、僕にとっては大枠ではアート活動というか表現活動というか…。そういった色々な選択自体も、アート活動というのが自分の中ではしっくりきています。

なんというか、不思議だなあと思ったのが、スペースを持ってると段々そこに固執していく人って、結構多い気はするんですよ。場所を管理しないといけないとかマネタイズしていくとか、その場所に関連した先々の予定が詰まっているかみたいなことを考えていったりとか。でも吉田さん、そんな感じは全くないですね(笑)。

ええと、なんて言うんですかね、スペースだけで終わらないようにしようとは思っています。スペースだけで考えたらとんでもなく大変なので、他のアート活動と組み合わせて三位一体というか。僕の中でまず何かしらの循環が起きるようにする感覚ですね。自分のアートスペースはもう自分の内蔵だと思って、この臓器に資本というか機能のようなものはとりあえず存在しないみたいな(笑)。もう自分が常に介護しなきゃコイツ(FL田SH)は成長しないみたいな意識でやってたら、ようやく2年経って最近成長し始めてきて。で、なんかいい動きになってきたな、と思ってたら一旦その場所は無くなったんで。

FL田SHのスペース内(撮影:松尾宇人 展示は、金田金太郎 + 時吉あきな 『Imaginary Taxidermy』)

それは期限みたいなものでですか?

ビルの建て壊しが決まってですね。もともと定期借家契約で1年更新だったんですけど、次の更新がなくなりました。で、もともといつか取り壊されるっていうのは聞いていたので、「あ、ちょうど2年だった。やった!」と思いながら。

その時はどちらもあったんですか? まだこのスペースを続けたかったっていうのと、もう1ついま「やった」って言ったような..

続けたいって思いながらも、その場所の仕組みがちょっと不安定だったりはしたんです。間借りしてるという制約上、どんどんスペース運営へのモチベーションが上がっていくことにスペースのキャパが合わなくなってくるというか。僕、こういう話をする時に、ミニ四駆※17の話に例えるんですけど、大体ミニ四駆って主人公の能力が上回って、マシンがもう付いていけないみたいになるじゃなですか。で、次の新しいマシンを博士からもらうみたいな、その感覚というか。素朴に言えばスペースに飽きちゃったっていうのもあるんですけど、この場所自体のスペックがちょっともう厳しいな、みたいな。本当はもっとこうしたいのに、みたいなことを毎回思いながらやっていくことの難しさだったり、場所自体の使いにくさだったりっていうのがあって。随分と勝手に使わせてもらってはいたんですけど、間借りなんで別の方の荷物もあってそれを守る必要もあり、いざ本当に勝手には使えないっていうジレンマはありました。アーティストに鍵だけ渡して搬入や在廊しといていいですよっていうのも出来なかったりして。だから本当はもっとフレキシブルにやりたいみたいな気持ちはあったんです。

さっき言ってたように自分の体はひとつだし、もっと別の場所でやりたいこともあったりして。

そうです。それはそれで良い2年間だったんですけど、やっぱり企画があると基本的にはそこにずっと居なきゃいけなくなるんです。前提として、スペースを始める前のアシスタントや頼まれた仕事を結構やっていた時は、地方に飛んだり、たまに海外に行ったりみたいなことで気を紛らわせてたというか。そういうたまにある旅というか出張の開放感で、僕の人生が保たれていたというか。「お金も全然ないけど、人の金で旅行に行ける」っていう考え方でやっていってたんですけど、29歳になるぐらいに、「これだと一生適当な旅人風情だな」って思いはじめて。そこから結婚もしたし、久々に家も借りた状態になって。それで、この東京に根を下ろしてみようと…。ミニマムミュージックみたいに、”タッタッタッタッ”みたいな状態で小さく反復を繰り返す、小さい反復だけど東京っていう同じ場所でそれを繰り返すことで何か見えてくるんじゃないかっていう賭けをしてみた、というか。

賭けだったんですね(笑)。

始める前は多分自分は絶対飽きてくるだろうし、しんどくなるなと思ってたんですけど、やってみたら色んな人に会えるし、そういうこともなく2年間は過ぎました。なんていうか、元々は「どこかのアシスタントの吉田くん」だったんですけど、逆に「FL田SHの吉田くん」って呼ばれるようになって、「あ、逆に俺がFL田SHに支えられてる人みたいになった」みたいな。僕より名前が変だし、1回みたら結構忘れられない名前なので。実際、僕個人よりスペースの方が全然知っている人は多いんで、「あ、これはもう俺が育てられてんのか」、と(笑)。自分で決めた名前がこんなに色んな人に浸透してくのって結構快感というか。ただ思い返すと、名前がフザケてるように見える分、しっかりしていこうみたいな気持ちはあったかもしれないですね。単純に言えば、大体は行き当たりばったりみたいな感じなんですけど、一応スペースも軸はさっきの開かれてるかどうか、というところにあって。

そのスペースの場合の開かれているっていうのは、関わる余白があるかどうかっていうことですか?

そうですね。余白であったり、お店やギャラリーだったら誰でも来ることができるとか、そういうことも含めてですね。例えば、もっと専門的に美術の仕事だけをしていたら出会えない人や、喋れないこととかがいっぱいある気がして。でも、お店自体が開いていたら老若男女だれでも来ることができる。そうすればお互いにとって、何かしらのチャンスが発生する余地がある。っていうのは、そのスペースを始めようとした時に考えていましたね。「あ、人と会える」、みたいな。それまでの美術の仕事だけだったら、アーティストや美術のプロジェクトを動かしてる人に、「僕こういう能力があって、こういう働き方ができますよ」っていうかたちの提案しかなかったんですけど、今だったらもうちょっと色んな枠組みで動けるというか。こちらから「展示しませんか」という投げかけだったり、「展示して売ることでどちらも成長したり得になるようにしましょう」という提案もできる。今だったら、ANB Tokyoでキュレーションををやった事での経験と出会いがあるから、更に色んな話が生まれますし。

ご自身のことを「アーティストの時は」って話される時もあるじゃないですか。アーティストとして作品を作られてる時もあるんですよね?

あります。作っているんですけど、最近ちょっと思っているのが、キュレーションや企画する側とアーティストみたいな存在を混ぜこぜにできるなっていうのは考えてます。例えば最近、家の中で簡単に壁を立てて、中継設備をつけてオンライン展示を企画※19したんです。で、大阪にいる友達のキュレーターにリモートでキュレーションを頼んで、でも実際は僕がそのリモートキュレーション自体をキュレーションしていて、その下にも僕がアーティストとしている構造。展示としては、僕が2年前くらいに撮ってた映像と家にあるアートコレクションなどを並べて見せるということをしました。そういうもの含めてキュレーションであり作品であり、最終的にマネタイズできればなっていう試みです。

『鱗が目(thinking about roundabout)』展 2020

そのあいだに自分じゃないキュレーターが入ってるっていうことも、必要な要素ということですよね?

そうですね。全部を自分でやると胡散臭い感じなんで。この着想というかアイデアの元が、企画する側っていう仕事があまりエコじゃない側面もあるというか。作家だったら作家としてどんどん作品が売れていって、経済的には充実した生活を過ごせると思うんですけど、今までの様式だと企画する側だったら労働者としての自分の体以外に売っていくものがない。なので、展示企画のアイデア自体を売れるような仕組みっていうのもあってもいいんじゃないかって思って。というのも、僕がその企画のリモートキュレーションをお願いした、いま国立国際※20でアシスタントキュレーターに入ってる檜山真有※21ちゃんっていう子がいるんですけど、その子がまだ東京いた頃に、自分の一回やった展覧会の使用権を売るっていうのをやってて。それを見に行った時に、「あ、おもろい!」と。いつか僕もなんか違うかたちでやってみたいなってことは思っていたんです。そういうふうに、キュレーターだからこの立場にいないといけないとか、それぞれの既成のフォーマリズムみたいなものをじんわり溶かすようなことをやってる人が何人か出てくると、それがどんどん崩壊して、「俺はアーティストだからこれしかやらない」っていうような人が減っていく。そういった立場がどっちでもいいよねって状態になっていくと、各々自分の居場所がもっと見つけやすくなるというか。僕も自分自身がそういう考え方になってから、ずっと躁状態です。どこにでも行って楽しめるようにセッティングし直して、チューニングし直してそこの場所に行くっていう。デルタのアートフェアだったら、一応キュレーターの立場でデルタの意向も考えて、その中で最大限にハメを外す、みたいな感じで。

デルタに出してた時、FL田SHの壁のところだけ違う人種だなと思って見てました。集まってる人たちの雰囲気や、なんというかアートフェアでの展示、作品に対する態度が他のギャラリストと違ってるように見えたというか。

もともと僕らを呼ぶこと自体、ディレクターの人からすると多分挑戦だったと思います。本当に依頼して大丈夫かみたいなところもあったと思うんで。だから、こちらも大丈夫だけれど大丈夫じゃないかもしれないキワのことを丁寧にやるみたいな心持ちでした。

3.

そもそもの初めから、地球を救いたいみたいな大きな話は僕にはやっぱできないんで、自分の身の回りから循環させて持続可能な状態にしていって、それを周囲の人とかと連携取りながらやって、広げていければいいなと。だからまずは僕自身も様々な事柄は気に掛けながら、やりたいようにやることが真理というか、大切だとは思っています。もちろんフィジカル面では要所要所で無理したりもするんですけど、大枠として無理はしないっていうか。

わかります。それが一番色んな人につながるし、救えることにつながるっていう感じですよね。まず自分のことできなかったら、誰も救えないよなって逆になったりもするし。

そうですね。結局それで理想を追い求め続けすぎて疲れてしまうと、人にやっかみを持つ人になっていってしまうんで。自分の存在をいつでも作り直し続けるというか、疑いつつ信じるみたいなことをしないと、考えもガッチガチになるじゃないですか、リフレッシュできないっていうか。かといって、不安になり過ぎると居ても立ってもいられなくて、何かにすがってしまうというか。「(大事なのは)お金だー!」とかになっちゃうんで。そういうバランスを保ってやっていきつつ、やっぱり挑戦もしていく。ただ、どんどんやればやるほど忙しくなるじゃないですか。忙しくなればなるほど、どこかしら体に不調も出たりするんで。で、そうなると「これは多分持続性ないな」と体から自覚する。だから、最近どうやって持続できるかは色々考えているんですけども。

僕も自分が関わっているアートプロジェクトとか、持続しているものについて考えてますね。僕がいなくなってもずっと残り続けてるっていう状況が、なぜか存在してるといいなっていうか。だから、その持続のさせ方が肝にもなってくるなっていうのは思っています。

気楽に何かをやれる場所というか、自分の居場所を作るのは自分しかいないっていうことを、意外と誰も教えてくれないんで…まあそれは自分で見つけるしかないかもしれないんですけど。

いやでも、そうですよね。例えばドクメンタみたいな国際展はわかりやすい、さっき言ってた西洋中心主義のわかりやすいその業界の目標なだけで、あなたがやりたい作品の話ではないよねっていう訳で。そこの関係性に関してはしっかり持っておかないと、なんか面白くなくなっちゃいますよね。

そうなんですよ。もちろん国際展も出たら面白いんでしょうけど、そういう話でもないみたいな。どういう方角を頼りにしていくかは、その人自身の嗅覚と知性の話だと思うんで。僕は僕なりに、ちょっとボートで海を彷徨ってる感じですけど、それが結構楽しいっていうか、「あーなんかいいとこ来たなー」、みたいな状態です。今回のANBの展示は「楕円の作り方」ってタイトルで展示を作ってたんですけど、キュレーターやアーティスト、もう全員が対等な立場でプロセスを踏んでいく、っていうのをやってみたという感じです。既存の作品を借りて来ずにほぼ新作のみだったので、どんな展示になるかを誰もわかってない状態で。なので、もしかしたら大破綻するかも、とも思いながらプロジェクトを進めていってました。個人的には、作家と僕らキュレーション側っていうのが、いかに豊かな人間関係を結び、そして良いプロジェクト空間を作れるかどうかっていう点にしか注力してなかったので、もしかしたらこれはビジュアル的には完成しないかもしれない、っていう可能性もあったんですけど。蓋を開けてみたら意外と展示然としてたんで、一緒にキュレーションをやっていた布施くん※22と、びっくりしたねって。

『ENCOUNTERS』展内4Fスペース「楕円のつくり方」(キュレーション:吉田山、布施琳太郎)
(撮影:山中慎太郎(Qsyum!))

そんな感じだったんですね。

さっき言ったように基本的には仲良くしたいとか興味があったりする人と仕事をしたいと思ってるんで。もちろん良い作品、良い作家というのは前提にあって、キュレーションという視点があり、その中でも文脈というか自分たちの表現したい空間を目指しつつも、仲良くしたい人だったり今後も一緒に付き合っていきたい人を呼んで展示をやるっていう、エゴの塊みたいなプロジェクトの進め方をしてみた、っていうのがあの展示です。できるだけ全部会話をするというか、「あなたのこの旧作品を借りたいです」っていう一方的な付き合い方じゃない状態で進めていく。「あなたに興味があるんだけど、何を置いていけばいいかを一緒に考えて決めていっていいですか」みたいな。そういう挑戦をANBではしていました。山峰さんも「単純なトップダウンではないことをこの場所ではやりたい」って言ってたんで、僕も尚更その考えを引き継ぎたいと思いましたし、じゃあ展示の作り方自体にそのギミックを突っ込もうと思って。

なるほど。でもそうですよね、僕も結構アートプロジェクトをやってるんで、どっちかというと新作を作ることにしか興味はないんですけど、「なんか作りませんか?」って言いたくなりますね。新しい場所というか、ここだから出来ることがあるし、せっかく一緒にやることになって出会ったメンバーで出来ることがあるはずだから。そっちの方が断然楽しい。

楽しいですね、やっぱりドライブがかかるというか。もちろんその行く先が見えない怖さとかはあるんですけど。「どこに向かっているんだこの車は」という感じなんですけど、車内はとにかく楽しい。

なんだかんだ良いものができますしね、そういう時って。

そうなんですよね。そもそもアーティストが勿論相当に力がある人たちなので、成功したことではあるんですが。なので、まあよかったなと。展示に関して賛否両論はありますけど、個人的にはそもそも僕自身がすごく満足してしまっているんで、そこはもう誰にも譲れないぞと(笑)。もちろん反省とか、次はこうしよう、みたいな宿題は自分の中であるんですけど、まずは自分自身を誤魔化さないというか。自分で満足していくしかない、というのは明確なんで。

結局やるしかないですもんね。

そうですね。そういう意味では、今日はデルタを結構話の軸にしてしまうんですけど、出展依頼が来たのが1ヶ月前くらいで。

トークショーの時も少し言ってましたね。

彼らがやるってなって、案内を出しても開催が1年後だったら熱意が冷めそうだから、1ヶ月後に開催っていう泥舟に一緒に乗れる人がいい、みたいなことを言ってたような気がしますね。最初はアートフェアをやりたいらしいっていうメールが友達づてに来て、「そうか、どんな感じだろう」と思って企画書見たら、来月に開催って書いてあって。で、一瞬考えたんですけど、こんなスピード感は慣れてるなと思って。「1ヶ月ありゃいける、乗るぞー」って。それで、やっぱり結果的に出てよかったなって思います。今日みたいに新しい人にも出会えましたし。

(2020年10月29日)

○注釈

※1 DELTA Experiment (デルタ エクスメリメント):2020年8月に大阪のTEZUKAYAMA GALLERYにて開催されたアートフェア。東京、大阪、京都の拠点とする7ギャラリーが出店。
https://delta-art.net/

※2 李さん:李 沙耶(り さや)。ギャラリスト。2019年に東京、不動前にLEE SAYAをオープン。https://leesaya.jp/

※3 川良さん:川良謙太。VOUオーナー。https://vouonline.com/

※4 FL田SH(フレッシュ):ギャラリー、ショップ、リソグラフ印刷スタジオが三位一体となった、アートショップ。吉田さんが高田 光さんとともに2018年にオープン。入居ビルの建て壊しに伴い、2020年7月をもって神宮前スペースでの活動を終了。移転中は、様々な場所で企画を継続している。

※5 目(め):日本の現代芸術活動チーム。2012年に現代美術家の荒神明香と表現活動集団wah document(南川憲二+増井宏文)によって結成。

※6 川俣正:アーティスト。1953年北海道生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科卒業後、同大大学院博士課程満期退学。82年のヴェネチア・ビエンナーレ以降、世界各国の国際展やグループ展に参加してきた。その作品は公共空間に材木を張り巡らせるなど大規模なものが多く、製作プロセスそのものも含め作品となっている。

※7 増井さん:「目(め)」のメンバー。

※8 京都造形芸術大学:京都府にある私立芸術大学。2020年4月1日付で大学名を京都芸術大学へ変更。

※9 SIDE CORE (サイド コア):2012年、高須咲恵と松下徹により活動を開始。2017年より西広太志が加わる。美術史や歴史を背景にストリートアートを読み解く展覧会「SIDE CORE -日本美術と『ストリートの感性』-」(2012)発表後、問題意識は歴史から現在の身体や都市に移行し、活動の拠点を実際の路上へと広げている。

※10 EASTEAST_Tokyo (イーストイースト・トーキョー):2020年6月に東京で行われたアートフェア。http://www.easteast.org/web/

※11 ANB Tokyo:六本木に新たなアートコンプレックスとして2020年10月11日にオープン。本年11月8日までオープニング展として「ENCOUNTERS」を開催。吉田さんは布施琳太郎さんとともに4Fのキュレーションを担当。https://taa-fdn.org/anb-tokyo/

※12 山峰潤也 (やまみね じゅんや):キュレーター/一般財団法人東京アートアクセラレーション共同代表。東京芸術大学映像研究科修了。東京都写真美術館、金沢21世紀美術館、水戸芸術館を経て現職。パブリックミュージアムのキュレーターとして培った経験を元に、六本木に出来たアートコンプレックス「ANB TOKYO」のディレクションや行政や企業との共同事業、アーティストコレクティブ、展覧会企画など、新たな方向で邁進中。

※13 豊岡演劇祭2020:兵庫県豊岡市にて開催された演劇祭。https://toyooka-theaterfestival.jp/

※14 Aokid × 橋本匠 (あおきっど、はしもと たくみ)
Aokid:14 才の頃にブレイクダンスを始め、大学では映画を専攻しながら平面や 立体作品も制作。1_WALL グラフィックグランプリなど。〈東京 ELECTROCK STAIRS〉、鈴木優理子振付作品や BONUS ダンス演習室に参加。aokid city という独自の公演を持つ。
橋本匠:イメージが人類に与える影響を表現するインプロヴィゼーション方法論 「トランスフォーめいそう」を構築する。六本木アートナイト 2013 など 多くの場でソロパフォーマンスを発表。3 人組フンドシ演劇ユニット 〈さんざん〉やラッパー〈抜け作〉としての活動もある。

※15 平田オリザ:日本の劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、こまばアゴラ劇場支配人。戯曲の代表作に『東京ノート』『ソウル市民』三部作などがある。

※16「開かれた作品」:ウンベルト・エーコによる芸術論。芸術作品とは、享受者の積極的介入によって意味内容が可逆的に発見される「開かれた」形態であるとし、現代芸術の可能性について論じている。1962年初版発行。

※17 ウンベルト・エーコ:イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前(Il nome della rosa)』の著者として最もよく知られる。2016年2月19日、癌のために84歳で死去。

※20 国立国際美術館:大阪市北区中之島にある、独立行政法人国立美術館が管轄する美術館。設立は1977年(昭和52年)。当初は大阪府吹田市の万博記念公園にあったが、2004年(平成16年)に現在地へ移転。

※19 キュレーション、アートマネジメント、流動現代ギャラリー「FL田SH」主宰、散歩詩人として活動する吉田山のコレクションしてきた作品と、吉田山の作品による個展『鱗が目(thinking about roundabout)』が吉田山の網膜剥離治療による自主隔離に設けられた時間、10月19日から48時間の間、自宅で開催される。web中継を通して鑑賞する展覧会。https://yoshidayamar2020.peatix.com/ 

※21 檜山真有 (ひやま まある):1994年大阪府生まれ。同志社大学文学部美学芸術学科卒業、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻キュレーション領域修了。修士論文テーマは「セス・ジーゲローブのキュレーションの技法に関する研究」。展覧会企画に、2018年「Pray for nothing」(「ゼンカイ」ハウス、兵庫)、2019年「超暴力」(山下ビル、愛知)など。

※22 布施琳太郎(ふせ りんたろう)
1994年生まれ。アーティスト。2017年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。現在同大学院後期博士課程映像研究科(映像メディア学)在籍。スプレーを用いた絵画やインスタレーションの制作、展覧会企画や批評も行う。近年の企画に20年『余白/Marginalia』(SNOW Contemporary、東京)、「隔離式濃厚接触室」(https://rintarofuse.com/covid19.html、2020)。

進藤冬華

プロフィール

進藤冬華(しんどう・ふゆか)
札幌を拠点に活動するアーティスト。地域の歴史や文化に関わるリサーチを通じて作品を制作し、地域の抱える問題や、見えない過去の歴史、文化などとの対峙を試みている。 リサーチの方法で、ある場所に滞在したり、史跡を訪れるなど、自身が移動し、地域を歩き回ったりすることが多いことから、近年はツアーやピクニックなどを企画し、参加者と地域をめぐるような活動を行ったり、自身が街に出て地域の人々に何かを仕掛けるようなパフォーマンス作品を展開している。

参加した主な展覧会やアートプロジェクトとして、
「鮭のうろこを取りながら」(2015年、北海道立北方民族博物館)
「対馬アートファンタジア2016」
「Parallex Trading」(2019年、das weisse haus、ウィーン)
「移住の子」(2019年、モエレ沼公園)
「Month of Art Practice」(2019年、 Heritage Place, ハノイ)
「たよりをつむぐ」(2020年、茨城県常陸太田市)など。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

河原功也 Koya Kawahara_キュレーター




1.

冬木(以下、F)最初に知り合ったのはNYで、進藤さんがアジアン・カルチュアル・カウンシル※1のプログラムで来られてて、僕は吉野石膏美術財団※2から助成金を貰って行ってた時で。でも改めてこんな感じでアーティストの始まりとかを聞いたことは、今までなかったですよね?

進藤(以下、S)簡単に言うと、本当に受験だから、みたいな感じ(笑)。

F 大学受験ですか?

S うん。進路を決めるでしょ、その時に美術って決めた人だから。でも絵を描くのは嫌いだったし、図工とかも全くダメだったし。だけど、高校生からしたら図書室で見た現代美術の本から、美術ってすごく変に見えて。だから、そういうので決めたんです。私、高校までって何やっていたか何考えていたかあまり覚えてないんですよ。基準もないことだから誰かと比べられないし、何がどうだったとかわからないんですけど…。河原君は高校生の時、何してました?

河原(以下、K)僕は小・中・高とずっとサッカーしてました。ただボール蹴ってるだけでしたけど。僕も芸術を選んだ理由は進藤さんと近くて、図書館で現代美術の本を見つけたのがきっかけです。小山登美夫さん※3の本だったんですけど、「なんだこれ?」ってパラパラと見てて、こんな世界があるのかと思ったっていうのが始まりですね。で、自分は描いたり出来なかったんですけど、その本の中に“ギャラリー”っていうキーワードがあったんで、そういったマネージメントする側について調べてたら、もうなくなっちゃんたんですけど、京都造形大にARTZONE※4っていう学生がギャラリーを回してる施設があったんですよ。そこがおもしろそうだなって。実践的に出来た方が自分には良いかな、と思って受けました。

F それで卒業してから3331※5に?

K はい、11月で退社するのですが。今は、有給消化中です(笑)。

S そうなんですね。ええと、話を大学の頃に戻すとしんどかったです。大学の頃は作らなきゃいけないのに、作るのが得意じゃないから。私が行ったのは美大じゃなくて、北海道教育大学の美術コースっていう、教育関係の授業を取らなくてもいいコースがあるんです。大学院は北アイルランドにある総合大学の中のアートカレッジに行ってました。でも、全然あの…真面目にやってなかったね。私は本当に楽しく遊んでしまいました(笑)。当時の作品の記録がないもん。でも改めて思い出してみると、学部を卒業して札幌の中にあるアーティストが運営してるオルタナティブスペースに入って、そういった運営を手伝ったりとかしてる時に、ちょっとプロジェクトっぽいことをやったりはしていました。でもね、みんな絵を描いたり物を作ってる時に、プロジェクトのような作品をやってても誰も何も言わないんだ。

K それは反応がないってことですか?

S ないんです。そうすると、やっぱり私はそれをやめるっていうか。当時の私はいつも反応がない事に悩んでた気がします。

F 絵を描いてる人がいる横で、進藤さんはプロジェクトというか…

S 凧揚げしたりしてました(笑)。でも、あんまり仲間みたいな人はいなかったかな。いたのかもしれないけど、あんまり覚えてなくて。それで、私すごく根性がないので諦めちゃうんですよ、頑張りがきかない。だから今考えるともったいなかったと思う。ずっとそれを続けてたら、もうちょっと違ったと思います(笑)。大学が終わってから一回札幌の外に出て、大学院修了後4年間ぐらい美術関連の企画の仕事をやってたので、制作に気合いが入ってない時期もあったんです。アーティストが運営するギャラリーで運営に関係したことをやったりとか、その後もレジデンス・プログラムの事務局にいたりとかして。でもその仕事をしてると、あまり精神が綺麗でなくなっていく感じがあって、私には合ってなかった。結局それを辞めて、そこからやっと制作に集中するようになったんだと思います。だから、大学院修了したのが2006年くらいだったのに、初めて個展をやったのも2011年で。ちょっと時間が経ってるのね、制作しようって思うまで。でも、ひとつ覚えてるプロジェクトは、ジャンクディラーっていうか、廃品回収みたいにゴミとかを集めて売る人が、昔は馬車で来てたんだって。で、馬とカートを用意してそれをやるっていう。※6

K 日本でですか?

S 北アイルランドで。私はプロジェクトを計画する側だったので、お金を集めたりとか色々やって。現地で私のいたスタジオのボスをフィーチャーしてやったんですけど、彼自身は内装やテーブルだったり装飾を作ったりしてる人で。馬車を作るもとの材料も、とりあえず2人で車で走ってて、農家にあったカートを見つけて、「そのボロボロのやつを売ってくれ」って引き取って持って帰るっていう。で、動かなかったんだけど、それをちゃんと直したりして。馬は誰かに借りてくるんだけど、カートや他のものは全部直して作りました。なんか、スタジオではみんなバラバラなんだけどそれぞれの職能はあるので、サバイバル能力はめちゃめちゃ高いところでした。本当に車とかもスクラップヤードから持ってきて、自分で直して車検通して乗るみたいなところ。日本だとすぐに新しいものを買うけど、そこの人たちは古くなったものを上手く再利用してた。そんな感じのところにいた経験から、地元の人と交流し、彼らと生活する中ですごく文化的なものや伝統って本当はいっぱいあるんだなと思ったんです。アイリッシュ音楽とか食べ物もそうだし。そういう場所なので、自分の背景が自然と気になってきて。ご飯も一緒に食べるし休みも一緒に過ごしたりするけど、持ってるバックグラウンドは違うから、普段の生活はみんなとシェアできてるのに、背景は全然共有してないっていう状況が生まれる。

「RAG & BONE PROJECT」2007年、Catalyst Arts、ベルファスト」

F それは進藤さんと現地の周りの人たちのあいだで?

S そう。当たり前なんですけど、見てるテレビも違うし、みんなが知ってる音楽も私だけ知らないとか。そうなると、普通に「じゃあ自分の背景って何だ?」ってなりますよね。そこから歴史とか文化的なものに対する関心が生まれて、帰国したらそういうことをやろうって思ってた部分はあります。それでさっき言ったように、帰国して何年かは働いてたんですけど、その時にはもうサハリン※7とかに調査に行くことは始めてました。北海道って、文化圏的なものは北に繋がっているものがあるんじゃないかと思っていて。国境で分けられるものじゃなくて、違う繋がりがあるのかなと思ったんです。まだ実制作はあまりしてなかったんですけど、そこから割と色んな地域に行き始めて。

F じゃあ、おじいちゃんおばあちゃんも北海道の人で。

S そうです、北海道の人は明治期以降に入植した移住者が多いのですが、うちの父方の祖父母もサハリンに住んでました。で、やっぱり第二次大戦後北海道に引き上げてきてる。北海道ってそういう人がすごく多いんですけど、私も自分の祖父母がそうだったっていう話は全然知らなくて。本当に祖母が亡くなる間際にそういうことを意識するようになったんです。だから、サハリンに行くと本当に日本領時代のものがまだ全然あったりする。サハリンには少数民族の人もいる多民族の場所なんです。少数民族の人もいるし、あと朝鮮系の人も多いんです。それは日本領時代に移住して、日本人は帰ったけど、彼らは残ったりしている歴史がある。あと、北朝鮮ともまだ繋がりがある人たちもいます。一度、韓国から学術系のリサーチに来てた人と一緒になったんですけど、博物館とかにハングルのいろんなものとか掛け軸とかもあって、その人が言うには「多分それは北朝鮮から来てる」って。そんなこんなで、サハリンに行った時は少数民族の人たちのところに行って、手仕事を習ったりとか、そういうことをやってたりしてました。

F 2017年にNYでリサーチしていたことも、その流れですよね? 歴史とか、自分の手前の文化を調べたりするうちに、そういった流れで…

S 主には北海道開拓の話だったんです。明治の日本では、北海道開拓のために、技術が進んでいたアメリカ人の技術者とかアドバイザーを招聘していたので、その人について私は調べていて、それでアメリカに行ったんです。流れとしてはそうなんですけど、その時は興味を持ってる分野がサハリンに行っていた時よりもう少し近代よりになってましたね。以前は、博物館の昔の道具とかだったり、興味の分野も少し違いました。

「記録ー人物像」2016年、240×179mm 湿板写真

F 歴史を追っていくうちに、近代のことに興味の対象が変わっていった感じですか?

S 徐々にズレていったと思います。北海道のことを作品にしようと思ったら、アイヌの話やもっとそれ以前の話もありますが、明治以降の北海道開拓時代は歴史の大きな変換点なので、そこについてはいつか作品にしようと考えていました。それまでは、海を越えて近隣のサハリンや青森との関係を見る中で、北海道という地域がどんな場所なのか知ろうと思っていたけど、明治期に西欧からの影響が入ってきて、近隣の影響だけではないものが、北海道の背景に入ってくることを考えると、いつかアメリカに行ってみたかった。それに、やっぱりちょっと難しいなって思ったのは、例えばアイヌの人についても今よく言われてる文化の盗用※8があるから、その点で難しさも感じましたし。あと、2015年に北方民族博物館※9っていうところで展示をしたんですけど、それが2008年ぐらいからサハリンに行ったり、ずっと見ていたりしたことの、ひとつのまとまった作品展示になったんだと思います。だから、そこで一旦区切ったのかな…でも自分自身が難しさを感じてたなと思います。今だったら美術に対する理解とか、ちがう分野での交流は生まれてきているかもしれないけど、その当時にアーティストとして一人でそういうアカデミックな対象に入ってくのは、疑いの目を向けられるというか、怪しまれる。やっぱり学術とは全然違う方法で歴史であったり、そういった研究対象でもあるものを扱っていくから。他にも例えば、アートプロジェクトに参加していて「プロジェクトをされているアーティストさんですよ」って大学の人に紹介されるのと、全然何の後ろ盾もなく入っていくのでは違いますよね。だから、最初は大変だったなと思います。

F 河原君もプロジェクトとかに興味があるって言ってなかった? 何かを複数人でやる状況とか、コレクティブ自体の仕組みについてだっけ?

K そうですね、気になっています。今回3331を退社したのも、10月と11月にインドネシアに滞在する予定だったんですけど、それがコロナもあって難しくなってしまって。今回は、冬木さんに連絡をもらって面白そうだったので、お邪魔しにきた感じです。

S じゃあ本当はそのインドネシアのコレクティブを見に行くというか、調査しに行くはずだったんですか?

K はい、調査というよりはもう少し緩いものなんですけどね。それに派生して、コレクティブ的な組織は日本にもいっぱいあるので、それらについても話を聞いたりとか会いに行ってみるのも面白そうだなと思っていて。なんというか、東南アジアのコレクティブは生きていくために集団になる必要があって、コレクティブ自体をやっているっていう感触があって。で、それと比較した時に日本ではどうなんだろうとか、或いはそれぞれのチームを組む理由とか、まあいろんな側面があると思うんですけど、そういう生の声を聞いたりとか現場を見てみたいってのはありますね。

F 進藤さんもコレクティブっていうと少し違うけど、共同スタジオで制作されてましたよね?

S うん、今もスタジオにいます。札幌のなえぼのアートスタジオ※10ってところに居てるんですけど、そこでも始めにコレクティブにするかどうかっていう議論はちょっとあって。

F 違いはどういう…?

K そこは気になりますね。そもそもの「コレクティブって?」ってところですよね。

S 意識としては、私たちのところはもっと個々のスタジオの仕事を優先する。最初に話し合って、グループとしての何かを優先するんじゃなくて、まず個々のアーティスト活動があり、そのためのスタジオであることを優先するっていう考え方にしたはずです。なので、コレクティブって私のイメージではもっと一緒に何かをやってる感じがあります。一人一人の単独のものではなく、組織として何かプロジェクトをやったりするっていう。もちろん私のスタジオでもオープンスタジオとかはあるんだけど、そこまでそんなにメンバーで一緒にやってないかなあ…。何かプログラムをやりたい場合は、大体が最初に言い出した人が中心になってやる感じです。けど、みんな忙しいからそこまでやっぱり頻繁に色々できない。

「なえぼのアートスタジオ」

2.

S 私が展示とかで一緒になる機会が多いのは、冬木君くらいの年齢から少し上の人が多いんです。自分と同じ年齢くらいの人はキャリアがいき過ぎてて、一緒になることがない。だって年齢的には田中功起さん※11とか藤井 光さん※12とか、あの世代だから。でも私は2011年に始めて、キャリアのスタートが遅かった。一緒になるアーティストの感じとかは、多分そこと関係あるんだろうなと思ってて。

K 始めた年が。

S うん、何かあるんだろうなって気がします。

F ありますよね。僕は遅い組というか、単純に割と時間がかかったタイプなんで(笑)。

S まあ大変だよね、そういうのって。一旦きっかけが得れるまではね。

F それこそ進藤さんとオンゴーイング※13の繋がりで言えば、山下拓也君※14とかが僕と同世代ですね。確かひとつ下かな?彼はもっと早くから出てたと思いますけど。あとは地主麻衣子ちゃん※15も同い年なんですよね。

S 地主さんも同い年なんだ。やっぱり私はあのへんと一緒になってる率が高いなあ。例えば地主さんはいつも展覧会で一緒になるなっていう時が一時期あった(笑)。そこの世代って何かありますよね。私の世代とはもう意識や感覚がちょっと違う。それに、いま活発に活動してる人が多い印象がある。会わないだけかもしれないけど、逆に私とそこのあいだの人ってあんまり思いつかない。そういう世代に関係したことについては前から気になってるんだけど、誰も何も言ってないのかな?

F 僕が学生だった時の周りの印象でいうと、名和晃平※16さんや鬼頭健吾※17さん、あと小谷元彦※18さんとかが教員からもう少し上の准教授くらいになられてて。あの時いわゆるアートバブルで、その流れに乗ってる人たちが結構早くに先生になってたんです。だから、ちょうどコマーシャルギャラリーですごく取り上げられてるような人たちが先生で、その影響を受けてたのが僕の上ぐらいの人たちでしたね。

S なるほどね。じゃあそこを見て育っているその少し上の世代は、冬木くんとは意識が違うんだ?

F 個人的にはちょっと違いますね。まあ、同級生にも影響を受けてる人は沢山いますけど。河原君から見たらどう?

K その上の人たちと違うなっていう点では、冬木さん世代の人たちは僕たちとも結構一緒にやってる印象があります。下の世代とも何か作ってくれてる感覚はありますね。

S うん、ちょっと意識は違いそう。あとね、ジェンダー的な感覚もすごく違うと思う。やっぱり冬木くんたちの世代から、女性のアーティストがすごく増えるでしょ?

F そうですね、言われてみたらそうかもしれない。

S 私の周りで女性のアーティストで活動してる人ってあまりいないんですよ。それで、私と同じ世代の男の人っていうと、なんというか少し考え方に昭和感があったりする人もいるし。でも、もう冬木くんたちの世代になると、ジェンダーに対しても意識が違うと思います。そういうことに関しても、私とは色々違う世代なんだろうなって。どうしてなんだろうね。

F 何かあるんでしょうね。

S でも多分アートバブルの後の世代っていうことは、なにか関係ありそうですよね。おそらく、当時みんなっていうか多くはそっちに行ったんだよね…でも、アートバブルが終わったことは関係しているとして、その後の世代の人たちが作品を売ることが最優先じゃない方向に行ったのは、やっぱりそうじゃないって思ったからなのかな。どう思ってそっちに行ったんだろう。冬木くんは売る方向を目指したことあるの?

F いい作品を作ってたらなんとかなるだろうっていう感じで、楽観的でした(笑)。でも、そもそも美術をやろうと思って大学に入ってなかったんですよ。もう少し時間が経って、「何かやるのなら、やっぱり美術かなあ…」という考えになっていったんで。

S でも、多分私ぐらいの年齢の人たちは選択肢のオプションがあまりなかったんでしょうね。目指すところの最終形は1つしかないっていうか、ピラミッドのトップがどこであるかがはっきりしてるんだろうね、本当はオプションだらけなのに。もうちょっと冬木君や河原君の世代になってくると、必ずしもそうじゃなくてもいいっていうか、そこがちょっと崩れてくる。例えばわかりやすく言うと、西洋的な美術が一番いいってことも、はっきり言って今はもう崩れてるじゃない?でも、それを信じている一定の世代から上の人たちはそういった教育を受けてきたし、みんながそれを目指してたから、そういう思考になりますよね…。確かにそれは私の中にもある気がするな。私の世代や少し下ぐらいまではそういう思考が強そうだなって感じはします。特に地方の場合はそれが強い気がする、若い世代はわからないけど。

K 実感としてあるんですね。

S ただ、私自身はこの1年くらいって、もう作品がものを作らない方向になっていってるんです。そうすると例えばギャラリーとかそういう場所に絡んでいけない訳なんです。そうすると、ちょっと考え方って変わっていく。箱の中でやる展示に何を出せばいいかわかんなかったりもして。例えば、ツアー形式で作品をつくると、ツアーをやっている時がライブみたいに一番ピークがあって。で、それを別のところで同じものを見せる場合に、単純に記録を見せることには違和感を感じていて。要するにライブでお客さんが感じるものと、その後に、例えば展覧会でお客さんが感じるものを同じにするのはすごく難しくて、だから箱での展示はツアーとは別の体験とか何かが見えるようにしています。ツアーっていう色々なものを見ながら歩いたりする、この行為ってことは核にあるんだけど、観客が作品に出会う状況によって、変わる必要があるんですが、そこがどう展開できるかに今すごく興味あるんですけど。

F ツアーの形式ですか?

S 2019年にベトナムで、家からお墓まで行くピクニック※19っていうのをやったんです。大きくは3つのパートに分かれていて、ひとつはまず企画するところ。で、企画ってすごくいいのは実際にやらなくてよくって、妄想だけで行ける(笑)。こうなってここに行くっていうのを、自分の思っている通りにロマンチックに行ける。まずそれは作品の中の見せ方の1つ目だなと思っていて。で、次に実際に行く。行くのはもちろんリアルだから、そのための準備や計画をちゃんと練らなきゃいけないところもあったりする。私はやる立場ですから、自分が楽しむというのもあるんだけれど、すごく気を使わなきゃいけないところもあったりして。リアルタイムにその場をつくるために私は動いているっていうか、ピクニックを妄想していた時とはまた何か違う感覚ががあるわけです。その中で企画書を町の人が読めるように、私は行く道々に貼っていってたんですけど、その街の壁に貼ってる状態を写真に撮ってポスターにしたものと、フェイスブックにもその企画書を載せていたものがあって、最後にギャラリーで展示する時は、結局その2つのビジュアルをギャラリーに貼るっていう発表の仕方をやったんです。何をやったのか自分でも完璧には理解していないんですけど、それについてはギャラリー用の展示を自分なりに考えたわけです。でも、展示においてはそういう行為ってすごく難しくないですか?作品としてのものがないことや、ライブみたいなものを別の場所でどうやって展開するか、その時の参加者以外の人と何か共有したりとかを、こちらが言いたいことも含めてプレゼンしていくかっていうのはなかなかすごく複雑で…。おんなじことでもなくて、何回もできない。例えば、もしこの場でさっきのピクニックの話をするんだったらどうやるか、レクチャーパフォーマンスになるのかどうかとかはわからないですけど、そこをどうしたらいいんだろうって今すごく思ってるんですよね。今回のプロジェクト※20もターゲットは街の人ですけど、それを例えばプロジェクトの後、別の場所で展示にするとかに持っていく時にどうやるのっていうこととか、不思議なんですよね。みんなどうしてるんだろう?冬木君とかは?

F 僕は結構分けてますね。

S ギャラリーでやる時はそれはそれで、それ以外の場合はそっちでって?

「理想のピクニック」2019年、Month of Arts Practice、 写真:Thu Cam」

F 組み込める場合は組み込むし、組み込めないものは、もう組み込まないです。ただ、そうですね…。美術館とかギャラリーに比べて、それ以外の公共の場所の方がダイレクトなアプローチはできるんですけど、場所に関する自分の興味はもうちょっと漠然としています。そもそも作品っていうものってパッケージされているじゃないですか、例えばある任意の場所に固定されてる。で、認識としても言葉で包括できたり、こういうものですって説明できたり、ここからここまでってまとめられるというか。でも、作品をパッケージする時間軸を伸ばせばもう少し変化してくるというか、他の要素が入ってくる気がするんですよね。2017年に大阪の江之子島文化芸術創造センター※21っていうところで展示があったんですけど、その時に作ったのが大きいオレンジを潰す装置みたいな作品で※22。そこで働いてる人が仕事の中でイライラしたりネガティブな感情になった時に、それを使ってオレンジを潰して、潰した瞬間にいいオレンジの匂いがして。部屋全体にオレンジ臭がするんですけど、でもその発端はイライラだったりネガティブだったりで、「これは何色の感情なんやろう?」って思って。絞ったオレンジはジュースとして飲んでもらって、あとには潰れたオレンジしか残ってないんですけど、それをセンターの中にいくつも展示台みたいな箱を用意して、そこに返してもらう。展示室で完結しなくって、その手前にどこからか来る人とか、どこかにいってしまう匂いとか、場面も構成要素もどんどん変わっていくものな気がするんです。それこそ20代の頃はそういう志向はもっと漠然としてたんですけど、やっとその江之子島で作ったものが、そういう線的な伸ばし方をしていくことの試みとして、「やっと初めてちょっと噛み合ったぞ」みたいな。初めてギアがハマったって感覚が、その32歳の時に作った作品で。でもそれも、思いついた瞬間は自分の作品のことを全部が全部わかっているわけではなくて、やっぱりちょっとずつわかっていってて…。

S 今は前よりしっくりきてるの?

F はい、段々少しずつしっくりきてますね。

S じゃあ過去に別のやり方をやっていてしっくりきてたことはあるの?

F あります。

S そうなんだ。じゃあそれはもう飽和したっていう感覚だったり、それとも全く別の埋められないものだったりしたっていうこと?

F 一番最初に作っていた幾つかの作品が、自分でもよくわからないけどいいなっていう状態だったのが、やっと自分で何をやっていたかが解ってきた、という感覚です。それこそ大学の一、二回生の時に作ってた作品ですね。後付けなのかもしれないですけど、自分ではそういうことだったのかと割と腑に落ちることがあって。すごい紆余曲折しながら…。

S だんだんわかってきてるってことか。冬木君はやっぱり作品って自分のために作ってるんですか?

F そもそも自分っていうものがそんなにないと思っていて。たまたま1984年生まれの、日本っていう国の大阪っていう割と大きめの都市で育った、そんなに背も高くもなく目立ったものもなくて、だから共通点がいろんな人にあるであろう人間が考えて作ったもの、みたいな感じです(笑)。自分が特別だとか才能があるとは全く思わないですし。

S 自分が例の一人みたいになってるのね。でもそれはすごくわかります。私もそういう感じはある。私自身がそういうことを思うようになったのはすごい最近かもしれないんだけど、作品って誰のために作ってるかとか何に向けて作ってるとかはありますよね。

F あ、ちなみに進藤さんって辞めたくなったことってありますか?

S 本気で辞めるみたいなのはないですね。

F でも、ちょっと辞めたいって言いたくなるようなローな時とかあるじゃないですか。

S あるある、もう死にたいって思ったりします。すっごい泣いたりする(笑)。

F 誰のために作ってるかって言うなら、そういう時に意外と考えるのが、多分もう二十歳ぐらいの男の子で僕みたいなヤツはどっかにいるんですよ。なんとなく今の美術の状況に腹立っていたり、どこか自分のことを賢いと思っている、なんか鼻っ柱の強い奴がいるんです。で、その自分みたいなヤツに、僕がやっていることや今の日本の美術がクソばっかりだと思われたくないっていうのが、実は結構あるんです(笑)。それこそ、誰のために作ってるとかは特にないんですけど、でも美術を続けたいっていう衝動のひとつになぜかそれはあるんですよね。

S なんだろうそれ…。でも、要するに自分の若い頃に対してだよね。

F 多分そうだと思います…。何なんでしょうね(笑)。

S でも、私はわからないな。自分の20歳ぐらいの時に対して作品を作ってるかっていうと作ってないな。だって私はホントひどかったからね。本当にしょうもない若者だったと思います(笑)。でもそう思うと、冬木君は頑張ってたんじゃない?うまくいかないと思いつつ、割とがむしゃらなところがあったんじゃないかな。

F そうですね…。でも学生時代は頑張ってたって意識もなく、本当に楽しくてしかたなくて。中学や高校の時にいじめたとかいじめられたみたいなことは全くないですけど、それまでは全然つまらなくて。

S わかる!私の高校の記憶がないってそういうことだと思います。でも、それって自分自身も楽しむ方法がわかってなかったんですよね。

F そうですね。だから、みんなと一緒の中で選ぶしかなくって、サッカーやってとか、彼女といたりしかなくって。限られた中でしか知らなかったんだと思います。だから大学に入って本当に楽しくなりましたよね。

S 世界が狭いのは当たり前ですよね、それしか知らないから。私も制作はしなかったけれど、すごい楽しかったです。あの大学の時代で人生の大事な遊ぶ部分はかなり全うしたと思います。

F なんか友達の幅というか、感じも全然違って。

S 話が合うんだよね。息ができる感覚がありましたよね。

3.

S でも、やっぱりやりたいかどうかって重要ですよね。自分が本当にやりたいことかどうか、自分の行きたい方向に行ってるかみたいなことって。

F そうですね…多分自分はどこに行っても作れたり、ある程度フレキシブルにできる方ですけど…なんかそれでもやっちゃいけない部分があるなっていうのはすごく思いますね。

S 確かにそれはわかります。私も今回のこういう地域に来るプログラムって本当に全然知らなくて。自分に何も接点もない場所に来るからすごく難しいと思ってたんですけど、実際に来てみてそれなりにはできるんだなっていうのは思いました。

F 進藤さんはいつもちゃんとやられてる印象はありますよ。今回のプロジェクトも進藤さんの目線だなってすごく感じましたし、ちゃんと地に足が着いてる。結構最初から進藤さんにはその印象があって、確か2度目にお会いしたのがISCP※23のオープンスタジオの時で。

K ISCP?

S ISCPってNYの長い歴史があるレジデンスで、世界中からアーティストが来るようなところで。だから、色んな人がいておもしろかったですよ。

F そこでオープンスタジオがあって、割と気合い入れて4Kの映像作品をプロジェクションしてる人とか、結構しっかりと平面や彫刻を展示してる人ばっかりなんだけど、なんか進藤さん一人が画用紙を切っただけみたいな(笑)。

S 壁一面、切り絵みたいなやつね(笑)。そのとき私は、オープンスタジオって完成品を見せるだけの場じゃないと思ってて、多分勘違いしてたんだと思う。だからリサーチの途中のものを見せてたんだけど。

F それが逆に異質ですごく良かったんですよね。本当に1人だけ違ってた。それで、あの展示を見た向こうのギャラリーの人に声かけられても、進藤さんは「やらない」って言ってて。それも進藤さんの判断基準があるんだなと思って聞いてました。その違うっていう判断は、実際のギャラリーの人と話してっていうのも勿論あると思うんですけど。

S あの時はギャラリーのサイトとかも見たりして、でも多分違うのかなあと思ってしなかったんですが、思い返すとギャラリーとの関係は継続の可能性があると思うと慎重になっていたと思います。でもプロジェクトとか展示は、その時限りで関係がリセットされるから引き受けやすいというか…。でも、難しくないですか?誰かが一緒に仕事しましょうって言ってくれた時に、ほとんどの場合は受けますよね。受けないっていう選択肢はほぼないですよね…。でも、今もプロジェクトをやってて大事だと思うのは、やっぱりその人と一緒に仕事をして、そのプロジェクト自体がすごく良くなるってことじゃない?最近は相手が本気を出してくれない時は、なんとか出させるように仕掛けることも少しはできるようになってきたから。それでよくなるんだったらやるべきだし、受けたら本気でやりましょうっていう感じでやろうとは思っています。言わなくて後悔したこともいっぱいあるから、率直に話せなくて後から問題になることには、なるべくならないようにはしています。色々なプロジェクトや滞在制作も経験して、前よりは慣れてきたかなあと思います。

F そのプロジェクトの中にとりあえずちゃんと話を聞いてくれたり、まだ全力ではないにしても、こっちの言うことを理解しようとしてくれる人がまず1人いてくれたら、なんとかなる気はしますよね。

S なりますね。例えば企画側とか役所の人にそういう誰かがいれば、確かになんとかやり抜ける気がします。あと逆に面白いのは、役所や外部の人がはじめは冷ややかな感じなのに、話す中で向こうが開いていくようになったりすると、結構面白いことになる場合もすごくある。いいチームになる時は、逆にあまりアートを知らない人の方が、好奇心で楽しんでやってくれることとかがありますよね。なんかきっと美術の方でずっと仕事してる人とかは、アーティストがやろうとすることを評価するんでしょうね。ジャッジメントしながら仕事するからそういう風になるんだと思います。それはそれで別の挑戦のしがいもあるから、いいと私は思いますけど、でもやっぱり人は大事ですよね。思い返すとダメな時あったなあ…。あと自分がダメだったとかもあったな、全然本気になれない時とかね(笑)。

F でも、どう考えても本気を出せない場合もありませんか?それこそレジデンスみたいに制作期間のタイムリミットがある時とか。

S 冬木君は発表するときに途中な感じはないんですか?いつもやりきった感じはあるの?

F その中でもなんとか最適解は出したいなっていうのはあります。期間が1ヶ月だったら、ほぼ1ヶ月かかるような無理なことはさすがに考えないですけど。そういう意味では、僕も進藤さんも「1週間後に何かして」って言われてもできるタイプだとは思います。とりあえず何かは出せるから。でもその、そこそこの答えも出なかったみたいな(笑)。

S 本当にダメな時?(笑)。

F はい、そのとりあえずの回答にも全く納得できなかった時はないですか?。

S 私の場合は、自分の中で大事なポイントにちゃんとフォーカスが当てれていない時だと思います。原因は時間的な制約とか人とかじゃなくって。まあ、自分がそれで諦めたせいもあるんだろうなと思ったりもしますけどね。本当にひどい人とか条件の時とかもあるから、ふざけんなって思うこともあるけど(笑)、でも尚更向こうが予想以上のものを出してやりたくなる。昔、ある滞在制作したところの担当者が引き継いだばかりの人だったんですけど、本当にやる気がなくて、アーティストのやっていることを「訳がわからない」って周りに吹聴するような人だったんです。やっぱり社会の中で美術の存在って、そんな程度に思われる場合もあることはもちろん知ってるんですけど。でも、腹立ったから本当に死ぬほど本気でやったら、その担当の人の態度が最後に変わったのね。だからそういう風に人が変化することもあると思ってて。で、それはそれでいい経験だったんですけど、やっぱり同時に、美術ってダメだなとも思いました。一緒にやる人の話とはまた別なんですけど、その時に「世の中には通用しにくいな」っていうある種の挫折感はありましたね。あと、私は近所の人にアーティストだって本当に言ってないし、絶対バレたくないんです。変人扱いされるのわかってるから。

F 僕も近所に結構好きなスナックがあって、70歳ぐらいのお母さんが一人でご飯も作ってるようなとこで。本当にむちゃくちゃ居心地いいところなんですけど、そこでは僕も全部「デザイナー」で通してます(笑)。

S そうなるよね!私、このあいだ車の一時停止違反で捕まった時もアーティストって言わなかった(笑)。

一同 (爆笑)

S 警察になんて言えないでしょ?。「デザイナー」って言った、私も。

K デザイナーならそのラインは大丈夫なんですか(笑)?

S なんかまだ理解されるじゃないですか。だって、アーティストとか美術家って「ゴッホ?」ってすぐ出ちゃうじゃん、そしたら無理ですよね。「そんな職業あるの?」的な感じだよね(笑)。

F 「アーティストです」って言うと、次に返ってくるのが「絵とか描いてるんですか?」って大体その質問なんですけど、僕らはそれもやってないから、結構きついですよね。

S 近所にバレるとやっぱり面倒なんですよね…。でも本当は嫌ですよね、こういうの。もっとオープンになって、いま話してるみたいに普通にいれるようになりたいですよね。それぐらいアーティストが職業として社会的に理解されてる感はまだなくて、それは変わってほしいとすごく思ってます。

K そういう理解がされていないことって、日本特有の感じですか?海外と比べると、感触として何かありますか?

S 海外にはアーティストとして行くので、もうそれ自体は隠さないです。その期間はそれが仕事として行ってるから、普通に言えるんですけど。でも、そういう「美術とその外」みたいなことって日本って窮屈ですよね。今回のプロジェクトの、意図的に異物として街に入り過ごしてみるっていう試みは、そういう考えもあってやろうと思ってる部分はあります。

F やっぱりアイデアが地続きにありますよね。

4.

S 2019年にモエレ沼の北海道開拓についての展示※24をやったっていうのがあって、そこで自分の中で一回リセットされちゃったんだと思います。それまで歴史のことをずっとやってきたのが、そこが契機になって今はちょっと離れていってるんだと思う。だから今は現在形で世の中に関わることをやってるのかなって気はしています。今回の不審者として街に入ることも、この場所を下見した時の印象では割と高齢化が進んで、新しい人が入ってきて欲しいと思ってるって感じたところから始まっていて。新しい人って異物だから、アーティストという不審者を受け入れられるなら、他の人も受け入れられるかもよっていう、そういう提案みたいな感じで私はやっていたんですけど。けど、作品がそういう風になってきていて、それって自分にやりたいことがないのかもしれないって気がちょっとしてたりもします。やっぱり以前はそういう自分の暮らしていたところの歴史について、一般的にはこう言われてるけど、本当はそうじゃないみたいなところを突きつけたい気持ちがあったんですけど、ある意味、モエレの展示でなんとか歴史についての展示に持っていったので全うされちゃってるのかもしれません。あとは私の北海道の歴史にたいする意識もすごく変わった。私のはじめの認識には、明治初期、本州などからの入植者が頑張って北海道を開墾し礎を築いた。現在の生活は彼らの苦労の上に成り立っているみたいな、そういう美談になってるのが私の中の認識だったし、一般的に北海道開拓に対する認識もそういう認識はあった(ある)のではないかと思う。一方で、北海道開拓って、ロシアの脅威からの防衛とか、天然資源の開発のため道外からの入植者を募り、土地の利用を制度化していったり、アイヌの人々への不利な制度や入植者の差別的な認識など、違う視点もある。今はこういう認識も浸透してきているのではないかな?こうした認識が浸透すれば、私が作品で扱う必要ないじゃんみたいな気持ちが、ちょっとあったりするところも、作品にする対象が移行してきてることと関係あるのかもと思っています。

K その開拓の話って、今回の異質なものが入り込むっていうところと繋がってるって思っていたんですけど。元からそこにいる人の立場からしたらって話ですけど、要は歴史の中で入植者は異物である、と。そう考えると、今回ここでやってることは、より自分ごととしてそれを置き換えていて。

S そういう視点でも見れますね。北海道の場合は、入植者がマジョリティになっているから、やっぱり強者の歴史は美談として語られるっていうか。ここ最近のいろんな動向でも、例えばBlack Lives Matter※25の話とかから考えても、今ってもっとマイノリティの側に目がいっていて、そっちの視点から見るっていう話とアイヌの話は全然別じゃないというか、今の社会の状況ではあると思います。こうしてマイノリティーの側が発言できることや対話が進む状況はこれからもっと進んでいったらいいなと思います。

(2020年11月4日)




インタビューはこの後、アイヌの現在の状況についての話を中心に、美術のカルチュアル・スタディーズ等の話題へと変わってゆくのですが、進藤冬華さんの意向により2020年11月4日に行われたインタビューの掲載はここまでとさせて頂きます。以下に進藤さんから、掲載を見送った箇所の代わりに執筆頂いた文章と、本インタビューについてのバーズの考えを掲載させていただきます。

私は、作品の中でアイヌのことについて触れたこともありますが、いろいろ複雑で難しいなと感じています。誰もが目にできるこうしたサイトで話すことも以前よりやりにくいと感じています。その原因は自分の認識の問題かもしれませんし、外的な状況のことなのかもしれません。私の何代か前の家族は、本州から北海道に入植していて、私は侵入者側の子孫とも言えます。北海道のことを作品の中で扱うとき、そういう背景がある私自身という事がいつも付いて回るし、別の場所で作品を作るときより強固に自分の背景に対峙する事を求めてくるように思えます。また、発表にした時にどういうリアクションになるのか予想がつかない、ブラックボックスみたいな所がある。こうは言っても、実は、大人になるまでアイヌの事について気にかけたことはあまりないし、生活する中でアイヌの人々を身近に感じることはありませんでした。色々な状況を知り、北海道に暮らしてきたのにアイヌのことが自分の中で存在していなかったと認識した時はショックでした。
こうして、アイヌの事について話すことが(当時者や当事者じゃない場合でも)できやすい状況になったらいいなと思いますが、そんなに簡単だとは思いません。今こうやって、この場で発言することは何か一歩を踏み出すことにつながったらいいなと思います。(そして試行錯誤しながら、それに挑戦しているひとが、様々な分野で既にいると思う。)
以前北海道の外で、こうしたことを話したけど、全然共感されたようには思えませんでした。そんなに気にすることはないというような反応でした。その時私は、自分がセンシティブすぎるのかもしれないと気持ちが揺らぎましたが、今こうして再度この話をしてみると、同じ状況が現れてきます。そして、今回はこうした意識の隔たりが何とかならないかなと思い始めています。

進藤冬華


進藤冬華さんとバーズは、今回のインタビュー掲載にあたり何度も連絡を取り合い、掲載原稿に至りました。
掲載を見送った文章を思い出してみると、進藤さんが信頼している人物(冬木さん)であることと、お二人を含めた少ない人数だからこそ、話して頂けた内容になっていたのだと考えております。その内容がそのまま不特定多数の人が見ることのできるWEBサイトで掲載され、読み手の解釈が思わぬ方向にいってしまうことは、バーズの意向でもありませんでした。現在、社会は「いいね」やフォロアー数が価値を持っていますが、話の内容によっては個人の考えや思想を他人と共有するとき、信頼関係や人と向き合う時の態度、状況、環境が大きく関係し、決して多くの人と共有できることではない場合もあると今回の件で感じました。
バーズは、ゲストの方たちが生きて活動する中で感じていること、考えていることをできる限り素直に発信したいと思っております。しかし一方で、そこには誰にでも話せることと特定の誰かだから話せることがあり、それらの関係について思考し、より良く届けられる方法もまた模索しながら発信できる場所にしていきたいと考えています。

Birds

○注釈

※1 アジアン・カルチュアル・カウンシル:アメリカ・ニューヨークに本部を持つ非営利財団。ビジュアルアートおよびパフォーマンスアートの領域で、アメリカとアジア、またはアジア諸国間における文化交流等の支援を行なっている。

※2 吉野石膏美術振興財団:吉野石膏株式会社所蔵の絵画221点などを基本財産として2008年2月に設立、2011年より公益財団法人吉野石膏美術振興財団となる。若手美術家育成のための助成や、美術に関する国際交流の助成等を行っている。

※3 小山登美夫:ギャラリスト。1996年に江東区佐賀町に小山登美夫ギャラリーを開廊。奈良美智、村上隆をはじめとする同世代の日本アーティストの展覧会を多数開催。

※4 アートゾーン:京都造形芸術大学が運営するオルタナティヴ・スペース。2004年より様々な活動を行ってきた。2019年活動終了。http://artzone.jp/

※5 3331 Arts Chiyoda:東京都千代田区にあるアートセンター。千代田区文化芸術プランの重点プロジェクトとして始まり、2010年よりオープン。https://www.3331.jp/

※6 RAG & BONE PROJECT (2007年、Catalyst Arts、ベルファスト http://www.oldcatalystarts.hilken.co.uk/rag-and-bone/)

※7 サハリン島:北海道の北に位置する細長い島。ロシアと日本の間で領土が行ったり来たりした歴史がある。1905年の日露戦争勝利後、南樺太が日本領となるが、第二次大戦終了後ロシア領となり多くの日本人が日本へ引き揚げた。ニヴフ、ウイルタなど少数民族が暮らす。

※8 文化の盗用 :英cultural appropriation: 自分の文化ではない物事を、特にその文化を理解していることや尊重していることを示さずに、取ったり、使用したりする行為。

※9 北方民族博物館:北海道網走市にある博物館。http://hoppohm.org/index2.htm

※10 なえぼのアートスタジオ:札幌を活動拠点とするアーティストが中心となって運営、管理を行っているシェアスタジオ。元缶詰工場で2フロア約270坪の倉庫を改装し、2017年7月にスタート。
https://www.naebono.com/

※11 田中功起:美術家・映像作家。東京造形大学客員教授。1975年生。

※12 藤井光:美術家。映画監督。1976年生。

※13 Art Center Ongoing:2008年にオープンした東京吉祥寺にある民間のアートセンター。https://www.ongoing.jp/ja/

※14 山下拓也:アーティスト。1985年生。

※15 地主麻衣子:アーティスト。1984年生。

※16 名和晃平:現代美術家。京都造形芸術大学大学院特任教授。1975年生。

※17 鬼頭健吾:アーティスト。1977年生。

※18 小谷元彦:彫刻家・美術家。東京芸術大学准教授。1972年生。

※19 「理想のピクニック」2019年に、レジデンスで進藤が滞在していたハノイの家から、ホップティエン墓地まで観客とともにピクニックへ行くイベント。ホップティエン墓地は日本とフランスがベトナムを統治した第二次大戦時に亡くなった地元の人々を埋葬した共同墓地である。
https://www.shindofuyuka.com/portfolio1

※20 「街が見る⇄街を見る」https://kenpoku.info/shindo
常陸太田市の鯨ヶ丘での滞在制作で行ったプロジェクト。進藤がちょっと変わった人(不審者)として、変装して街をうろつく。新たなよそ者として街に入り込み、よそ者を街が受容するとはどういうことなのか問いかけようとした。

「鯨ヶ丘の下見を終えて」(プロジェクトの企画書より抜粋)

“この街に滞在するにあたり、私が興味を持ったのは、この地域は現在高齢化が進みつつあり、新しい人々が移住してきたり、ここを訪れたりしてこの地域を活性化したいと考えていることです。私はこの街にとって明らかに「よそ者」ですから、私が街に入ることで、この街で新しいよそ者を受容していくことについて、何か考えを促すようなことをしたいと考えています。

私がやることは、ちょっと変わった格好や行動をしつつ街の中に出没しウロウロすることです。街の人の反応によって徐々に活動を展開していこうと思っています。プロジェクトで重要なのは、アーティストと住民の直接的な交流ではなく、まず住民がちょっと変わった滞在者(アーティスト)を目撃し、ドキッとしたり、怖いと思ったり、何だろう‥と目が離せなくなるなど、普段の風景、生活の中に現れる異物に反応することだと思います。それは、住民からのわかりやすいリアクションではないかもしれません。

以前、小学校に派遣されるアーティストインスクールプログラムに参加したとき、私が変装して校内を歩くと子供達や先生の中で私をわけのわからないことをしている「わけのわからない人」として避ける人が一定数おり(好奇心をもって寄ってくる人もいる)、こうした反応は美術が社会との接点を持った時の状況がむき出しになった一つの反応として強烈に印象に残っています。
こうした経験から私は今回、意図的にこうした「異物」として、街に入り一ヶ月過ごしてみたい。街の中に異物が存在することで何が起こるのか興味があります。この地域は外から人来る人を受け入れようとしている場所です。それは、私のような異物を受け入れることと、ともすれば似ているかもしれません。
私はアーティストや美術作品は社会の中の異物であることが一つの側面だと常々思っています。異物をめぐり、人々は何かを考えたり、ショックを受けたりすることがあります。こうした美術が存在できることは、社会や人々の寛容さと関係があるように思います。”

※21 大阪府立江之子島文化芸術創造センター(enoco):アートやデザインを通して都市や社会の課題解決に取り組んでいる文化施設。旧大阪府現代美術センター。

※22 感情的分岐点 2017
https://ryotarofuyuki.tumblr.com/post/182983415538/%E6%84%9F%E6%83%85%E7%9A%84%E5%88%86%E5%B2%90%E7%82%B9-emotional-branch-point-2017-27-27-h3m

※23 ISCP:International Studio & Curatorial Program。ニューヨークにあるアート・イン・レジデンスプログラム(若手アーティストやキュレーター達に、一定期間、制作/活動の場を提供するプログラム)で、制作・研究の奨励、アーティスト達の様々な文化的背景とホストカルチャーであるニューヨークの文化との相互作用と発展を目標にしている。

※24 2019年に札幌のモエレ沼公園で開催された進藤の個展「移住の子」。明治初期の北海道開拓や御雇外国人、ホーレス・ケプロンへのリサーチをもとに展開した作品を展示。
https://moerenumapark.jp/fuyukashindo/

※25 Black Lives Matter:黒人に対する暴力や人種差別の撤廃を訴える、国際的な運動の名称。

Nukeme

プロフィール

Nukeme(ぬけめ)
1986年岡山県生まれ。2008年 エスモード大阪校を卒業。ファッションや広告業と平行して、テクノロジーを活用した作品制作等、多岐に渡る活動を行う。 近年の主な活動に、文化庁メディア芸術祭(2012)、YouFab Global Creative Awards 2014ファイナリスト選出(2014)、『Glitch Embroidery』(LEE SAYA、2021)

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティストhttps://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




冬木(以下F)Birdsのこのインタビューシリーズは、「ロッキンオン・スタイル※1」っていうふうに冗談半分で言ってまして。~万字インタビューみたいな。

ヌケメ(以下N)万単位で押してきますよね、10万とか。あれはロッキン・オンからなのか。

F ロッキン・オンとか「音楽と人※2」とか、ああいう音楽系の雑誌って、「~万字インタビュー」みたいなのをトピックの真ん中に置いてるイメージがあって。別にあれを目指そうという訳ではないんですけど、消費されにくい物量ではありたいと思っていて。これは噂で聞いた話なんですけど、美手帖のレビューって3000字以内とか、確か字数が決まってるらしくて。で、アーティストの大岩雄典※3さんが、編集の人にそれを言われたからレビューを書くときに、毎回3000字ピッタリで終わるように書いてたらしいです。

N いいなあ(笑)。ライティングの仕事依頼って文字数制限があるから、一文字/何円みたいに単価が計算できるじゃないですか。で、宇川直宏※4さんが『ヤバい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』みたいに「!」マークを何十個もつけてる原稿、あの「!」に原稿料を払うのか?みたいなことを昔言われたことがあるって言っていて。でもライティングって文体とか空気感も込みだから、それも内容だよねっていう。

F そういう文体の雰囲気や文字数としての物量も、全て内容に関係してきますよね。このインタビューに関しては、やりながら今のところは結局この字数の多いやり方がいいかなって。そのくらいまで掘って掘って、その人が見えてくるくらいはちゃんとしたいなと思っています。

N 何万字、ってウェブで読む分量じゃないんですもんね。紙だと読めるんですけど。



1.

山本(以下Y)お二人が出会ったタイミングは?

N この前のSCG※5ですよね?京都の。

F でも、僕は以前からヌケメさんの存在は知ってはいました。

Y それはアーティストとして?

F あのキャップの作品、ヌケメ帽で。それでなんとなくは知っていて。で、今回SCGで選ばれた5人の名前を見て、「ああ、ヌケメさんもいるんだ」って。それで顔合わせの時に初めてお会いして、っていうかたちです。

N 僕は逆にSCGで一緒になった他の4人は全然知らない方で。どんな人なんだろ?って感じで参加したんですけど、蓋開けてみたら共通の友達が多かったなっていう。

Y パッと聞いた時に僕はヌケメさんを知らなかったんで、「アーティスト?で、ヌケメ帽?」っていうハテナが最初にあって。でも、冬木くんがめっちゃ面白いって言ってたから。

N そうですね。僕はもともとファッション畑の人間なんで、最初はアーティストって名乗ってなかったんですよ。ファッションデザイナーって言ってたんですね。で、ヌケメ帽は2008年から作ってるやつなんで、一番古い作品です。あれはアート作品っていうよりは、ファッションアイテムとして作ってましたね。ファッションアイテムっていう言い方が正しいのかわからないんですけど、洋服やファッションデザインの文脈のなかで考えて作ったものでした。洋服って半年ごとに必ずセールにかかって売り切って、また新しいものをつくってって繰り返すじゃないですか。そういうシーズン制のあまりないもの、エバーグリーンで、ずっといつ作ったかわからないものっていうか、なんとなくどの時代でもハマるような強度のものをつくりたいと思って作ったものだったんで。いわゆるアパレルみたいなつもりでもなく、プロダクトっぽい感じで作ってました。あと、ヌケメ帽は結構、写真面でつくった作品なんですよね。写真に撮った時に映えるようにっていう。

F 一枚絵のビジュアルの強さというか?

N そうです。今でいうインスタ映えみたいな話ですけど、スタイリングの中に一点だけポンと混ぜても明らか目立つというか。で、一番に人の視線が集まるのが顔なんで、バストアップで画像を切られた時にもちゃんと入るっていう。結構デザイン的な発想ですね、ヌケメ帽に関しては。

〈ヌケメ帽2 (ツー)〉, Poem: 辺口芳典, Styling / Direction: 庄司洋介, Photo: オノツトム, Hair / Make: 山口恵理子, Model: 南琴奈

F 最初は本当にファッション系の学校とかで?

N そうです。エスモード※6っていう洋服の専門学校を卒業してます。東京にもあるんですけど、僕は大阪校を卒業してます。もう大阪校はなくなっちゃったんですけど。

F ちなみにご出身は?

N 岡山です。18歳までが岡山で、19~21が大阪、その後はずっと東京です。

Y 就職で東京に来たんですか?

N 就職はしてないんですけど、ファッション関係の仕事をするんだったら、東京でしょって思って。職探しも込みで東京に出ました。

F 最初はどうされてたんですか?

N アルバイトとかしてましたよ。というか、結構最近までバイトしてました。あと、会社員も一回やってるんで。セミトランスペアレントデザイン(以下、セミトラ)※7っていう、ウェブに強いデザイン事務所です。

F じゃあプログラム系の。

N プログラマーチームでしたけど、全然会社の仕事はしてなかったです。

F え(笑)?

N これ言っていいのかわからないんですけど、本当にお金がなくて、実家に帰るかどうしようか悩んでる時期があったんです。そのときにツイッターで『就職したい』って愚痴を言ってたら、セミトラの社長の田中さん※8が、『なにか困ったことがあったらいつでも言ってね』って言ってくれたんです。『実は就職したいんですけど』って相談したら、『じゃあご飯食べに行こうか』っていう話になって。それで入れてもらったんですよ。で、ヌケメとして活動してきたことがヌケメ君にとってすごく大事だと思うし、それがあるから僕もこういう話をしている訳だし、ヌケメとしての活動は続けた方がいいと。だから、会社のこともしてもらうけど、ヌケメとしての活動も優先していいよ、っていう条件で。

F じゃあ田中さんもヌケメとしての活動は知っていて。

N そうですね。田中さん自身はデザイナーなんですけど、作品を作って発表とかもされていて、一度グループ展で一緒になったんですよ。「世界制作のプロトタイプ展」※9っていうグループ展が日暮里のhigure※10っていうスペースで開催されたんですけど、その時に田中さんも僕も出展していたりとか、界隈が近かったんです。僕もインターネットが好きなんで、ネットアートっぽい文脈というか、メディアアートとかの界隈にいたので、活動してるフィールドが結構近くて。

F ヌケメさんの経歴は図にしないと難しいですね(笑)。

N 確かセミトラに就職したのは2015年だったと思います。

F 卒業は何年ですか?

N エスモードは2008年の3月卒業で、4月に東京ですね。(ヌケメさん、パソコンで自身の経歴を調べる。)2016年ですね、セミトラのメンバーになったのが。で、退職したのが2021年の1月だから、4年ぐらい居ましたね。なんだかんだ、自分の仕事ばかりしていて、あんまり会社には行けてなかったんですが…。

2.

F 話を戻すと、ヌケメ帽が一番古い作品ってことは、まだ学生の時ですか?

N そうですね、原型は学生の時に作ってたと思います。卒業制作で辺口さん※11と一緒に作品を作って、その時につけてもらったブランド名が「ヌケメ」なんですよ。いつの間にかブランド名というよりは個人名になっていきましたけど。

F 意味とかってあるんですか?

N 意味は別にないみたいです。実は、他にも20個ぐらい候補があって。

Y 多いですね(笑)。

N もう辺口さんもそのメモは持ってないと思いますけど、いっぱいある候補の中で僕が「じゃあヌケメで」って選んだんです。他の候補はもう覚えてないですね。気になりますね、今となっては。

F 20って結構多いですね、5個ぐらいかと思ったら。

N 辺口さん名前をつけるのが結構好きな人で、僕用って訳でもなく溜めてたのかもしれないですね。最初はカタカナじゃなくて漢字でした。“抜ける”に“目”で 「抜け目」。今は日本語表記はカタカナで、英語表記は頭だけ大文字に統一してますけど、一瞬「ヌケ目」のときもありました。

F なんかわかる気はしますね。ラッパーとかちょっと変えたりするじゃないですか、SLACK※12が5LACKにしたりとか。

N 表記を揺らすパターンってありますよね。山塚アイ※13さんとか。山塚さんめっちゃ名前変えるじゃないですか。ヤマトゥーカ・アイとか、ヤマンタカEYEとか。

F ヤマストゥーカーとか(笑)。

N そうそう、あれです。誰やねんっていう。で、結局 ∈Y∋にしてる(笑)。だから、揺れててもいいんじゃないかと。英語表記も最初は全部大文字だったりしました。あと、ヌケメって人間の名前っぽくないじゃないですか。で、頭文字を大きくすると人間の名前っぽいけど、全部小文字(nukeme)にするとbotっぽい印象になるし。それも可愛いかなと思ってたんですけど、結局名前に寄せました。

F ヌケメさん本人に会ってるからかもしれないですけど、口にしてると頭の中ではカタカナで再生されてる感覚からか、ヌケメさん自身に合ってるしすごくキャッチーな感じはしますよ。

N 一回悩んだのは、海外の仕事が増えたときに、「ヌケメ」っていうのが英語圏の人は発音しにくいらしいんです。その時は本名にするかも含めて悩みました。

F 海外の仕事が増えた時期が。

N 2013~14年ですね。

F それはきっかけがあるんですか?

N 2011年にグリッチ刺繍を発表するんですけど、それが2012年にメディア芸術祭※14で推薦作品に選ばれるんですよ。で、メディア芸術祭の巡回展でアルスエレクトロニカ※15に行ったのが2012年で、海外の仕事が増えたのはその頃からですね。2012年になると、インターネットヤミ市※16のベルリン回があったりして、そこにも参加してました。

https://yami-ichi.download/#ja

Y そのインターネットヤミ市とかも、さっきのセミトラの田中さん界隈ですか?

N 田中さんはインターネットヤミ市に出てたかな?来られてはいたと思うんですけど。あのイベントは、作品展示というよりはどっちかと言うと、「インターネットっぽいもの」をリアルな場所で売るフリマというかコミケに近いノリでした。

Y 結構、海外でも開催したんですよね?

N そうです。僕も途中からメンバーになるんですが、IDPW※17っていう団体が主催していて。確か2、3回目までは完全にアイパスが取り仕切ってたんですけど、海外でやりたいっていうオファーがあった時に、完全にハンドリングするのは無理だから、「インターネットヤミ市っていうのはこういうコンセプトなんでこういう風に運営して下さい」っていうレギュレーションを作って。で、それさえ守ってもらえれば誰でもいつでも開催できるようにしたんですよ。で、何都市ぐらいやったのかな?ちょっとまた調べますけど、30都市以上でやっていたと思います。継続して今もやっていて、もう10年はやってますね。

3.

N で、2013年にグリッチニットっていう、グリッチ刺繍のニット版の作品を作り始めるんです。それも結構海外で評価されて、ワークショップとか展示で呼んでもらえるようになったんです。なので、2014年ぐらいはアジアの仕事をよくやってましたね。台湾、香港、タイとか。

Y 呼ばれる先はアート関係からですか?

N 日本にもありますけど、Fabcafe※18っていう、3Dプリンターとかレーザーカッターとかを置いてるカフェからの依頼でした。Fabcafe Shibuyaにいた川井さんっていうディレクターを仲介役にして、いろんな国のFabcafeに呼ばれるみたいな。

Y 主体はそこがやってるんですね。

N そうですね。

F 話だけ伺ってたら、全然自分の活動で食べていけてそうな感じはしますけどね。

N そうですよね、自分でもなんであんなに食えてなかったのか不思議なんですが…。で、2015年頃から鬱と不眠症を発症します。

F それは忙しくて、手一杯だったみたいなことからですか?

N 忙しいし、お金もないし。

Y 活動はしないとダメだけど、単純な収入がそれである訳ではなかった?

N お金は全然なかったですね、その時期にセミトラに就職してますから。こんなに忙しくてもお金がないなら、もう無理かな、って感じてたのがその時期ですね。

F 服って結構、(金銭的な)戻りが少ないんですか?

N いや、いわゆるアパレル業は食えると思いますよ。

Y じゃあ、それだけ作って出して、ということをやっているアパレル業界は食べれるけれど、別にそういうやり方ではないっていう。

N 半年に一回展示をやって、受注を取ってっていうプロパーなやり方だったら食えてたんですかね……。そんな簡単なことでもないでしょうけど。でも、そもそも自分はそういうやり方ではなかったし、無限に開発とか調整に時間がかかる作業をしていたんで、薄利多売の状態がずっと続いてましたね。

Y 機材を入れないといけないっていうことも含めてなんですか?

N グリッチニットなんかに関してはそうですね。なんかこう、作品や活動にワッと注目はしてもらったけど、それと比例してバッて売れるって感じでもなかったんですよ。展覧会にも呼んでもらえるし、新作を発表したらニュースになったりもするけど、別にそれで食えてないというか。めっちゃ作品が売れたなっていうのは、それこそ去年のワクチンのパーカーが売れました。これは本当にたくさん売れて、10年目にしてようやく食えそうなレベルの売れ方をしましたね。

〈Vaccine Trilogy〉撮影:竹久直樹

F 素晴らしい。

Y 売られている場所は、ネットだったりですか?

N 主にネットですね。

F 売れたポイントみたいなことはあったりするんですか?

N わかんないです(笑)。ワクチンっていうモチーフがたまたま当たった、っていうだけのことなんじゃないかなと思ってます。海外の人も反応してくれているんですけど、今はコロナですごく海外発送がしづらい状態なんで、海外宛てにはまだ売ってないです。でも、以前は展示とかやってもこんなに売れなかったですね。このあいだのLEESAYA※19での個展が初めてがっつり売れたなっていう印象です。あと、2015年にGraphers Rock※20さんと一緒にやった、シュプリームとギャルソンのプレイをモチーフにした展示※19があったんですけど、それはほぼ完売でしたね。

Y けど、定番でずっと売れているとかではないから、スポットごとにという感じだったんですね。

N そうですね。だから、いま話した期間はずっと何かしらバイトしてましたよ、海外行ったりしてる時も。

F アパレルブランドでですか?

N beautiful peaple※21っていうブランドが一番長かったんですけど。4、5年やってたんじゃないかな?

F なんか全然イメージが(笑)。

N そうですよね(笑)。beautiful peapleってなんというか、キレイなブランドですもんね。

F そうですね、コンサバティブというか。OLさんがロゴの入ったバックとか持ってるイメージの…。

N わかります(笑)、よく見ますよね。でも一番長かったし、一番居心地も良かったですね。本当にいい会社でした。展示会やファッションショーの直前っていう時でも、いくら遅くても9時半とか10時には帰ってました。

Y めっちゃホワイトですね。

N ホワイトなんですよ。デザイナーズブランドでそんなのないと思います。徹夜つづきが当たり前だと思うんですけど。で、会社の雰囲気もいいんですよ。売れてないところはケンカが増えるってよく聞く話ですけど、調子が良かったんでしょうね。

F 街であのバックめっちゃ見ますもんね。

N 表参道に直営店をオープンする頃まではバイトしてたと思います。今も展示会とかは見に行きますし、一度グリッチ刺繍でコラボもさせてもらいました。

4.

F 僕がすごくいいなと思ったのが、ヌケメ帽を売る場所、販売店っていうのが、たしかヴィレッジバンガード※22(以下、ビレバン)で売ることになったんですよね?

N そうです。全国のビレバンに一気に卸した時があったんです。

F 本当はしまむら※23ぐらいで売りたいんでしたっけ?

N いや、ジャスコ※24です。

F (笑)。それを聞いたとき、わかるぞ!って思って。ビームスとかにいかずに、ジャスコっていうのが。

N なんか関西人っぽい発想ですよね、その逆張りの感じっていうか(笑)。こんなこと言ったら怒られますけど、ビームスって一番特徴ないじゃないですか。本当はドーバー※25とジャスコで同時に売ってるみたいな状態がベストですけど、さすがにあり得ないし。

F その意図みたいなのは?

N 僕の出身の岡山県ってど田舎でもないけど、かといって都会でもないんで、地元の中高生がちょっとマイナーな文化に触れられる場所っていうのがビレバンくらいだったんです。漫画版のナウシカ※26とか、岡崎京子※27の漫画があったりとか。いわゆる”TSUTAYAに置いてない”ような音楽に出会ったり。今はインターネットがあるんで、当時僕が感じていた状況とは違いますけど、田舎の中高生が偶然出会える場所にちゃんと作品を置いときたいっていうのがあって。やっぱりビレバンとか、イオンとかジャスコとか、そういうとこに置いとけば、出会ってもらえるかもしれないじゃないですか。

F なんというか、作品の形式と最終的な流通の仕方や受け取り方って、無関係ではないじゃないですか。だからそれがすごくよくわかるし、ヌケメさんの意図が見えている話のひとつだと思ったんです。

N そうですね。ヌケメ帽に関しては、体験をすごく大事にしています。さっき言った、何も知らない中高生がビレバンで出会うっていうのも流通を介した体験ですけど、たまたま電車であの帽子を被ってるのを見かけただけでも「何あれ?」ってなるじゃないですか。で、調べたらネットで出てきて、買えるっていう。その体験もかなり面白いと思ってて。

Y 特殊な言葉だから、ヌケメ帽じゃなくて刺繍されてる言葉で検索しても出てきますもんね。

N 洋服が他のメディアと違うところって、着た人がそのへんを歩いてるってことだと思うんですよ。写真を持って歩いたり、絵を持って歩いたりとかしないですけど、服はみんな着るし、着てると目に入るじゃないですか。そこで、違和感でフックを引っ掛けられるようなものを作ろうっていう発想でデザインしていて。

F 一発目がヌケメ帽で。

N そうですね、スマッシュヒットでした。でも、一発目から二発目のグリッチ刺繍までは3年空きました。

F そのあいだは?

N そのあいだがないんです。色々やってはいたんですけど、何もないんですよ。トライはもちろんしていたんですけど。

Y それは世の中に出してないっていう意味でですか?

N 作ってはいましたけど、ヌケメ帽みたいなかたちでヒットしなかったっていう意味です。でも、同じ頃にCULTIVATE(カルチベート)※28っていうギャラリーを友達と運営してたんです。2009年~13年だったと思うんですけど、その運営を頑張ったりしてましたね。馬喰町っていう駅にありました。

Y 2人とかでやっていたんですか?

N 4人です。一人は大阪にいる永江 大※29くんっていう編集者で。で、あともう二人、坂脇慶※30君と近藤さくら※31ちゃんっていう四人で。

Y 運営として作家を呼んできて、展示をやってっていうのをずっとですか?

N そうです。自分の展示もやりましたけど、それ以上に自分たちが好きな作家の展覧会を企画したいっていうモチベーションでやってました。もうグッズグズでしたけど(笑)。せっかく場所を借りてるのに、やってない期間が半年ぐらい続いたりとか。もっとちゃんとやればよかったです。

Y 企画して場所を回すこと自体もなかなか大変ですもんね。

N そうですね。利益を上げるってことを全く考えてなかったし、作家さんも僕らも手弁当でやってるような状態で。それでもやってくれるっていう人にお願いしてましたけど、今となっては結構贅沢な展覧会とかもやったりしていました。僕と慶君が写真好きだったんで、2019年に木村伊兵衛賞をとった横田大輔さん※32に展示してもらったりとか、写真の展示も結構やっていました。

5.

F 一応最初の職業としては、ファッションデザイナーでいこうと?

N そうですね。

F でももう、ヌケメ帽、グリッチときたら、あの人だいぶ違うよなっていう状態ですよね?

N そうですね、だからグリッチ刺繍からアーティストって名乗るようにしました。

F グリッチって定義はあるんですか?ノイズとはまた違いますよね?

N デジタルデータそのものか、デジタル機器の破損によって生じるもの、ですね。

F じゃあ現実のリアルなフィールドでも、一応グリッチっていう…。

N そうですね。例えば壊れたデジカメで撮った写真とかも、グリッチですね。

F 例えば、表示の液晶自体が割れてるとかも?

N そうですね、含まれると思います。i phoneが割れてバキッと線が入ってるとか、かなりの人が体験してると思うんですけど、あれも体験としてはグリッチですね。 

F 刺繍のモチーフとしては、最初は何を使ってやったんですか?

N グーグルロゴが一番最初のモチーフでしたね、わかりやすいですし。あとはキティちゃんとかも選んでました。要するに、グリッチさせると図像としてグチャグチャになるじゃないですか。で、グリッチした状態を見ても、される前の正しい状態が脳内で再生されるような、みんなが知ってるモチーフがいいなと思ったんです。キティちゃんとか、グーグルのロゴとか、誰もが知ってる何か。且つ、どの国の人が見てもわかるような、文化障壁が少ないものですね。

Y 誰が見てもわかるような。

N そうです。グローバル企業のロゴなんかは正にそれですね。どの国からアクセスしてもグーグルはグーグルっていう。怒られるのが怖いんで、ディズニーだけは避けてましたけど(笑)。当然、ミッキーマウスも条件としては当てはまるんで。

F 使用してることに対して指摘されたりとかは?

N まだないですね。今のところ一度もないです。

F それは、ちゃんと怒られないラインとかを調べた上で?

N そうですね、弁護士さんに相談したりもしてます。実際やる前に、「これってどのくらい(法的に)危ないんですか?」っていう相談をしたんですけど、まあキャラクターものはダメだと。どこまでいってもダメ、向こうに訴えられたらほぼ勝てないと。逆に商標ロゴを使った作品に関しては、法的には白寄りのグレーだという認識でいます。どうしてかっていうと商標ロゴって、基本的に著作権については放棄しているとみなされるらしいんです。で、著作権を放棄している代わりに、商標権で保護されている。商標権っていうのは、「この会社の商品である」っていうことを示す目的で、ロゴを使用する際に発生する権利です。例えば、シャネルの商品だと明示するために「CHANEL」って入ってたりとか、ソニーとかパナソニックが作ったものだよっていうために、そのロゴが刻印されている場合です。だけど、誰が見ても明らかにその会社が作ってなさそうな場合、誰が見てもそれを騙ろうとしていない場合は、商標権の侵害には当たらないっていう解釈になるらしくて。

F なるほど。

N もう少し詳しく言うと、例えばビックカメラの袋っていろんな家電メーカーのロゴが入ってますよね。あれをどこかひとつの会社が作ったものだとは、誰も思わないじゃないですか。あの状態だと、もとの商標権を侵害してると言えないっていう解釈があるみたいです。なので、グリッチ刺繍の作品も、ワクチンだったら3社のロゴが入っていますけど、これを見てどこかが作ったとは思わないですよね。コラボレーションのしようがないし、加えてヌケメっていうサインも付けているので。
(※上記の内容は個人の見解に基づく解釈です。個別の案件については、弁護士等専門家の方に相談することをお勧め致します。)

F じゃあ例えば、ファッションブランドだとちょっとヤバいってことですか?

N ヤバさはちょっと上がるんじゃないですかね。それも全然作ってますけど。

F さっきのシュプリームとか?

N シュプリームは別の理屈です。シュプリームはシュプリームのロゴしか入れてないですけど、あれはシュプリームの正規店から買った本物の商品の刺繍部分を外して、上からグリッチした刺繍を叩きつけてるんですよ。

〈Dear Supreme Dear Play〉作者:GraphersRock, Nukeme, 撮影:三宅英正, モデル:イシヅカユウ

Y じゃあリメイクですね(笑)。

F お金かかりますね。

N 金はかかりますね。もともとの仕入れ値が販売価格に関係してくるんで、めっちゃ高い値段で売らざるを得なかったんですけど。でも、正当な対価も払ってるし、リメイクは法に触れないじゃないですか。パチモノを作るみたいな行為とは全く違う。
(※上記の内容は個人の見解に基づく解釈です。リメイクでも法に触れる場合があります。リメイクに関する判例:https://news.yahoo.co.jp/articles/7f254c6441aad6e07747f4fbb7ab34ef9c4906d6

Y やり方としては、抜け道的な方法になるんですかね?

N まあそうですね。ストレートにサンプリングすると怒られて終わりなんで、サンプリングしたかったら抜け道を見つけておく必要はあります。だから、はやくKAWS※33みたいになりたいんですけどね。スヌーピーだろうがスポンジボブだろうが、KAWSが使ったって誰も怒らないじゃないですか。

Y どう考えてもミッキーマウスのシルエットなのに。

N だからKAWSが昔どうしてたのかっていうのはすごい気になるんですけど。絶対最初はダマでやってましたよね。で、どこかのタイミングから、逆に使って欲しいみたいな存在になっていったでしょ。バンクシーの落書きじゃないですけど。

Y KAWSっていうブランドの方が大きくなっていったんですよね。

N 作品の中でキャラクターをいじる人は結構いるじゃないですか。でも、この縦横無尽に商標ロゴをいじっていくっていうアプローチは意外と珍しいと思います。まだ、パンと頭ひとつ抜き出た人がそんなにいない世界だと思ってます。

F 同人誌とか二次創作みたいなキャラをいじる方はいっぱいあるけども。

N ネタみたいなのはいっぱいあるんですよ。

F あー、ツイッターで流れてくるような。

N そうそう。それで食ってるみたいな人はあまりいない気はします。

F なんか凄いですね。ここまで話しても、ヌケメさんの活動の全貌をまだ掴めない感じがあります。

N バンドをやったりとかもしてますからね。

F 以前に仰っていたX JAPANのやつじゃなくてですか?※34

N じゃないんですよ。『ヌケメバンド』っていうのをやってて。2012年から2018年くらいまでやってましたね。今は実質解散してるんですけど。アートフェア東京のオープニングで、山川冬樹さん※35と共演したりしてました。

Y それはどこから声がかかるんですか?

N その時は、タリオンギャラリー※36がパーティーの企画をやる順番だったらしくて、タリオンから声がかかりました。

Y そのバンドのかたちは、普通のバンドって言ったらおかしいですけど、メロディーがあって歌うみたいな?

N 歌もメロディーもリズムもないです。ドローン※37っていうジャンルなんですけど、アンビエントとノイズが混ざったみたいな感じの音楽性でしたね。ふざけた話なんですけど、5人中3人は楽器が演奏できないメンバーだったんで、楽器が演奏できないメンバーでも出来るジャンルとして、ドローンが採用された感じです。基本的にインプロなんで、「せーの」でダンって音出すだけなんです。相手の音を聞きながらなんとなくで自分も合わていくっていう。で、30分だったら30分それを続けるだけです。でも、結構色んなところに呼ばれましたよ。Gray Fieldっていうレーベルにも所属して、リリースも2回しましたし。ファーストはカセットで出したんで、100個限定とかでしたけど、セカンドは一応CDで全国流通してタワレコにも置かれてました。

「N3331 クリエイティブナイト vol.1」ゲスト:Nukeme、ヌケメバンド

F ちょっと話飛んじゃうんですけど、髪型ってずっとそのスタイルなんですか?

N 10年以上この髪型ですね。元ネタもありますよ。いわゆるGIカット※38が元なんですけど、軍人がよくやる髪の切り方で、帽子の中に長い部分が全部スポッとおさまって、帽子から出てる部分は丸坊主状態です。で、それと鳥肌実※39の髪型を足しました。

F & Y:(爆笑)

F 懐かしいですね。

N ラフ・シモンズ※40と鳥肌実です(笑)。

Y それこそビレバンやもんなあ。

N 僕もビレバンで知りましたよ。(PCで鳥肌実の商品ページを見ながら)服も売ってるんですね、いらないなあ…(笑)。この感じ、ヌケメ帽的でもあるなあ。

F それ自分で言うんですね(笑)。でも確かになんか、イヤな感じがあると言うか。

N イヤな感じしますよね。なんでしょうね。

6.

F なんというか、これまで伺ってきた色々な作品や活動に通底するものを聞くのは、野暮ですか?

N いえ、野暮じゃないです。というか、結局このインタビューが何なんだっていうのは、そこが必要なんだと思うんですけど…。でも、わからないんですよね、何かあるんでしょうけど。

F なんというか、そのメディアを別の使い方で用いている、って感じはするんですよね。例えば、服っていうものの中に、着る人が好きな特定のジャンルがあったりとか、ある種の自己表現であったりとか、いろんな選択の理由があると思うんですけど、ヌケメさんのアプローチは、人が服を着ていて、他の人がそれを見るっていう状況自体が、ちょっと違うかたちでの情報との出会い方として捉えられている。作品の中に組み込まれた辺口さんの独特なワンセンテンスの言葉って、すごく体臭のする言葉というか、固有でローカルな個人のワードだから、急にそういうものと出会わされてる状況があるというか。単純に普通に売られている服のロゴやデザインで用いられてる言葉って、もうちょっと漂白されてると思うんですよ、流行りやジャンルっていう一般性の中にある。でも、ヌケメ帽はそういうものとは全然違う階層の情報が、急に一緒くたに現れている。で、それがビレバンで売られているという状況設定、出会い方まで違う出会い方でプロデュースされている。例えば、普通はおしゃれな服が欲しかったらこのあたりに買いに行くとか、安くて無難に済ませたいんだったらZARAとか、原宿っぽいものは原宿にあるとか、それなりにアイテムと場所も共通しているんですけど、ヌケメさんの場合はそういった状況も含めた色んな階層からブレさせようとしている気もします。結果的にブレているというか、そういう一般的なものと全然違う異質なところがあるなと思っていて。

N インタビューで『通底する考え方みたいなものはあるんですか?』って聞かれた時に、よく答えているのは『違和感が残るようにはしている』って言ってるんですけど。例えば、デビッド・リンチの映画みたいな、見終わった後に「何なんこれ?」っていう、そういう謎とか違和感が、3日とか1週間とかモヤモヤ残る質感にしたいなとは思っています。だから例えば、グーグルのプリントだったらまだあるけど、刺繍ってちょっと見たことないなとか、日本語の帽子でもやっぱ辺口さんの言葉みたいな質感の日本語デザインの洋服って見たことないみたいな、とか。「何なん?」っていう感覚は残るようにはしたいですね。この前、SCGで展示していた銀の犬あるじゃないですか。あれも唐突だし、その「何なん?」っていう感覚ですよね。

〈Awful Images〉2018

F あれは、オブジェクトみたいなものを作ってみようという出発ではなく、いきなり銀の犬だったんですか?

N いきなり銀の犬です。

F 一回やってみようみたいな。

N そうです。2018年に写真家のHIROMIXさん※41と僕の2人展を自分で企画したんですよ。その時にHIROMIXさんが、写真は出さずに絵を出すっていう話だったんで、じゃあ僕は立体を出そうかなみたいな(笑)。お互いに期待されてるメディウムでないものをやってみようかなってタイミングで作った作品なんです。

Y ファッションやバンドのようなジャンルには定番っていう王道ルールはあるけど、他の方法なんて実はいっぱいあって、ヌケメさん自身がやりたいイメージはそういう王道や定番とは別にあるように思いました。

N このジャンルだったらこうやってみようかな、っていうのを毎回試している感覚ですね。立体だったらこれ、洋服だったらこれ、音楽だったらこんな感じ。で、まだ絵は描いてないんで、絵はどうしようかっていうのが直近の課題としてあるんですけど、絵もそのうちに発表すると思います。今のところ、i Padで描いた絵画をシルクスクリーンで出したものかなあと思ってます。

F やっぱり、なんかこういう包括をするのは野暮って感じがしてしまいますね…。

N まあねえ…ひとつひとつの作品について語る分には、まだ割とこう納得がいく説明ができると思うんですけど、全部出していくと、ほんとに「何なん?」ってなってしまうんですよね。文章とかも書いてたりしますし。変な仕事だと、最近はグラドルの写真集を作ったりとか。

F 写真を撮って?

N いや、企画を担当するだけなんですけど。SELFIE BOOKSっていう、自撮りだけの写真集を作るレーベルがあって、その中の一冊を僕が担当したんです。このタレントさんでどうですか?っていう企画を立てて、編集長の許可をもらって、タレントさんに僕がオファーして。このあいだ出たんですけど。その納品までのやりとりを担当しました。

Y そういう仕事も単発でくるっていうことですよね?

N そうですね。で、来たらあまり断らないですね。でも、やっぱりいい編集者ってムチャぶりが上手な人だと思いますよ。「ヌケメくん、こういうのできるんじゃない?」って言ってくれたその人の能力が高いだけというか。

Y 例えば冬木くんっていう人をよく知っているからお願いをするっていう。

N そうですね。「この人にこれをオファーしたらどうなるんだろう?」っていう。で、そのどうなるんだろう?の面白度が高い人がいい編集者だと思います。発想も大事だし、知識もいるし、細かなハンドリングもできないといけないし。そういう意味では、編集っていう仕事をめちゃくちゃ尊敬してます。

Y 土台ができてないと、実際に呼んだところでうまく成立できるかもわからないですからね。

N どうなるかわからないのに、仕上がりが見えてないと完成させられないっていう矛盾した難しさがある気がしますね。だからさっきのヌケメバンドも、「バンドやってみない?」って言ったのはsuzukiiiiiiiiiiっていう友達だったんですけど、それもある程度は正しかったっていうことですね。山本さんと冬木さんの「バーズ、やってみようぜ」みたいなのとそんなに変わらない気はしますね。この人だから面白いっていうメンバーが先にあって、企画は後乗せっていう。

F でも、バーズに関しては本当に去年は誰も動かなかったです(笑)。でも今年また動き出した感じで。

N お金が絡んでない弊害ですよね。全員がそれで食ってるんだったら、そんなことは起こらないでしょうけど。

F 僕個人に関しては自分の制作とは離れているんで、別のマスにベットしている感じです。全然違うところにコインを置く感じでやってますね。

N 僕がCULTIVATEをやってた感覚も近いかもしれないですね。

F ヌケメさんが逆に断った仕事ってありますか?オファーとか。

N 展覧会とかで、逆にこっちがお金を払わなきゃいけないっていうものは断りましたね。

F そういうもの以外での、やったことないものは基本的に受けるんですか?

N DJはできる気がしないんで断りました。もうちょっと正確にいうと、いいものができる気がしないから、です。自分がやる意味というか、そのジャンルの中で少し面白いことができる気がするときはやるんですけど。DJはちょっとそう思えなくて、断りましたね。「あ、これだ」っていう方法論が見つかればやるかもしれないですけど。

Y 自分らしい。

N そうです。結局、方法論なんで。技術で勝負するつもりは全然ないんで。一貫してそれはそうですね。

F ヌケメさんがそう考えてるんだろうなっていうのは、お話を聞いててなんとなく結びついてきたところでした。技術の研鑽でたどり着くものとか、そこが前景化してくることには興味はないんだろうなっていうのは、ここまで追いかけていてわかります。

N グリッチ刺繍はグリッチ刺繍で研鑽してるところはありますけど、手刺繍の上手い刺繍作家、みたいな方向の研鑽とは違う。バンドに関しても、「いい音を鳴らしたい」っていう方向性では研鑽してますけど、上手に楽器が弾けるっていう方向の研鑽ではないし。いわゆる「上手い」みたいなものとは離れる方向性ですね。

F メタルの早弾きとかじゃない方向性ですね。

N じゃないやつですね。どっちかというと、アイデアをクリアに伝えるっていう方向で研鑽しています。技術は最低限必要な分だけでよくて。

F 話聞いててそうなんだろうなっていうのはなんとなくわかってきました。

N そうですね。だからこう、継承できないタイプなんですよね。継承しづらいというか。

F アイデアを軸として何かつくったりしてる人って大体そうですよね。

Y でも、ヌケメさんのお話もアイデアの部分は多いんですけど、ヌケメ帽とグリッチの作品に関しては、始められてからの期間も長くなってるぶん、そこにはちゃんとした技術みたいな話は付いてきてるのかなっていうのは思いました。そういう継承みたいなのは生まれて来るのかなっていうのとはちょっと思ったりしたんですけどね。

N シンプルに刺繍データのつくり方は上手くなったと思います。このあいだのLEE SAYAでの個展を、お世話になってる刺繍屋さんが見にきてくれた時に、「刺繍上手くなりましたね」って言ってもらえて。刺繍屋の目から見てそう見えたってことは、刺繍として綺麗なものができてるってことで、嬉しかったですね。

Y ヌケメさんや冬木くんの話を聞くと、作家ていう本筋があって、バーズは違うところへのベットっていう話があって。僕自身は逆になってるなと思いました。バーズでやっていることが、理念があってやりたいことの本筋、人生の中での本筋になって。稼ぐことが違うベットっていうか。やっぱりそれは単純な生業としてだったり、バーズとして活動していけるものにしたいから、お金も稼ぎたいみたいな方向になってるなって。聞きながら思いました。

F バーズが本筋ね。

Y めちゃくちゃなってる。周りにいる人のおかげで、考えないといけないことがだいぶ一気に見えたって感じかなあ。それをやるつもりで稼ぐ側の仕事やってるというか。そっちもやることはいっぱいあるんだけど。

7.

Y 本当に活動が色々ですね。さっき伺った事務所兼自宅をみんなで作っているとかも、既におかしな話になってますもんね。

N そうですね。あれが一番新しいプロジェクトです。

Y ですよね。作品でもあるし、本当にジャンルが毎回違う。

N 基本的には「やったことないことをやってみたい」っていう欲求が強いんで。もう辞めちゃったんですけど、バーテンやってみたりとか。

Y それはどのくらいやってたんですか?

N 3年ぐらいやってたのかな?あいだにコロナとかも挟んでるんで、実質2年ぐらいですね。新宿のゴールデン街でやってました。シェイカーを振るようなバーテンじゃなくて、割り物作るくらいですけど。一日店長として月に二回、一人でお店を回してました。

Y みんなで借りてお店をやってる人もいますよね。

N ありますね。小さいバーとかも、こんなご時世じゃなかったら普通にやっていけるでしょうし。

Y ヌケメさんの知っている方とか、友達とかが来て、普通に飲んで喋って。

N そんな感じでした。取っ払いのバイトみたいな感覚でやってましたね。気分転換にもなったし。それに、ツイッターとかで僕のことは知っているけど、会ったことない人っているじゃないですか。そういう人が会いに来れる場所だったんですよ。例えば、冬木さんがバーをやってるって言ったら、僕が冬木さんを一方的に知ってて会ったことなくても、「初めまして」って行けるじゃないですか。そういう出会いの場としてよかったですね。

Y インタビュー前に少しお話したことで、アートを起点に活動されている人や、アートにカテゴライズされずにやってる人たちもいますが、みなさんどうやって生きてるのだろう?という疑問が、僕はめっちゃあります。そんな話を聞ける場や集まれる場について、以前からバーズのみんなとも話していました。そういう場のあり方ともすごい近い気がするんですよね。

F バーズは教育しないんですよね。これが良いものであるっていうのとか、先行して誰かが持ってる思考を追従するっていうのではない状態、状況をどれだけキープできるか、みたいなことを実践したいんです。その中で一緒にいることや集まることで場を作っていって、良いものを生み出せるかっていうのを考えていて。だから、いま場を持とうっていう話をしてるんですけど、期間としてあんまり長くはできないんだろうなっていう話もしていて。それは多分、波に乗っちゃうと価値がだんだんバレてくるというか。そこに行ったら面白いことあるとか、何か利益になるってことがある程度以上の人数にバレちゃうと、意味がなくなってしまうところがあると思うんです。

N TAZ(タズ)※42みたいな感じですか?ハキム・ベイって人が提唱してる概念なんですけど。「一時的自立性ゾーン」という意味です。まだ海賊がいた時代に、敵同士であっても喧嘩しちゃダメっていう中立地帯みたいな島を作って、そこで貨物を積んだりとか、休んだりとかできるようなゾーンにしてたらしいんですね。で、それは何月から何月はこの島だけど、その期間をすぎたら全部取っ払って、次の月からまた別の島ってポンポン変えて、あくまで一時的な場所としてそういう休戦協定を結ばれたエリアっていうのを作ってたらしいんです。で、どうして一時的にしか作らないかっていうと、定着させてしまうと権力が発生するし、権力は必ず腐敗するから。権力が発生しないように、毎回新しく作り直してたっていう話があるんですね。例えば、この思想を引き継いでるものとして有名なのとしては、バーニングマン※43とかもそうですね。一時的にどーんって作るけど、その期間を過ぎたら全部更地にして、また次の年に新しくやるっていう。

F インディアンのポトラッチとか※44。

N あー放蕩ですね、そうそう。放蕩と消尽。日本の祭りとかもそうですね、放蕩ですよ。

F たしかに一旦、財として残してしまうとそこでヒエラルキーが発生してしまうことと近いですね。ただ、それこそお祭りって仕来りをわかってるおっちゃんが偉そうになるじゃないですか。そういうのは絶対したくないし、反資本主義ではあると思ってます。

N 資本が根付きようがないですもんね、そもそもテンポラリーなんだから。

F そうです。だから5、6年ぐらいやってきっぱり辞めるのもひとつはありかなあと思ってます。ただこっちのインタビューの方は続けていきたいですね。

Y こういう3人ぐらいの少人数で喋るっていうのが、ちゃんと話を聞けてが結局いいんですよね。その人のホームに行って話を聞くって、やっぱりちゃんと聞けるから。

F でも、そのタズの話おもしろいですね。

N タズはおもしろいですよ。

F なんか、あれを思い出しました。「負債論※45」を書いてるデビッド・グレーバーっていう人の本で、「民主主義の非西洋起源」※46って本があるんですけど。民主主義って昔からあるけど、みんなで決めたことを守らせるために警察権力とか、そういう権力装置を設置してるのって本当の民主主義じゃないっていう話をしていて。じゃあ民主主義っていつ始まったの?ってなったら、コロンブスとかが新大陸を発見しに行った時代、まさにさっきの海賊の時代と同じときに、船の中で船長も研究者も労働力として乗ってる囚人たちも、この船がどうなるかわからないから全員で決めるみたいな状態になっていて、それが初めて民主主義が発生した状態だっていう話があって。すごくタズと近いと思いました、状況自体の方がフラットにさせてるというか。

N 直接民主制ってやつですね。学校のクラスで文化祭で「何やる?」っていうのも直接民主制だと思いますけど、ある程度の規模を超えると間接民主制にせざるを得ない。代表を選んで、代表同士で会って話しといてくれっていう。

Y 全員の話を一気に聞けないし、まとめれないですもんね。

F ヌケメさんは学校のクラスの中ではどんな子供でした?

N 端っこの方にいましたよ。小学校の頃は漫画とか書いてました。あと、中学の頃は囲碁をやってました。

F 囲碁?それは部活とかですか?

N いや、たった一人でやってました。家族も含めて、周りで囲碁できる人が誰もいなくて。一人でやってたんですけど、県代表で全国大会とかも出たりしてました。中高とやっていて、学校代表として大会に出場するために、便宜上は部活ってことになってました。

F 全国大会行くぐらいだったら、かなり強いですよね。

N 当時、県内で大学生までだったら圧倒的に僕が一番強かったと思います。

Y 囲碁クラブとか、教室は行ってたんですか?

N 途中からはプロの先生に習ってました。ヒカルの碁※47を見て始めたんですけど、本気でやってましたね。

F 意外とそういう理由なんですね(笑)。

N そんな理由で(笑)。本当にプロを目指していた時期はありました。中学時代はプロを目指していたんですけど、高校はもう惰性でやってました。大会に出れば東京に遊びに行けるっていう理由で。

F 将棋でいう奨励会的なもの※48はあるんですか?何歳までにプロにならないといけないみたいな。

N 囲碁にもあります。将棋でいう奨励会は日本棋院※49ですね。囲碁の場合は「院生」っていうのがセミプロの期間があるんですけど、セミプロは18歳までで、18歳を超えたら強制的に退会させられます。プロ試験自体を受けられるのは23歳未満までですね。一度サラリーマンをやってからプロになる人もごく稀にいます。

Y それを聞くと大変な世界ですね。その年齢を過ぎたら一生なれないってことですもんね。

N なれないです。

F 高校生の時は圧倒的に強かったんですよね?

N 岡山県内で、ですけどね。僕が六段で、その次に強い人が四段とかだったんで。囲碁は今でもしてますよ。中国人相手に携帯のアプリでネット碁を打ったりしてます。

Y その時の戦法っていうのも、ちょっと普通の方法を取らないっていうこととかをやってたりしたんですか?

N 比較的オーソドックスだったと思います。ヘンテコなことも色々試しましたけど、うまくいかなかったですね。囲碁ははっきり勝ちと負けが分かれるんで。美術とかデザインとかと全く違うじゃないですか。

Y そうですね。

N 言われてみれば、囲碁はオーソドックスなスタイルでしたね。そうせざるを得ないですし、サイエンスですからね。サイエンスというか、マスというか、計算で結果が出るようなものなので。トリッキーもクソもなくて、ひたすら場面ごとの正解と不正解があるだけなんですよ。

F どんな能力で強さが変わってくるんですか?記憶力と…

N ええと、結局は発想だと思ってます。発想がつまらない人は弱いし、強い人は、やっぱ発想がイカれてますね。

F 単純に、将棋とかチェスよりも打てる手自体の数がめちゃくちゃありますよね。

N 盤面が広いんで。将棋は9×9マスですけど、囲碁は19×19なんで膨大にあります。

F じゃあ計算とか論理とか色んなことがありつつも、発想が。

N 結局は発想だと思います。

F 狭い範囲での陣地の取り合いだったら、定石とか研究とかもあるけど、結局盤面がデカすぎるからってことですよね。

N もうカオス理論みたいな感じですね。だから、部分的には定石が正しくても、全体から見ると間違ってるみたいなことが無限にあるんです。

Y あー、でもその捉え方はなんだかんだ繋がってる気はするかもしれない。

F どういうこと?

Y いまヌケメさんがやっていることも、ファッションっていう大きい枠や、もっと言ったら社会っていう更に大きい枠もあるなかで、ファッションならシーズンに合わせた販売方法や受注を取って販売する方法とか、その中でも選択肢はいろいろあって、ヌケメさんはここを攻めるって決める。でもその選択の部分は局所的で、結局全体も見ないといけない。なんというか、すごい色んな目線から一箇所を見ようとしている。だから今の囲碁の話も、結局小さな場所取りから最終的には全体を把握しないといけないし、戦法や手順もいっぱいあるからで、やることがめっちゃ発生してる。

F 山本くんの言うように、やり方というか、アプローチ自体に興味があるっていうのは少しわかる気はする。正当なアプローチとか、そのメディアにおける定石の技法とかがあって、何らかの媒体を通して、それがお客さんなのか鑑賞者かわからないけど、最終的に流通していく。そこに至るまでの手筋や、そういうひとつひとつの要素ややり方を考慮に入れて、検討されてる感じはするよね、確かに。

Y うん。だから、やってることはぐちゃぐちゃな気がするのに、筋は通ってる感じがするっていうか。なんかこう、新しい食べ物を出す人いるじゃないですか。例えばチョコレートに胡椒とか唐辛子入れて出されても、ちゃんと美味しくて味の質が高い感じがするというか。なんでもかんでもやっちゃうのに、意外とちゃんと毎回美味いことをしているというか、わかりずらいのに筋があるっていう。

N なんかでも、ギャグセンみたいな感覚もありますけどね。ユーモアというか。髪型は鳥肌実なんですよみたいな(笑)。聞いた瞬間に「なるほど!」ってなる感覚ってあるじゃないですか。囲碁をやってたっていうのも明らかに意外だし、beautiful peopleで働いていたのも意外だし。意外だろうなっていうのを分かった上でやってるんですよね。一言で笑ってもらえそうな何かみたいなことを。こんな感じだけど全身タトゥーなんですよとか。

Y そうなんだろうなあ…

N 恥ずかしいからちょっと外しちゃうっていうのが自分にあるんでしょうね。外れてるけど悪くないでしょ?っていう感じ。

F 今日ヌケメさんとお会いするのが3、4回目だと思いますけど、見せないところがありますよね。いつも常に余裕があるというか。

N 飄々としてたいとは思ってますね。

Y うん。これまでの大変な部分の話を聞くまでは全然そんなことないと思ってたもんね。

N だから、今は瞬間的に作品が売れてるからいいですけど、基本そこまでお金はないですよ。

F それも思っていたのと全然違いましたね。

N 同世代でも、稼いでる友達は年収1000万とか超えてきてるし。

F ファッション関係でですか?

N や、職種は色々です。まあバリバリ働いてますよね。

Y でも聞いてたら、東京はだいたいみんなそうですよね。

N うわ、そんなに稼いでるんだってなりますよね。なんで奢ってくれへんねやろ、コイツってなりますもん。

Y (笑)。

(2022年1月30日)

○注釈

※1 ROCKIN’ON JAPAN:ロッキング・オン社が発行する邦楽ロック・ポップス専門の音楽誌。1986年創刊。 
https://rockinon.com/

※2 音楽と人:株式会社 音楽と人から発刊されている日本の月刊音楽雑誌。1993年創刊。
http://ongakutohito.jp/ongakutohito/

※3 大岩雄典(おおいわ ゆうすけ):アーティスト。1993年生まれ。東京都を拠点に活動。2019年東京藝術大学大学院美術研究科修了。フィクションと修辞学を主題に制作。『美術手帖』『ユリイカ』『早稲田文学』などに批評を執筆。

※4 宇川直宏(うかわ なおひろ):グラフィックデザイナー、映像作家、ミュージック・ビデオディレクター、VJ、文筆家、司会業、番組プロデューサー、レーベルオーナー、パーティーオーガナイザー、キュレーター、ファッションブランドディレクター、サウンド・システム構築、クラブオーナー、ライヴストリーミングスタジオ/チャンネルオーナー、大学教授、日本自然災害学会正会員、現代美術家といった肩書きを持つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%B7%9D%E7%9B%B4%E5%AE%8F

※5 AIR SCG2:BnA Alter Museumにて開催されたレジデンスおよび展覧会。ヌケメ、冬木が共に出展した。
https://bnaaltermuseum.com/exhibition/air2-scg/

※6 エスモード ジャポン:東京都渋谷区恵比寿にある服飾学校。パリに創設された世界最古のファッション専門教育機関の日本校。現在、世界13カ国に20校を開設している。
 Web site :  https://www.esmodjapon.co.jp/

※7 セミトランスペアレント・デザイン:2003年から活動する,デザイナー/デヴァイス・ディヴェロッパー/プログラマーからなるデザイン・チーム。インターネット黎明期よりネットとリアルを連動させる独自のデザイン手法で多くのウェブ広告を制作し,国内外の広告賞を多数受賞している。国内外の展覧会、フェスティヴァルで作品を発表し、表現領域を広げている。
http://www.semitransparentdesign.com/

※8 田中 良治 (たなか りょうじ):Webデザイナー。1975年生まれ、三重県出身。同志社大学工学部・岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー卒業。2003年、セミトランスペアレント・デザインを設立。黎明期よりネットとリアルを連動させる独自のデザイン手法を確立し、多くのWeb広告を制作。国内外の広告賞を多数受賞している。

※9 世界制作のプロトタイプ展:http://gigmenta.com/2015/prototypes-of-worldmaking.html

※10  higure17-15cas:東京都荒川区西日暮里にあるコンテンポラリーアートスタジオ。
http://higure1715cas.com/#top

※11 辺口芳典(へんぐち よしのり):詩人・写真家。1973年。
http://yoshinorihenguchi.com/

※12 5LACK:日本のラッパー、トラックメイカーである。ヒップホップユニットPSG、SICK TEAMのメンバーとしても活動。2012年頃までS.L.A.C.K.名義で活動していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/5lack

※13 山塚アイ:音楽家、ラッパー。兵庫県神戸市出身。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%A1%9A%E3%82%A2%E3%82%A4

※14 文化庁メディア芸術祭:文化庁メディア芸術祭実行委員会が主催しているアートとエンターテインメントの祭典。
https://j-mediaarts.jp/

※15 アルスエレクトロニカ:オーストリアのリンツで開催される芸術・先端技術・文化の祭典で、メディアアートに関する世界的なイベント。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルス・エレクトロニカ

※16 インターネットヤミ市:“インターネットっぽいもの”を現実世界で自由に売り買いすることができる、というコンセプトのもと実施されたフリーマーケット的イベント。
http://yami-ichi.biz/

※17 IDPW(アイパス):アーティスト集団。「インターネットが降臨する場を創出する」というテーマのもと活動を行っている。
http://idpw.org/

※18 Fabcafe:世界中に拠点を持つクリエイティブコミュニティスペース。 人が集うカフェに、3Dプリンターやレーザーカッター等のデジタルものづくりマシンを設置している。
https://fabcafe.com/jp/

※19 LEE SAYA:東京 目黒にあるアートギャラリー。
https://leesaya.jp/

※20 グラファーズ・ロック:アートディクター/グラフィックデザイナーの岩屋民穂氏によるデザインプロジェクト。 インディーズからメジャーレーベルまで様々なCDジャケットやアパレルブランドへのグラフィック提供など、企業とのコラボレーションを通じ、幅広い分野でアートワークを展開し続けている。http://graphersrock.com/

※21 beautiful people:2006年にデザイナー熊切秀典を筆頭に立ち上がった日本のファッションブランド。https://beautiful-people.jp/

※22 ヴィレッジバンガード:愛知県名古屋市名東区に本社を置く株式会社ヴィレッジヴァンガードコーポレーション グループによって展開されている書店。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィレッジヴァンガード (書籍・雑貨店)

※23 しまむら:株式会社しまむら。郊外を中心に衣料品チェーンストアを全国展開する埼玉県さいたま市の企業。
https://www.shimamura.gr.jp/company/business/business.html

※24 ジャスコ:イオングループが展開していた総合スーパーブランド、またはイオン株式会社の旧商号。総合スーパーのイオンの前身でもある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%82%B3

※25 ドーバーストリートマーケット:川久保玲が展開する、若い世代や川久保玲に共感するデザイナーズブランドをキュレーションしたコム・デ・ギャルソン以外の商品も取り扱うセレクトショップ。https://shop-jp.doverstreetmarket.com/

※26 風の谷のナウシカ:宮崎駿による日本の漫画作品。アニメーション監督・演出家でもある宮崎が、1982年に徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』誌上にて発表したSF・ファンタジー作品。1984年には宮崎自身の監督による劇場版アニメ『風の谷のナウシカ』が公開された。

※27 岡崎京子:日本の漫画家。1980年代から1990年代にかけて、多くの優れた作品を発表、時代を代表する漫画家として知られた。

※28 CULTIVATE:http://www.cltvt.org/

※29 永江 大(ながえ だい):編集者。株式会社MUESUM所属。

※30 坂脇 慶(さかわき けい):アートディレクター/デザイナー。
https://keisakawaki.com/

※31 近藤さくら:画家。1984年秋田県生まれ。多摩美術大学造形表現学部卒業。生活圏内の見慣れた場景を記録・収集し、 それらをカットアップすることで作品制作を行う。作品の形態は、ドローイングを中心に、映像、立体、インスタレーションなど多岐に渡る。
https://sakurakondo.com/

※32 横田大輔:1983年埼玉県生まれ。日本写真芸術専門学校卒業。記憶と現在、イメージと現実の関係性をテーマに据え、実験的な方法を取り入れながら作品を制作している。
第45回「木村伊兵衛写真賞」https://imaonline.jp/news/others/20200319/、CULTIVATE「CULTIVATE#9

※33 KAWS:アメリカ合衆国のアーティスト。本名はブライアン・ドネリー。90年代初めにグラフィティアーティストとして頭角を現し、×印の目のキャラクターを用いた作品で広く知られている。

※34 Toshishi / トシシ:ヌケメさんがX JAPANのtoshiに扮するパフォーマンス。
https://www.instagram.com/toshishix/?hl=ja

※35 山川冬樹:1973年ロンドン生まれ。自らの声や身体をプラットフォームに、音楽、美術、舞台芸術の境界線を横断するパフォーマンスを展開。南シベリアの伝統歌唱「ホーメイ」の名手としても知られている。

※36 TALION GALLERY(タリオン ギャラリー):アートギャラリー。2011年東京都・谷中に開廊、2014年に目白に移転。
https://taliongallery.com/

※37 ドローン:https://ja.wikipedia.org/wiki/ドローン (音楽)

※38 GIカット:トップから前髪までの髪を残し、サイドをバリカンで短く刈り上げた、角丸刈りをベースにしたヘアスタイル 。ヘルメットをかぶるのに都合が良いことから、兵士の間では主流となっていた。

※39 鳥肌実:お笑い芸人、俳優、演説家。
https://www.torihada.jp/

※40 RAF SIMONS(ラフ・シモンズ):ベルギー出身のファッションデザイナー、および彼の名を冠したブランド。1995年にRAF SIMONS(ラフ・シモンズ)を創立。また自身のブランドにとどまらず、2005年にはJIL SANDER(ジル・サンダー)のクリエイティブ・ディレクター、2012年にChristian Dior(クリスチャン・ディオール)のアーティスティック・ディレクター、2016年にCalvin Klein(カルバン・クライン)のチーフ・クリエイティブ・オフィサーに就任している。

※41 HIROMIX(ヒロミックス):日本の写真家、文筆家、DJ、モデル。東京都立鷺宮高等学校在学中に女子高校生写真家として注目され、90年代の写真ブームを牽引。

※42 T.A.Z.(タズ): ハキム・ベイの著書、一時的自律ゾーン(TAZ)のタイトルおよびその概念。ハキム・ベイは執筆名であり、本名はピーター・ランボーン・ウィルソン(Peter Lamborn Wilson、1945年- )。アメリカ合衆国のアナキズムの著述家、評論家、詩人。

※43 Burning Man(バーニング マン):アメリカ合衆国で開催される大規模イベント。アメリカ北西部の荒野で年に一度、約一週間に渡って開催される。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3

※44 Potlatch(ポトラッチ):北アメリカ太平洋岸のハイダ、クワキウトゥルなどのアメリカインディアンの社会にみられる儀礼的な贈答競争。 客を招き宴会を開いて財物を消費し、招かれた相手も名誉にかけて別の機会にそれ以上の消費をする。「potlatch」は消費するの意。

※45 負債論  貨幣と暴力の5000年:デヴィッド・グレーバーによる著書。負債(=ローン)という観点から人文知の総結を通して、貨幣と暴力の歴史を分析を試みている。デヴィッド・グレーバー(David Grabber)1961年ニューヨーク生まれ。2020年没。文化人類学者・アクティヴィスト。ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス大学人類学教授。

※46 民主主義の非西洋起源について-「あいだ」の空間の民主主義:デヴィッド・グレーバー著。「民主主義はアテネで発明されたのではない」という価値転覆的な認識をもとに、民主主義の再興を試みている。http://www.ibunsha.co.jp/new-titles/978-4753103577/

※47 ヒカルの碁:ほったゆみ(原作)、小畑健(漫画)による囲碁を題材にした少年漫画。週刊少年ジャンプにて、1999年2・3合併号から2003年33号にかけて連載。

※48 新進棋士奨励会(しんしんきししょうれいかい):日本将棋連盟によるプロ棋士養成機関。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%80%B2%E6%A3%8B%E5%A3%AB%E5%A5%A8%E5%8A%B1%E4%BC%9A

※49 日本棋院(にほんきいん):囲碁の棋士を統括し、棋戦を行っている公益財団法人。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A3%8B%E9%99%A2

白山栄

プロフィール

白山 栄(しらやま さかえ)
・京都大学大学院工学研究科 非常勤研究員 (2021.5-現在)
・京都先端科学大学 臨時職員 (2021.8-現在)

2009.4-2012.3
株式会社IHI 航空宇宙事業本部 材料技術部
2015.4-2019.3
東京大学大学院工学系研究科マテリアル工学専攻 助教
2019.7-2021.3
国立極地研究所 第61次南極地域観測隊越冬隊員(気水圏モニタリング担当)
(2019.11.28-2021.2.22 南極地域へ派遣)

インタビュアー

黒田 健太 Kenta Kuroda _ ダンサー

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




山本(以下Y) 白山さんと出会ったのは、僕が短大だったときの同級生の友達と久しぶりにお酒でも飲もうかっていう話をした際に、このバーズの活動の話をしたら興味を持ってくれたところからですね。「面白い人を探してる」っていう話をしたら、「そういえば私の仲良い子に、大学で研究をしながら宇宙飛行士を目指してる人がいる」っていう話で。バーズでインタビューをしてる方たちっていうのはアートという括りだけじゃなくて、その人なりに色々なことを選択して生きている人だったり、そのために何してるかを聞けたらいいなということを僕は思っています。この前、少しだけ白山さんにお話を聞く機会があったんですけど、本当に知らない生き方をしてるから、今日はそういうことを聞ければいいなと思っています。話はいろんなところに飛ぶかもしれないけれど、全然飛びながらでいいのでよろしくお願いします。じゃあ、白山さん、軽く自己紹介からして頂いていいですか?

S 白山 栄(しらやま さかえ)といいます。石川県出身なんですけど、高校まで石川にいて、大学は東京に出ました。大学院修士課程を修了後就職して、10年ぐらいは東京にいました。大学で工学部の材料工学に進んで、金属の生産とかリサイクルの研究を始めて。で、その研究で博士号を取ろうと思って、会社を辞めて京都大学大学院の博士課程に編入しました。それで、2012年から2015年の3年ぐらいは京都で生活していました。その時も金属のリサイクルの研究をやっていたんですけど、それで学位を取って東大の助教に着任したんです。それが2015年からですね。今も大学のポストって任期付きで5年契約が基本なんですけど。

Y 5年も雇ってくれるんですか?

S 5年です。でも、それも短いと言われているというか。5年のうちに成果を上げて次に行かないと、大学に居られなくなる場合があるので。私の場合も一応5年契約で、そのあと一回再任が可能なので、最長で10年在籍できるっていう状態ではあったんです。元々その気はあったんですけど、やってるうちに研究にそこまで自分は熱意はないなっていうのが(笑)。飽きちゃったなっていう。

Y それは勤めてる時とかに、ふと思ったんですか?

S 博士課程に行ってる段階からうーん、っていうのはあったんですけど、でもやれるだけやってみようかなみたいなところで。それで、まあ研究してみて大体10年ぐらい続けたことになるんですかね。でも、もうそろそろ潮時かなっていうタイミングが訪れて、辞めることにしたんです。5年契約でしたけど、4年で辞めることにして。上司である教授と働いている中で、今後どうする?みたいな話もしていて。3年目が終わるぐらいの段階で実際どうしようってなって。やっぱり再任するにも審査は通らないといけないので、そこそこ成果がないといけないんですけど、論文も出してないし、研究もなかなか進んでいないっていう状況でした。正直ちょっと限界かと思っていたんで、「4年で辞めることにします」って言って。それを伝えた矢先に、南極に行かないかっていう話が飛び込んできたんです。

Y 南極に行かないかっていうのは、その上の先生からのお話ですか?

S それは、ちょっと後ほどお答えします(笑)。とりあえず辞めて次はどうするの?っていう話もあるんですけど、その時は忙しくて辞めたい心境の方が大きかったので、研究から一旦引いてみたいと。まだ次の就職先も決めない方がいい気がしたので、しばらく何もない状況にしようって思っていたんですけど、南極に行けるかもっていう話が舞い込んで、渡りに船というか(笑)。仕事的にも過度に負荷は高くないし、出来そうなレベルで、きっと楽しいだろうし。尚且つ「南極行きます」って言ったら、上司も諸手を挙げて送り出してくれたんですよ、よかったねみたいな。円満に退職できました。結構心配してもらっていたんで、パッといい感じに研究の世界から身を引けたという。

Y それは行った先の南極っていう場所に人が少なかったっていうのもあるんですか?いろんな人に配慮しなくていいから楽かな、みたいな。

S まあそうですね(笑)。結局、大学は2015年から2019年の3月まで勤めました。その後、極地研究所※1っていう南極観測を編成してる研究所に所属することになるんですけど、その年の7月から実際の採用が始まったのかな?3ヶ月くらいの無職期間も挟んで、いい感じにリセットされました(笑)。2019年の11月末に出国して南極に行って、越冬して2021年の2月末に帰国しました。

昭和基地に到着して間もないころの写真。看板前で。
大陸氷床を行く雪上車

Y しっかりと1年ぐらい行かれてたんですね

S はい。その後、しばらく実家にいて、次はどうするかなっていう時に、その、宇宙飛行士になりたいっていう夢は結構むかしからあったんですけど。

Y その時々で選んできた学校や職業とはちょっと違う、目標や夢を長くずっと思ってたっていうことですよね。

S もし宇宙飛行士になるとしたら、理系の大学院を出たり、研究の世界に身を置いていた方がいいかなっていうのもあって、ずっといたんです。もう助教の仕事が頭打ちになってきた時に南極の話に飛び込めたのも、国内でくすぶってるよりは南極の極限状態とか、閉鎖空間で一年過ごしたっていう実績ができた方が絶対いいっていうのもあって、ちょうどいい話だったんです。それで公募に応募して行けることになって。そしたら越冬中、2020年の10月ぐらいにJAXA※2から「2021年秋に宇宙飛行士を募集します」っていう発表があったんです。ちょうど帰国して半年ぐらいで募集がかかるなっていうのが見えて、その応募に向けて準備期間にしようと。3月末までは極地研の雇用ですが、4月以降、選抜の準備と並行してどんな仕事をして生活しようかなっていうのも考え始めました。最初は無職で、失業保険を頂きながらそれを薄く引き伸ばしてバイトをしてもいいかなと考えていました。でも、京大の博士課程に行ってたときの指導教員だった先生が、帰国した時に声をかけてくれて。その先生は、私が宇宙飛行士を受けたいっていうのもご存知で、行く末を案じてくれていたみたいで。そのとき人手を募集してたっていうのもあるんですけど、「宇宙飛行士の試験を受けるなら京大っていう所属先があった方がステータスもあるし、腰掛けでも構わないし、非常勤をやりませんか」って言ってくれて。

Y いま伺っているだけだと、かなり順風満帆ですね。

S 今のところはワガママを言って、好きな感じで働かせてもらっています。ちょっと暇になりたいんで、週3ぐらいがいいなとか(笑)。最初は、週三日で10時から16時までの勤務がいいですって言って。でも、去年の秋に失業保険が切れたんで、じゃあここで雇用保険に入ろうと思って、9時半から17時半にしたのかな?でも3日以上勤務日は増やさないっていう。ギリギリ20時間を三日で稼ぐ。そんなかんじで、最初は週3で暇にしてたんですけど、そういう生活をしているとやっぱり暇すぎるなっていう瞬間が訪れて(笑)。

Y ワガママですね(笑)。

S 東大を辞める時は本当に働きたくないって思ってたんで、仕事するにしても週3、4ぐらいで働くことを考えていたんです。実際やってみたんですけど、いざなってみると人間ヒマがあってもロクなことしないなっていう(笑)。やっぱある程度は忙しくないとダメだなって思いました。それで、何か他の仕事がないかと思っていたら、8月末から京都先端科学大学※3に行くことになったんです。そこもたまたまツテが見つかって。その先生は、リモートセンシング※4を専門にしている先生で。リモートセンシングって、離れたところから現場で何が起こってるかを観測するような技術です。衛星画像を使って解析をしたりですね。日本には鹿が山から農村に下りてきて、作物を荒らすんで困ってる地域があるんです。で、その先生は鹿の分布を知るために、レコーダーを設置して鹿の鳴き声を拾って、それを音声解析にかけて鹿の位置情報を特定するっていうことをやっていて。そういうことをやってるから、マイクの設置や多少のメンテナンスができる人を募集してるっていう話を聞いたんです。ちょっと面白そうじゃないですか、鹿の鳴き声拾いに行くって(笑)。

Y おもしろそうですね。実際に山に入って、音声を回収したり?

S はい。秋以降が鹿の繁殖シーズンで、鳴き声を上げるんです。だから秋はめっちゃ忙しくって、週二回の出勤のどっちかが泊まりの出張になったりとか、それに加えて土日も行ったりして、野山を駆け回って過ごしてたんです。その調査をメインでやっている場所が三重県にある農村地帯で、そんなに山奥じゃない、普通に民家がある田畑の脇でマイクをいじってるんですけど、それの前身になっている研究は尾瀬でやっています。尾瀬ヶ原っていう、群馬と福島と新潟の県境にある湿地帯で、そこは木道のところしか普通は歩いちゃいけないんですけど、おもむろにそれを下りて藪を駆け抜けて、マイクを見つけに行くみたいな(笑)。そんなことをやっていました。

黒田(以下K) もし人が少なかったら行っていいですか!?

S 是非お願いします(笑)。今は「スマート農業」っていうキーワードで、人手がかけられないところに最新技術を導入する取り組みが行われていて、その一環でやっているんです。特にその三重県の多気町が、町をあげてそういう取り組みをやってるみたいで。多様な分野の先生が絡んで、結構いろんなことをやってます。私たちは鹿の音声を録っているんですけど、カメラを設置してる人もいたりとか。まあマイクのメンテナンスなら、私もできるかなと思ったんです。採用してくれた先生も、南極に行って帰ってきた面白そうな人がいるみたいな感じで、「南極だったら山登りとか得意?」って興味を持って採用してくれたっていうのもあって。その先生にも採用の前に、宇宙飛行士の選抜試験を受けようと思ってるんで腰掛け程度かもしれませんけど、スポット参加みたいな感じで野外調査に行けませんか?みたいな申し出をして。

Y 手前の説明だけで大ボリュームですね。

K 宇宙飛行士の話はまだ出てこないですね(笑)。

Y 一番最初に理系の大学に行こうと思った理由も、最終的には宇宙飛行士を目指すための経験というか、実績を踏むっていう目的で行かれてたんですよね。では、働き先で選んでいる南極観測や鹿の生態調査を選んだ理由っていうのは、気づいたらそうなっていたかもしれないのも含めて、なんか、やっぱ働くならこういう仕事だよな。というのはあったんですか?

S 宇宙飛行士はですね、ちょうど私が小学生の時に、毛利衛※5さんや向井千秋※6さんが宇宙に行った時期だったんですよね。テレビで向井さんを見てカッコいいと思いましたし、自分も行ってみたい!みたいな。純粋な子供の夢といいますか。知らないところに行ってみたいっていう願望が、もとから強い方だったとは思うんですよね。だから高校生の時も海外に行ってみたかったし、学生の時も海外留学とかしてみたいなっていうのもありました。結局、行くチャンスはなかったんですけど。知らない土地に行って、ある程度の期間を過ごしてみたい願望はあったんです。

Y じゃあ、宇宙も暮らしてみたいと。

S なんなんでしょうね。自分にとって未知の部分も日常にしていくというか、活動領域もちょっとずつ広がっていくみたいな。そういう感じなのかなと思っているんですけど。

Y 目指すと言っても、わかりやすく言ったら僕なら「頭良くないと無理じゃない?」っていうのを手前に思ってしまったりとか、色んなハードルがまずあると思うのですが、白山さんが小学校の時になりたいと思った時も、まず目の前に小学校、中学校、高校って勉強がある訳じゃないですか。単純にそういう学力的なことはどうだったんですか?

S 幸い勉強はできたんです(笑)。小中の勉強で特に苦労した覚えはないですし。ただ、高校生や大学生になって、大学も東大に行ったんで、やっぱり周りができる人ばっかりになっちゃうし、上には上がいるんで。東大には航空宇宙工学科があるので、そこに行きたいと思って選んで行ったんですけど…。まず東大は教養学部っていうところで、新入生で入った最初は色々な分野の勉強をするんですね。その段階でテストがあって、各科目の試験で平均何点以上じゃないとこの学科にいけないとか、2年生になる段階で3年以降にどの学部学科に行きたいかっていう、進学の振り分けがあって、そこでの競争になるんです。だから人気のある航空宇宙工学科は、むちゃくちゃ人が集まるんで倍率も高いし、点数の高い子しか行けないんですよね。だからもう、高校を卒業して大学に入ったのに、航空宇宙工学科を目指している人たちは、現役の高校生かっていうぐらい勉強をしていて、授業に毎日出て試験対策をしてみたいなことをやるんです。「大学生になってもこのぐらい勉強するんだ!(驚)」みたいな。それから、東大には、「こういう人のことを天才って言うのかな」って思うような、本当にできる人っているんですよね。みんな私よりもできる人たちばっかりだし、そこで力の差も見えるし。やっぱりそういう中で、航空宇宙は厳しいかなとか、宇宙飛行士って相当難しいかもみたいなことは、なんとなく見え始めるんです。それで、私の場合は進学振り分けのタイミングで、ちょっともう航空宇宙にはついていけないと感じて、自分の行ける範囲で興味のあるところに行こうと思って。自分のテストの成績とかが出てくるんですけど、その点数で行ける学科を並べてみて、そのなかで興味のある材料工学にしたんです。で、まあ材料だったら何を作るにも必要ですし、材料工学の中にも航空宇宙に関わっている先生もいて、おもしろいかなって。

Y 宇宙飛行士じゃなくても、何か宇宙の仕事に携われるようなところに行こうかなと。

S はい、そんな感じで選んだりしていました。金属製錬はなぜか出会ってしまった研究なんですけど。修士を出た時の就職先は、IHI※7という飛行機のジェットエンジンを作ってる会社で、そういう航空宇宙系の会社に行きたいなって入ったんです。宇宙飛行士の過去の募集要項を見たりすると、実務経験が必要だったりもして、一応なんとなくそういうことも意識はしていて。前回の募集だと、技術系や科学系の業務歴が3年間ないとダメっていう条件がついていてました。そういうことも含めて、結局働いてはいかなきゃいけないし、じゃあ何をしようかっていうところに意識が向いたりしてた時期ですね。

Y ちなみに宇宙飛行士の募集って、どのくらいのスパンであるんですか?

S 今回は2022年に選抜試験が組まれているんですけど、前回は13年前です。

K それは飛行士の募集がですか?

S はい。前回は2009年にJAXA宇宙飛行士の募集がありました。その時は修士の学生だったんで、応募資格がなかったんですよね。多分2008年の募集も10年ぶりだったと思います。

Y 海外は海外で、また別に募集があるってことですか?

S はい。アメリカはNASA※8で、ヨーロッパも欧州宇宙機関(ESA)があって、そこで募集をかけています。欧米も機会が多い訳じゃないですけど。でも今回の日本の13年っていうのはだいぶ空いたなっていう印象ですね。ただ、日本はこれから宇宙飛行士を増やそうとしていて、今後5年おきに募集する方針が国で承認されたみたいで、よかったなと思っています。

Y 宇宙に行けるようになってから JAXAが宇宙飛行士を募集した回数ってすごく少ないんですか?

S ええと、これまで5回ですね。最初が毛利さん、向井さん、土井さん※9。

K 初めて月に行ったのが冷戦の時代ですもんね。

S そうですね。それで競争もしていましたね。冷戦時代は国が威信をかけて競争をしていたから、アメリカもロシアも相当なリスクを冒して人を送っていたって話もあって。結果的に最初にアメリカが行ったので、そういう競争は終わったっていう説はありますね。いまNASAは「アルテミス計画※10」っていって、人を月に送り込む計画を立てていて、地球から月の周回軌道を通って地球に帰ってくるロケットを飛ばして、宇宙船に人を乗っけて行こうとしてるんです。で、今度はちゃんと月面基地を建てて、月の開発を進めるために人を送り込むと言ってます。日本もその計画を協力して進めることにしていて、そのために宇宙飛行士を増やそうっていう話がまことしやかに噂されていて(笑)。おそらく本当にそうなるだろうなとは思っています。

Y 今回2022年に選抜をやることになったから応募できるし、これから宇宙へ行けるように努力していくっていう段階ですね。

S そうですね。前回は2008年に募集があったけど、応募資格がないっていうことがわかった時点で、じゃあ次は多分10年後かな、っていう。できれば10年かからずに募集してほしかったんですけど。そのあいだ何をして過ごそうかなっていうことになってきて。もうすでに修士の学生で就職先をどうしようっていう状況だったんで、実際に就職して社会人になってとしているうちに、やっぱりこう、日々の生活に追われてしまって(笑)。普段はそういう夢もなかなか口には出さないですし、大っぴらに言うこともしていなかった時期がありました。2012年に学位を取るために京都に来た時、私はこれからどうしてくんだろうみたいな、何がやりたいんだろうみたいなことで悩んで。それで、自己分析をした時にやっぱり小さい頃の夢だった宇宙飛行士をもう一回目指そうと。最近は積極的に目指すこともしてなかったけど、やっぱそこは夢として持って、しっかり言っていこうと。そのあたりから、とりあえず「なりたい」っていうのを言うようにしたんです。「なりたいから」って、言うだけ言うようにしたんです。

Y なりたいって言ってたら、さっき仰ってたようなそれに即した仕事が来たり。

S 意識的に言うようにしたのがそのくらいの時期ですね。博士課程の時の指導教員にそれを言ったのも、今に繋がってますね。

Y それで、もう一回夢と向き合いながら仕事もしながら、っていうスタンスでやりだした。

S そうです。そう思ったのが2012年ごろで、前回2008年の募集から4、5年経ったタイミングだったんですけど、言ってるうちに募集あったらいいな、ぐらいの感じで。

Y 目標の試験が10年後で、10年間で普段の日常生活を送りながら、白山さんの中で目標は常に頭にあって向き合っていたような感じですね。単純に日々生きていくために仕事するだけでも時間は過ぎてしまうこともありそうなのに。熱量や携わる仕事やタイミングも重なって、「やっぱり宇宙飛行士なりたいな。」という、忘れてないし13年経ってから募集があっても準備はしていたんですね。

S そうですね、常に頭の片隅にはあって。ただもう、応募のチャンス自体がしばらく来なさそうっていう状態だったんで、結構苦しいし、悩みも多いし。だから、芸能人とかダンサーとか、芸術家さんみたいだなって思って。

K いつ売れるかみたいな。

S いつ売れるかもわかんないし、いつ実になるかもわかんないけど、でも何かやり続けなきゃいけない。そういう苦しさがあるなって。だから、歌手でビッグになることを目指してやってる人とかって、ほんとに大変だなって思ったりしました(笑)。しかも、何をやったら結果につながるかも全くわからないっていう状態なんで。何をやっていればいいっていう明快なノウハウもないですし。 

Y お金をかければできることでもないし、もちろん勉強はやるけれど、どの勉強がそれに一番合ってるかもよくわからないし。

S それで、仕事は別に何をしててもいいだろうけど、何をしたらいいんだろうっていう。

Y でもそこで南極観測を選んでいるのは、確かに合ってますよね。

アザラシの親子

S 宇宙飛行士の仕事は、現在の宇宙利用でいうと国内の様々な研究者が考えた実験を、国際宇宙ステーションで代行するみたいな仕事内容なんです。あと他には、基地の維持管理をするのも任務ですね。それで、よくよく考えたら南極観測の仕事も、私が入ったポジションは、国内の観測データを使って研究してる研究者がいて、彼らの指示に従って装置を動かし続けるみたいな仕事だったので、ちょうど同じだと思って。場所が違うだけで同じようなことをやるというのが、選んだ理由のひとつですね。あとは、博士課程の時も助教になってからも、私自身が研究に対する熱意がないというのか、興味が薄いということにずっと悩んでいました。私は、引かれた線路の上をうまく走るのは結構得意なんですけど、自分で線路を敷くのは得意じゃないタイプだと思っていて。自分で研究のネタを見つけてそれに向かって計画を立てて、お金もらってみたいな、そういうことがやっぱり苦手というか。意識の問題なのかもしれないですけど、ずっとその感覚はあったんです。自分で研究をプロモートする方じゃなくて、サポートする役回りの方が気楽にできるっていうのはあって、南極観測はまさにサポート役の役回りだったので。キャリアチェンジというか、サポート役が実際どんなものなのかも体験できる機会でしたし。これでサポートする側がしっくりきてるっていうのがわかれば、帰ってきてからのキャリアプランも立てやすいかなっていう。

Y 宇宙の仕事だったりでも、どういうかたちで自分が働けるのかなっていうことも、具体的な分析を含めて動かれてるんですね。そういえば、黒田さんも南極に行きたいって言われてましたね。

K 行ってみたいですね。白山さんの、生活してみたかったっていうのは凄くわかります。

Y 長い期間を少人数で過ごす現場っていう、ちょっと特殊な状況の人間関係とかについては、別に心配はなかったんですか?

S そうですね。逆に面白そうかなっていうのもあって。変な雑音が入らないじゃないですか、南極に30人しかいないんで(笑)。あと、割と引きこもるのとかは好きな方なので。そういう意味では、そんな環境も苦ではないだろうなっていう。

Y 宇宙の場合、一緒に行く人数っていうのは何人ぐらいなんですか?

S 4人くらいだと思いますね。

Y 衛星とかにチームで行って帰ってきてっていう期間としては、だいたい何日間ぐらい行ってるんですか?

S 人によってまちまちですね。ISS滞在の最長記録はほぼ一年ですかね。

K JAXAの中でですか?

S それはNASAですね。でも宇宙飛行士の大半が、一ヶ月とか二ヶ月単位の滞在だったと思います。

K 滞在は国際宇宙ステーションになるんですか?

S 基本はそうですね。ただ、国際宇宙ステーションも老朽化しているそうですが。

K 宇宙空間で劣化するんですか?

S 放射線とかめっちゃ飛んでいますから。ステーションのもともと想定されていた利用期間は過ぎてるんですけど、本当にいろいろ手を加えながら維持してるみたいで。運用期間はたびたび伸ばしながら運用していて、最近また太陽光パネルを大きくするっていう話も出ていましたね。

K 宇宙ではここが自国の場所だっていう主張みたいな、領土問題的な話はあるんですか?

S 例えば、南極も領土権の主張ができなくて、国際的に平和に利用しようねっていう条約があるんですよ。宇宙も同じような国際法があって。国際宇宙ステーションも、アメリカとかロシアとか日本とか色んな国が参画しているので、一応そういった国際共同利用のシンボルとして位置づけられてはいるんですけど、参画してる国は限られているので結構それにも賛否両論があるようです。

Y 南極も宇宙もそうですけど、決して住み心地がいいわけではないというか過酷な環境なので、居住場所としての必要性はないですよね。

S 南極から帰ってきて、新しい職場の人とお話したりすると、やっぱり南極に行きたい人と行きたいって思わない人といるんですよ(笑)。行きたくない人はみじんも行きたいとは思わないし、そこは人それぞれですね。

Y さっき言ってたけど、南極は30人とかの小さなコミュニティじゃないですか。黒田さんは人との関係性に興味があるって言われてたりするんで、そういう特殊な状況っていうのも行く理由になるかもしれないですね。

K 確かにそうですね。知らないジャンルのダンスバトルに出るのとかは、結構おもしろかったりします。コテンパンにやられるけど、なんか面白いみたいな。そういうのは結構好きですね。

Y さっき仰っていたサポートの業務、自分達に来た依頼や毎日あるいは月間これだけの作業があるっていうものを、例えば3人とかのチームを組んであたるんですか?

S 南極はすでに基地の中に定常観測※11といって、24時間365日稼働している装置があったり、あとは週に一回こういうサンプリングをするとか、計画に基づいてやっている観測があります。だから、誰かしら現地にいる状況が必要ということですね。で、そういうメンテナンスや観測をする人たちを公募していて、私はその枠で入れたかたちですね。主担当は基本的に一人です。宇宙飛行士と一緒で、南極越冬隊に入れたら面白いだろうなみたいな気持ちはあったんですけど、とはいえ専門は全然違うんです。南極観測のページを見ると、調理の担当とお医者さんと野外活動のプロみたいな人は公募で毎年募集してるんですけど、それ以外の観測系の仕事を応募要件の字面で見ると、やっぱりそれ相応の専門性がないとダメに見えるんですよね。私は全然専門外の畑違いだったんで、難しいかなと思ってこれまで応募は全然考えてなかったんですけど、偶然知り合った実情をよく知ってる人が、「いけるんじゃない?」っていうことを教えてくれて、無事そこに入れたっていう。ラッキーでしたね。 

Y でもお話を聞いていると、南極観測や鹿の調査やメンテナンスとかも、それはそれで宇宙の仕事に近かったり、徐々にやりたいことにちゃんと向いていく仕事を選んでる印象は受けます。

S 会社を辞めたぐらいのタイミングだと、辛抱が効かなくて一貫性のないキャリアだなと思ってたんですけど、今までの自分を振り返って、最近ようやく宇宙飛行士の選抜を受けることも含めて、どこか頭の片隅に一貫してるものがあったからこういう状況になってるのが、なんとなく見えてきたっていうのが今の感覚です。去年、帰国してから南極の話を学校でしてくださいとか、いくつか講演に呼ばれることがあったんです。だいたい平均して月に一回ぐらい講演をしてたんですけど、中学生の職業講話、色んな職種の人の話を聞いてみましょうみたいなものに呼ばれたことがあって。10分か15分ぐらいのオンラインの枠だったんですけど、中学生はこれから職業体験もあったりするから、働くことの意義とか自分の職業を考えるっていう参考になるように、学校からこういう内容を盛り込んでほしいという要望もあって。具体的には、自分はどういう仕事をしてて、どういう理由でそれを選んだり、働いてて何がやりがいなのかとか、あとは中学生へのメッセージみたいな項目が書かれてたんですけど、やっぱりちょっと適当なことは言えないなと思って。それで、真面目に考えてみたんですけど、ちょうど私の人生を考えるいい機会にもなって漠然と見えたのは、働く上での動機とか、何をやりがいとして選んでるのかなって考えた時に、3つあるんです。まず1つは、何をおもしろいというかは曖昧ですけど、魅力的なおもしろい人と関われる。大学で働いてる理由のひとつはそれかな、っていうのがあります。研究者って、一個のことを興味を持って考えている人たちなので、クセが強かったりしますけど、色々なことを知っているし、話してておもしろい人が多いですね。そういう魅力的な人たちに関われるっていうのが1つ。2つめは、知らないところに行って自分の活動領域が広がること。場所っていう空間的な活動領域が広がるっていうのもそうだし、新しい技術を獲得して自分のできることが増えるっていうのが楽しいですね。これができるようになったとか、やったことないけどやってみたらできたとか。あと3つめは、自分の持ってることで周りの人が喜ぶ、周りの人の役に立つのが、やっぱり嬉しいのかな。それを満たせるような仕事を選んでるんだろうなっていうのが見えたかな、と思っているんです。だから、帰ってきてからのお仕事も色々やっているけど、そういう観点から選んでますっていう話を中学生にしました。

地元の中学校での講演では南極の生活や、宇宙飛行士の夢を語った (野々市市立布水中学校)

S 突然やめようって研究から足を洗ったけど、やっぱり研究業界にいて、なぜかまだ材料研究のお手伝いはしていて。言われた仕事を請け負うだけなんで、超気楽にやってるんですけど(笑)、それはガラッと全然別のことをするって出来ないというか。できるかもしれないけど、お給料とか色んなバランスを考えた時に、慣れてるところからちょっとずつ重ねながらちょっとずつ変えていくっていう。今その段階にあるのかなと思っていて。週3回でやってる材料のお仕事は、慣れ親しんだところではあるけれど、学生の時にやっていたドンピシャのテーマではなくて、別の研究グループが何個かあるうちの燃料電池のグループに今はいます。なので、そこで燃料電池の材料の知識も見ながら、自分にとっては新しい分野の勉強もしながら。一方で、新しく始めた鹿の鳴き声を拾う仕事は、研究領域としては全く新しい分野です。南極で大気観測の仕事をしてたときに、野外での観測や、外に出ていってサンプルを集めたりといったフィールドワークっていうのを初めてやったんですよね。でも南極で終わっちゃうのも勿体ないなと思って、もうちょっとフィールドワークに関わることもできるかな、っていう。そこは今までいた分野と全然違う分野なんで、やってるうちに新しく必要なスキルが身につけばいいなと思っています。

Y 苦手と言って全て辞めてしまうんじゃなくて、自分なりに新しい手に入れたいのもあって繋げていくんですね。全然話が飛びますけど、今日ちょっと楽器を持って来られてますけど、それはサックスですか?

S そうです。全然下手くそなんですけど。中学校の吹奏楽部から、高校も吹奏楽部で、大学も吹奏楽サークルに入って。なんだかんだでブランクも挟みながら、社会人になってからも吹奏楽団入ったりで、結構続いてるんですよね。

Y 一人で黙々とやることとか、例えば将棋だったり個人の力が勝負みたいなところにあるものと、吹奏楽もそうなんですけどチーム戦というかグループでやるものがありますよね。白山さんのお話を聞いてると、チーム戦のことが多いのかなと思ったんですけど、そういうのはあったりしますか?

S そうですね。楽器は一人じゃ吹きたくないですね。やっぱり吹奏楽は合奏が楽しくてやってることであって、周りと共有するのが楽しいのかな。私も、仕事はこんなにフラフラしてるのに、なんで吹奏楽だけはこんなに続いてるんだろうって、自分で考えた時期があります。なぜこんなに長く続いてるんだろうっていうのを考えた結果、どう捉えてるかというと、「合奏」が好きなんですよね。料理や実験作業とも似てるとこがあるんですけど、みんなで吹いてて、無になれる瞬間というか。何も考えない瞑想状態というのか、その場でやっていることに集中して、充実感が得られるみたいな。その一時集中してるけどいろんなこと考えながらやってたりとか、リフレッシュになる感じです。私は人と当たり障りなく付き合うのは得意な方だと思うんですけど、あんまり人と踏み込んだ話をしたりとか、深く付き合うっていうのはなかなかできないというか(笑)。人見知りですって言うと驚かれるんですけど、あまり他人に興味ない方だと思うんです。でも合奏をやってると、周りの人たちと音を合わせるし、周りの人の音を聴きながら、一緒にひとつのものを仕上げることができる。会話じゃないけど、同じひとつの曲を吹くとそれで繋がれてるみたいな。その場の空間を共有している雰囲気が好きなんですよね。

Y なんか南極観測もさっき人数が少ないからいいって使われてたなと思って。人が多くなると単純に発生する情報が多くなって受信者も考えないといけないこと増える、誰かにとっては善のことでも他の人にとっては悪の話になったり、そのような争いはなくて良いよ。とか考えてバランス取るとかは疲れますよね。
それを考えると吹奏楽のような音同士の関係作りができる、他の情報はある程度消せることで考える幅が狭くなるのがいいということもあるんですよね。

S そんな感じで続けてますね。いいリフレッシュの時間なんだと思ってます。

Y 現在黒田さんはダンスとか演劇が団体、チームでやることですよね。でも、もともとはボクシングをされてましたよね。

K そうです。やってたスポーツは個人競技だったんですよ。だから、人といるのはそんなに得意じゃないですね。好きじゃないわけじゃないですけど得意じゃない。でも僕はクラブとかに行って、知らない人と一緒に体を動かすみたいことでグルーヴを感じたり、楽しかったみたいな気持ちにはなるんで、それは白山さんの合奏とちょっと近いのかなって想像しました。

Y 具体的な情報じゃない方が黒田さんはいいのかもしれないですね。でも、そうやって体を動かしてグルーヴを感じれた後は、二人だけなら黒田さんは流暢に喋れるようになりますよね。

K そうですね、二人とかだったら喋れるようになりますね。

吹奏楽団パズル(大阪府堺市)の演奏会前。サックスパートのメンバーと。

Y 悩んでるとは言いつつ、全部がちゃんとこう繋がっていて。

S でもその最中にいるときは、全然どうなるかわからない状態ではあるんですけどね。後から振り返って繋げてみると、こんなかたちになったみたいな。そんな感じです。

Y 黒田さん、あんまり喋ってないですけど、聞きたい事とかないですか?

K いやなんか、今お話を聞くとすごい長い道のりを歩いてきたんだなって思うんですけど、目の前に道があったわけじゃなくて、振り返ったら結局そうだったみたいなことなんだなと思って、勇気づけられました(笑)。

S&Y 爆笑

K きっと道は後ろにあるんだよ、みたいな気持ちになって。

S やっぱり黒田さんもダンスは続けた方が(笑)。

K 白山さんはすごい好奇心が強い方なんだなと思いました。さっきの3つの理由の話で、まず最初に「おもしろい人と関われる」っていうのが出てきたときに、あ、なるほどっていう。

Y 白山さんは、はじめは行きたいや会いたい、面白そうなど興味があること。インスピレーションで様々なことに携わって来られたと思いました。けれど、よくよく考えると…。みたいな感じですよね。お話しにあった鹿の生態調査とかもですけど、最初は「面白そうじゃないですか。」って考えているものも、観測という点で宇宙飛行士の仕事とかとも繋がっているような。
嗅覚で出会うけど、生きてきて考えて来たことが裏付けになった嗅覚って感じがしますね。

S 南極での楽しかったなっていう経験があったから、フィールドレコーディングの話を聞いた時に、「おっ鹿!?」って、パッと「おもしろい」っていう気持ちが芽生えたのかもしれないですね。もしこれが大学で助教をやっている時とかで、鹿の観測がどうのとか聞いても、「ふーん」って思っただけかもしれないですけど、そのタイミングだったからおもしろいと思えた気もします。

K 遠い物事も好奇心がつないでくれてるみたいな感じがして、それがおもしろいですね。

S やっぱり好奇心ですかね。

Y 鹿の話も南極の話もそうですけど、いい話や変な話が来たなって思った時に、受けるか否かを決める精査の仕方というか、基準はあるんですか?もちろん、その時のタイミングもあるでしょうけど。

S そうですね。それこそ南極に行く前の助教をやってた時は35歳で、すっごい婚活してたんですよ(笑)。ものすごく婚活してたっていうのも、婚活自体に興味があったからやってただけかもしれないんですけど(笑)。でも一応真面目に、部活動みたいにやってたんです。婚活って言うだけあって本当に部活動並みですよ。土日は毎週お見合いして、1日に3人とかスケジュールをバーって詰め込んで、部活ぐらいやってたんです。でも、結婚するだけならいつでもできるんだなっていうことと、気の合う人ってなかなかいないもんだなっていうこととか、婚活でいろんなことは学んだけど、ちょうどそういう最中に南極の話がきたんですよね。南極行くか、でも南極行ったら37歳の独身になっちゃうってのがもう見えてるんで(笑)、タイミング的にもちょっと考えました。じゃあ私は結局36歳の1年間は南極で過ごすことになるなっていうのは、ふっと頭をよぎるんですけど。でも、そんなに悩まずに南極を取ったってことは、婚活が私の中ではそれほど重要じゃなくて、断然南極に傾いてたんですね。多分何かする時に、これはやった方がいいかなとか、やらない方がいいかなみたいな、何するにしてもふとした考えはよぎるのかもしれないですけど、でもやっぱり気持ちの向く方に行くしかない…。あと、座右の銘とまではいかないですけど、やらずに後悔よりはやって後悔、っていう(笑)、決断する時にはそういう言葉を持ち出します。やって後悔ですね。あと、最近ちょっとそれに加えようと思ってるのは、自分で見たりとか自分でやったものじゃないと、本当じゃない。やってみないとわからないというか。自分で体験することが全てという気がしています。

Y 結構現場向いてそうな人なんやろうなと思って聞いてました。

S 現場仕事は好きなんでしょうね。

三重県多気町でのマイクロフォンメンテナンス

Y 前にちらっとお話をさせてもらった時に、そのひと個人の哲学を持っているより、普通にいろんな人とフラットに話ができる方が宇宙飛行士に選ばれやすい、ある意味突出してる人が宇宙飛行士には選ばれにくいみたいな話をされていましたよね。宇宙の狭い空間で5人だけで、地球から指示が来るみたいな時に、確かにハイテンションな人がいたら、確かに「待ってください」ってなるんだろうなって思って。だからまだちょっと安全面的には危険な場所なんだなっていう部分があるんですよね?

S 何かお話しましたね。極端な人もそうだと思うんですけど、前回の選抜を受けて最終まで残った方のインタビュー記事を読んだんですけど、躁状態に入りやすい人や、わーって感情的にテンション上がりやすい人は、真っ先に落とされるっていう話を読んで、そうなんだ!と思いました。選考に落ちた方が自分のことを思い起こして、僕はまさにそのタイプでしたねって言ってました。

K 精神診断みたいなのがあるんですか?

S あると思いますね。テストの中に入ってくると思います。

Y だから、もちろん命や沢山のお金がかかってることだからということも含んでいるかもですが、平均値みたいにバランスがとれた人、そこで順応できる人の方が選ばれやすいっていう。宇宙飛行士っていう職業自体は夢や希望を持つ職業だけど、選抜される適正基準はそうなんだみたいな。ちょっとこう、ギャップがありますよね。

S そうですね。でも夢や希望って言われている職業ではありますけど、やってることは超地味な仕事です(笑)。結局のところ、JAXAという組織の一人でしかないんですよね。例えば、強いこだわりや、これをやりたいっていう意思があっても、宇宙飛行士になるとそれが全ては出来なくなるんですよね。「これやってください」って人から言われてることを着実にこなさないといけない。だからバリバリ超優秀な研究者の方がいて、その斬新な宇宙を利用した研究がしたいっていうことを言ったとしても、宇宙飛行士になったら逆にそれはできない部分ではあります。

K そういう方はだいたい地球に残ってその研究のプランを立てるみたいなかたちですか?

S そうですね。自分は行く必要ないんですよね。

Y やりたいことが徹底できないなら、アーティストはみんな成りづらいんじゃない?

K そうかもしれないですね。ただ、その宇宙飛行士の役割がダンサーっぽいなって思ったんですよ。僕らは先に与えられた振り付けがあって、それで体を動かすんで。与えられた内容を自分でちゃんと判断して、それが合ってるかどうかだったりを自分で考えてやるところは似てるのかなって思いました。

S そうですね、音楽もそういうところはありますよね。私は一人で楽器は吹きたくないけど、合奏は指揮者っていう絶対的な存在がいるじゃないですか。それにフォローするっていう状態が自分は好きなんだなと思っていて。道は作って欲しいタイプなんだと思います。でも、宇宙飛行士はリーダーシップを取れるし、フォロワーにもなれるような人が求められていて。どっちもやれる人じゃないとダメなんですね。リーダーとして動く場合もあるし、自分が船長じゃない場合はフォローする役回りにならないといけないし。そういう意味では、私はリーダーシップは昔から苦手かもしれないですね。南極観測は30人をまとめる隊長がいたんですけど、そういう中でリーダーの立場や役割が見れたりもしました。越冬隊は本当に雑多なチームというか、いろんな人がいましたね。私は研究からやってきた人ですけど、もともと共済の職員で事務仕事をしていた人もいたり、基地の設備担当の人たちは、いろんな会社から派遣されて来るんですけど、人によっては高卒で働き始めて、10年勤めてて28歳ですっていう人とか。大卒で会社入って技術を磨いてっていう人もいましたし、普段の生活では全然出会わないような人たちで。お医者さんと調理担当は2人体制なんですけど、ほかは一人ずつ、その人だけの担当の職務を持ってるんですよね。社長ばっかり30人集めた組織みたいな(笑)。社長だけで1つの村を作るみたいな状態の生活なんで、それをまとめるって結構大変で。それぞれにやりたいことがいっぱいあるんですよね。でも一人でできることって限られてて、他の人の手を借りなきゃいけないんですよ。自分の仕事以外に業務支援として他の人の業務も手伝ったりするんですけど、おもしろかったですね。それぞれやりたいことはあるんですけど、結局そればかり追い求めてると全体として回らなくなっちゃうんで。そういう組織だと、隊長は全体でやる仕事や、これが優先度高いみたいなことを明確にしておかないと。そういう方針がないとおかしなことになっちゃうなっていうのは感じましたね。

Y 海賊とかと近い感じしますね。船長はいるけど1人では船は動かせないし航海士とか乗組員たちそれぞれに役割ある状態というか、料理長が「お前ら死ぬぞ」って言ってきたら、乗組員みんなで料理一緒に頑張らないと。ある閉じられた空間での共同生活は、自分のことだけやってたら、一年間生きるのは絶対無理だ!ってなりそうですね。

S そうですね。料理人にボイコットされたら食べられなくなっちゃう(笑)。

K でも料理人がいるっていうのは不思議だなって思いました。宇宙だと簡易食みたいなものがあるじゃないですか、でも南極だとちゃんと料理して毎回出してくれて。ある種の効率を考えていくと、別にカップラーメンとかでもいけると思うんですけど、娯楽というか隙間があるというか。

S 楽しかったですね、娯楽と料理が。閉鎖されている環境ですけど、一応宇宙に比べたら空気もあるし、連れて行ける人の幅も広いんで。閉鎖環境で一年間生活するから、健康管理をするっていう意味でも食事はちゃんと摂りたいですし。あとは食事が唯一の娯楽みたいなところもあるから、ちゃんと美味しいものを食べさせてあげようみたいな発想らしいです。プロの料理人の方が選ばれて来てくれるんです。

南極観測隊でのある日の夕食

Y 宇宙と違って寒いとか単純な体感のキツさはあるでしょうから、宇宙とまた違う過酷はありそうですね。

S 外に出たら確かに寒いんですけど、楽しい基地生活でしたね。基地の中はあったかいんで。

Y また南極でのおもしろ事件とかも聞きたいですね。でも大枠では、白山さんがこれまでどう選択されてきたのかが、しっかりと繋がってるんだなっていうのは理解できた気がしました。

S でも本当に、ここまで繋げて振り返れたからまとまった話になるっていうのもあるんですけど、何というか、最近やっとって感じですね。助教をしていた時とか、私はなんなんだろっていう印象でしかなかったんですけど、ここにきて今までやってきたことと、現在やってることが繋がって良かったなっていう。で、これが今後どうなるかという感じですね。今回の選考基準に年齢制限はなかったんですけど、実際通るのは30代半ばくらいまでかなって気がしていて。私にとってはこれが最後の機会だと思ってるんです。だから、その先もどうするかでまた悩むだろうし、その時その時で選択するしかないんですね。でも、取り敢えず1つの区切りとしてまとまったのが、今年かなっていう気はしています。

(2022年4月23日)

○注釈

※1 極地研究所。
https://ja.wikipedia.org/wiki/国立極地研究所

※2 JAXA:宇宙航空研究開発機構。
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙航空研究開発機構

※3 京都先端科学大学:京都府京都市右京区にある私立大学。
https://www.kuas.ac.jp/

※4 リモートセンシング:物に触れずに調べる技術の総称。様々な種類があり、例えば、人工衛星に専用の測定器(センサ)を載せ、地球を調べる(観測する)ことを衛星リモートセンシングと言ったりする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/リモートセンシング

※5 毛利衛(もうり まもる):日本人初の宇宙飛行士。科学者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/毛利衛

※6 向井千秋:日本人女性初の宇宙飛行士。医学博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/向井千秋

※7 IHI:重工業を主体とした製造会社。https://www.ihi.co.jp/ihi/products/aeroengine_space_defense/aircraft_engines/

※8 NASA:アメリカ航空宇宙局。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ航空宇宙局

※9 土井隆雄:宇宙飛行士。日本人で初めて船外活動を行なった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/土井隆雄

※10 アルテミス計画:アメリカ合衆国政府が出資する有人宇宙飛行(月面着陸)計画。https://ja.wikipedia.org/wiki/アルテミス計画

※11 南極における定常観測の推進:国土地理院では、基準点測量、重力測量、GPS(全地球測位システム)連続観測、写真測量による地形図作成等の定常観測を実施している。観測データは、南極地域における地球環境変動等の研究に活用されるとともに、測地・地理情報に関する国際的活動に貢献している。
気象庁では、昭和基地等でオゾン、日射・放射量、地上、高層等の気象観測を継続して実施している。観測データは気候変動の研究等に用いられるほか、南極のオゾンホールの監視に大きく寄与するなど国際的な施策策定のために有効活用されている。
海上保安庁では、海流、水温等の観測、栄養塩、溶存酸素、重金属等に関する海水の化学分析、海底地形測量を実施している。これらのデータは、南極周極流の変動特性を明らかにし、南極海の海洋構造を把握するために必要であり、地球規模の気候システムの解明に寄与している。また、潮汐観測も実施し、地球温暖化と密接に関連している海面水位変動の監視に寄与している。(出典:国土交通省HP

塚原正也 その1

プロフィール

塚原正也(つかはら せいや)
北海道での農業経験から人生が一変。「百姓とは百の仕事」をモットーに毎年仕事が変わるほど流され続ける人生を歩んでいる山羊研究家→都会で農家→空き地の除草→なぜか建築(多能工)。現場に住んで作業する住み込み作業員。元山羊チーズ職人、人工授精師(山羊)、山羊と山羊乳アレルギー。人生が遺言でラブレター。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティスト https://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




冬木(以下、F) 僕が去年に神戸のアートプロジェクト※1に参加する機会があって、その流れで塚原さんにもお会いしたんですよね。で、西村組の西村さん※2と一緒に…

塚原(以下、T) 僕自身は西村組じゃないって言ってるんですけど(笑)。でも西村組の人たちより僕の方が関係は古いですよ、西村組って名前で呼び出したのは僕だし。最初は本当に少人数だったんですよ。僕と西村さんとドイツ人と、たまにイギリス人。

F ドイツ人とイギリス人(笑)。その西村さんの繋がりから、神戸のバーみたいなところでお会いしたのが最初ですよね。

T あれだって、たまたまアーティストのみなさんが来られた時に、その場でただ飲み続けてただけで。別に呼ばれて行ってないから。

F その時に、塚原さんがヤギ研究家の方で、ヤギアレルギーだっていうその2点だけをすごく覚えていて(笑)。どこから聞いたらいいかなと思うんですけど。


育った環境のこと

F ヤギ研究家になる前は何をされてたんですか?

T そもそも20代ぐらいは、ほんまよくいるクズ。クズニートやった。

F たしか専門学校に行かれてたんですよね?

T そうそう。親のスネかじって生きてるような人間だったから。全然勉強できないし、どこも大学受からなかったんで。浪人までしても、どこの大学も受からなかったです。

F もともと神戸のご出身ですか?

F 出身は西宮なんですよ。僕の大嫌いな西宮、芦屋※3っていうのは、もう二度と行きたくないと思ってます。

山本(以下、Y):割と嫌いなものは多いですよね(笑)。

T やっぱりパワーは強いですよね、嫌悪っていうのは。

F それは、芦屋とかのハイ・ソサエティーな感じが嫌で?

T 当時はそうですね。今は建築関係の仕事をしていて、街づくりの一端をちょっと担ってるから、街のことも考えるし、少し印象も変わりましたけど。もう全然話が飛び飛びで申し訳ないけど…

F 全然大丈夫です。

T 今は食べものとかお店に興味がありすぎて、ローカルの店をめちゃめちゃ食べ歩いてしまうんですよね。それが僕の今の趣味みたいになってて。

F 定期的にインスタのストーリーにあげてますもんね。

T そうですね。アウトプットしておかないと溜まってきて整理できなくなるから、ストーリーに垂れ流すんですよ。そういう感じでローカルの店に行ってると、下町とかがわかるんですよ。文化って下町にものすごく集まるし、人も好きなんですよね。だからそういうのって、僕が生まれ育った西宮の、それも阪急の線路よりも上には何にもなくて。

F 山手の方ですよね。あの辺りで街が分かれていますよね。

T そう。西宮でも阪神電車側だったら下町もまだ残ってるし、似たような雰囲気が味わえるんですけど。

F 本当にエリアで変わりますよね。

T ベッドタウンのエリアというか、夙川とか芦屋川の北側に住んでる人たちは、もともとその地域で暮らしてたっていうよりは、外から移住した人が多かったんですよ。大阪や神戸で仕事をするから、住みやすい西宮を選んで来た人たちで。もとはうちの両親も関西人じゃないんです。明確には気づいてなかったけど、ずっと子供の頃から気持ち悪さみたいなのがあったっていうのは、いま思い返せばありますね。子供の頃は関西が嫌いだったし、関西弁も嫌いやったし、じゃりン子チエ※4も、吉本新喜劇※5も嫌いだったんですよ。家ではそんな関西弁も喋らないし。でも、友達はどんどん芸人の言葉に感化されて、あえて使うようになっていって。で、大阪に行った時に西宮のヤツは、“なんちゃって関西弁”って馬鹿にされたりとか、神戸に行ったら行ったでニセモノ扱いされたり、ちょっとなんていうか、文化的に弱さをすごい抱えるエリアだと思ってて。金持ちは多いですよ。

F 大阪と神戸のあいだの西宮っていう、どっちでもない立ち位置で。

T そうなんですよ、尼崎※6ほどおもろくないし。芦屋も含めて同級生には金持ちも多かったし、やっぱりそういう友達の家に行った時に、ものすごいギャップを感じるじゃないですか。子供1人に1部屋あるとか、「これ食べとき」って言って、お母さんがおやつに宅配ピザ頼んでくれたりとか、ギャップがすごくて。そんなん生まれて初めて食べたわとか思って。ちょっともう規格が違いますよね、夏休みのたびに海外旅行に行くとか。「そんなんウチでは1回も行ったことないし」とか思ってたんですけど、ギャップを知れるからそういう経験は良かったです。でも文化がないから、街に魅力は感じないですよね。だから大阪もそうですけど、長田や兵庫区に来たらやっぱり楽しくなって。そういう意味では、何もなかった西宮で生まれ育ったおかげで、深堀りできるようになったっていうか。

F 環境が今の深掘りに繋がってる。

T 何もないって言ったらあれですけど、西宮って面白いものはないんで中学生ぐらいになると外出するようになって。そうなると三宮の方に来るじゃないですか。地下街の安いご飯屋さんでご飯食べたりとか。そのぐらいの時期からあの辺りにどハマリして、奥の方まで行ってましたね。元町の高架下のエリアが、もともと闇市から始まったところで、今はどんどん追い出されてしまって綺麗にされてますけど、以前はずっと残ってたんですよ。今になってみれば、多分その頃からそういう古いものが好きなんですよね。

F それで、専門学校は?

T 専門学校は六アイ(六甲アイランド)※7しか無理だったんですよ。今はたぶん名前が変わってますけど、どこも行くアテがなかったヤツが辿り着くような芸術系の専門学校です。

Y 誰でも入れるみたいな…

T 親が金持ってたら入れるような専門学校で。だからカメラもできたりとか、服飾もあったのかわからないですけど。

F じゃあ、クリエイティブ系の学科で。

T そうそう。僕もよくわからないまま、ビジュアルデザイン学科みたいなのに入ったんですよ。でもデザインなんか全然興味ないし、結局デザインが本当に理解できなくて1年ぐらいで辞めたんですけど。ほんまに訳わからんかった。デザインってなんやねん、さっぱりわからんって。僕はその、落ちこぼれ学校の中ですら落ちこぼれで。

F 専門学校を出て、その後は?

T フリーターだったり、ニートみたいな感じですね。

F 今みたいに建築の仕事とかもされてたんですか?

T いや、僕はもやしっ子だったんで。学校では、授業聞かずにずっと落書きしてるみたいなタイプの子供だったから。当時は夏でも長袖着るぐらい日焼けが嫌でしたし。

F え!今の塚原さんと真逆ですね。じゃあアルバイトは、例えばコンビニとかですか?

T いや、だからそんなに仕事を選ぶほど体が強くもないわけで。たまたまみたいな感じで、最初は喫茶店から始まり、喫茶店でコーヒーも飲めなかったのにコーヒーを淹れたりとか、サンドイッチを作って出したり。そういうことから始まって、ファミレスでバイトしたり、派遣で色んなところも行ったし。それこそ、力仕事で言ったら引っ越しのバイトは行きましたけどね。でも、非力だから新築のクロスを傷つけてしまったりとかするから嫌で。派遣でスーパーの品出しに行ったりとか、覚えてないぐらい色々やりました。本当にいろんな職を転々として、その頃に長く勤めたのがジョリーパスタ。料理はあんまり作れなかったんですけど、多少なりとも鍋が振るえたりとか、そういうことを覚えさせてもらったのがジョリーパスタで。なんで行ったかっていうと、その当時、音楽が好きで色々バンドとかもやってたんですけど、特に好きだったのがプログレ※8やったんですよ。プログレの中でもイタリアンプログレっていうジャンルがあって、それにハマってたからちょっとイタリアに興味があって。もっとちゃんとしたところで働けばいいのに、家から近いっていう理由でジョリーパスタ(笑)。イタリアンレストランやから一応イタリアの曲でもかかってんちゃうかなと行ったら、全然普通に洋楽ポップスみたいなのがかかってて。だから何もその、主体的な意志はないわけですよ。流されてやってただけです。


F 少し、プライベートな質問になってしまいますけど、ご兄弟は?

T 3人兄弟です。男ばっかりで、僕が長男。親とは縁切れてるんです。

F 伺っていいなら、いつからですか。

T この10年以内っていうか、30歳以降ですね。昔から全然合わなかった。

F 両方ですか?

T 父親は、もうわかりやすく怖い。でも社会的には色々な仕事ができる、運動できる、背が高いみたいな僕とは全然違う人で。子供の頃から「鈍くさい」とか、「なんでこんなことができへんのや」って言われて、どつかれて育ってるから。でもやっぱりできないものは、できないですよね。

F なんというか、小学校のときにそういう友達っていました。知ってる感覚があります。近所に住んでた友達が運動会の前に、お父さんに怒られながら走る練習をさせられてたのを覚えてます。

T 親自身が半ばできるから、「俺の子供ができないわけがない」みたいに思って、頑張るんですよ。親とキャッチボールをした経験とか大体みんなあると思いますけど、僕はめちゃくちゃ緊張してて。苦痛の時間でしかなくて、機嫌を損ねないように楽しんでるフリをしなきゃいけないみたいな感じ。そのぐらいの時期から、山とか茂みに入って虫捕まえたりそういう大人しい遊びの方が好きで。球技とかは反射神経が鈍くてダメでした。それでも3人兄弟の長男で、1番しっかりしなきゃいけない。しかもうちの親父は、「家を継いでいかなあかん」っていう時代劇みたいな発想のヤツで。「塚原を誰が守ると思ってるんや、お前やぞ」とか言って、家柄を出してくる。

F 兄弟構成は、塚原さん、真ん中の弟さん、下の弟さん。

Y たしか真ん中の弟さんの音楽の話を、前にされてましたよね。

T そうそう、弟は子供の頃から音感がよかったんですね。でも僕はずっと音痴だったんで、音程がわからなかったんです。これがド、これがレ、みたいなのが全然わからない。全鍵盤に「ドレミファソラシド」って書いてたくらいわからなくて。でも、それでも鍵盤ハーモニカすら弾けるようにならなかったんです。リコーダーなんて、とてもじゃないくらい不器用でした。それぐらい音楽の才能なくて。逆に弟は音感がすごいから、聞いただけでスラスラって歌えた。で、僕がちょっとゲーム音楽とかを口ずさんでたら、「違うで」とか言ってキーを変えられたりするんですよ、正しいキーに直されたりして。才能なんですかね。弟は小学校からボーイソプラノみたいなのに入っていて、歌うことも好きだったし音楽が好きだった。それくらい差がありました。

F すみません、実際に親と子の縁が切れる時って、どういう風にして切れるんですか。聞いても大丈夫ですか?

T 大丈夫です。やっぱり親が100パーセント悪い場合もあると思うけど、うちの場合は結局お互いが良くなかったんだと思います。僕は僕で甘えていたところもあったし。例えば、子供がお金を借りて返さないとかは、各家庭であると思うんです。それは良くないことだけど本当の問題じゃなくて、やっぱりソリが合わなかったっていうのが1番の問題だったと思います。ボコボコに殴った後に、「今回だけな」みたいな感じで金を貸してくれるところがあったんです。この飴とムチですよね、もうムチが8に飴が2くらいな感じなんですけど。そういう関係がよくないのは、こっちも飴が出てくるのを予測し始める。だからもうボロカスに怒られてて気狂いそうやけど、耐えてたら家には置いてくれてご飯も食べさせてくれるし、そういうのが子供の頃から身についてしまうんですよね。それでもソリさえ合えば仲良くやっていけると思うんですけど、相手が自分の望む通りになった時だけにニコっとできるような関係って結局良くないんですよね。人間として認めてないというか、何やっても気にくわないわけです。父からすると、僕が何しようが自分が望んでないことをやってる。ずっとそうやって、子供の頃からそういう目線を受けて育ってるから。それってこっちもしんどいし、向こうからしたらいない方がいいと思うんですよ。たまに家に帰ってきたと思ったら、お金の無心だったり。で、ボロカスに口喧嘩して殴られたりとか大事になるのに、何もなかったかのようにとまではいかないけど、結局一緒に飯を食ってるとか、気持ち悪すぎるじゃないですか。あと、親父はアル中だったからそれもあります。深刻な家庭環境ではないですよ。ほんとの虐待みたいな、もっと大変な家も知ってるし。土下座してるのに頭踏まれたりしましたけど、僕は僕で色々やらかしてる部分もあるし。納屋を燃やしてしまったりとか。だけど、本当のヤンキーの家とかヤクザの家みたいな荒れ方はしてないし。

F 話を聞いていて、昔のことを色々思い出してました。小学校の高学年と中学年の二人兄弟だけでアパートに住んでるやつとかいましたね。突然、親が帰ってこなくなった家もあったり。あと、友達のお父さんが金借りにくるみたいなのもありましたよ。僕も大阪市内の南側で育ってるんですけど、小学校の時は色んな家庭がありましたね。

T 僕の周囲は、土地柄そういうのは少なかったんですけどね。阪急の線路沿いに住んでたんですよ。だから西宮に住んでるってイキってるけど、結局電車の騒音と毎日暮らしてるから、そんなにいいところじゃないんですよ(笑)。だけどちょっと北側に行くと、どこそこの大会社の社長が家を買ってたりとかする。ただその線路の南側は割と庶民のエリアで、当時は今で言うJRの団地があって。で、やっぱり線路の北側の人と南側の人で感覚が違うんですよ。線路より南の方が協調性があって、みんなで野球やるとか。

Y コミュニティがちゃんとできてる感じなんですね。

T そういうのがしっかりしていて、でも僕はそこに入りきれない感じだった。ファミコンばっかしてるとか、そういうはぐれてるやつが線路より北側には多かった感じがします。でも線路の南側では、ちょっとさすがになっていう文化住宅があって、そういうところに住んでる子はやっぱり貧しかったと思います。僕も家でお菓子がないってことはさすがになくて、ふんだんに与えてもらってる側ではありました。でも、ある友達の家に行ったらファミコンも何もなくて、かといって球技をするわけでもなくて。「飛び降りっこしようぜ」って言われて、文化住宅の2階から1階に飛び降りるみたいな、血まみれの遊びを始めて。で、僕も何回か飛び降りたんですけど、さすがにもう無理ってなって、「ちょっといいわ」って言ってたら、2階の玄関のあたりに座らされて、「じゃあちょっとこれ、食べといて」って、パッと渡されたのが白砂糖だったんですよ。もうお菓子もないんだなと思って。黒糖の塊をかじることはあったけど、さすがに白砂糖をお菓子だと思ったことはなかったんで。

F 本当に服がないから、一年中半袖短パンのやつとかいましたよね。

T 軒並みやばい家ばっかりではなくて、一部にはそういう貧乏な人もいるくらいの環境だったんで、気づくのは遅かったです。大人になってから聞いた友達の親の話を早くに聞いてたら、もうちょっと自分の家を憎んだりしなかったかな、とは少し思ったりします。仲のいい友人とか、小学校から働かされてたんですよ。僕よりちょっと年上ですけど、父親の顔は見たことなくて、母親は子供の頃からスナックみたいなのをされてて。で、働きに行かされてバイトでお金もらってきたら、そのお金を親に渡さないといけなかったらしくて。結構えげつない(笑)。

Y すごい。小学校から。

T そういう人もいるから、特別にうちの家がめちゃくちゃ悪いとは決して思わないです。子供にやったら良くないだろうなってことは、してましたけど。父親だけが全ての原因じゃなくて、おかんは基本優しいんですよ。でも、父親を止められないから。

Y お父さんが絶対制みたいなことですか。

T そうそう。だから、父親から子供を守るためには、母親が自立する手も本当はあったと思います。僕ら兄弟のせいで、いつも母親が怒られるっていうのもありましたけど、でも母は結局父親から僕らを守らなかったし、優しいからそれでもいいかと思ってたけど、やっぱりそうじゃない。だから結局どこかで冷めてしまった。父親にボコボコにされるように、母親には過度に甘えれるから、なんか気持ち悪い関係がずっと続くんですよ、そうやって。ただ塩がキツすぎたから離れたっていうだけじゃなくて、砂糖もキツすぎたから嫌やった。

F なんというか、お母さんはご自身では何も決められなかったりしたんですか?

T 母親は僕と似てると思うんですよ。人の意見に左右されがちで、流されやすいところはありました。自分のこだわりや好きなものもあっただろうけど、親父があんまりいい顔しないから、そういうものはもう足を向けなくなったというか。父親よりは母親の方が、サブカルチャーとか文化的なものもある程度は嗜んでて、父親はもう潔癖のような感じで、若者のチャラチャラしたやつとか全部嫌いみたいな。潔癖の極地ってナチスみたいになるじゃないですか。あれはあかん、これはあかん、俺らが最強、みたいになるじゃないですか。ナチス関連の映像とかを見てたら、うちの父親みたいやなって思ってしまう。

F 否定形で言いますよね。「何々でなければならない」とか。

T そうなんですよ。そうやって断言されたら、こっちはもう何もできなくて、おまけにクズって言われ続けたら、自分がクズやと思ってるから、クズにしかなれないんだと思ってしまうし。でも、親も自分は才能あったから、自分自身はできるから、うちの子も絶対才能があるはずだと思いたいんだと思います。それで僕にそんなことを吹き込んで、「お前はやればできるヤツだ」みたいな感じのことは言うんですよ。でも、それでできた試しがない。

Y お父さん自身の、自分のできることの領域ですよね。例えばスペシャリティが他にあったとしても、お父さんからしたら見えない。

T 見えないし、興味がないし、なんなら醜いと思ってたと思います。だから、今でも僕が大好きなものの大半は、多分父親は嫌いだと思ってる。それぐらいソリが合わなかったら、金を借りた借りてないかとか、殴った殴ってないとかそんなレベルじゃなくて、もういない方がいいんですよ。たまたま社会の枠組みで親は大事にしなきゃいけないし、家族だから一緒にいるべきみたいな変な圧力があるだけで、それを全部取っ払ったら自然と離れていきますよ。磁石のくっつかない方をセロハンテープで止めてるような状態だったんで、剥がしてやったらそれは自然になる。だからもう切れてよかったですよ。

F 前から話を聞いてると、山本さんは父と母の愛に育まれた息子ですよね。

Y かなりそうです。だから今のような話は初めて聞きました。僕はもう塚原さんが言ってたような家庭とは逆で。父親は土木関係のサラリーマンで、母親は学校の先生。あ、姉もいます。でも小学校で不登校だった時期があったんですよ。思い出せば別にそんな大それた話でもなく、クラスの40人が同じ方向を向いて、何時間も同じことをしてることがしんどくなって、親に「お腹痛い」って言い出した。で、1回休んだら休めるんだっていうのから継続して休むようになって、気づいたら1年間行ってなかった。結局2年間行けなかったんですけど、親がめっちゃ心配してくれてたとは思います、本当に。けれど、たしか父親かな、母親かどっちかが言ってくれたのが、「多分他の子より頭いいんよ」って言って許してくれてた。で、その後は普通に「1人は暇やな」って言ってまた学校に行き出したから、多分安心したでしょうし。単純に親が信用してくれてた感じでしたね。

T それはもう大きな違いですね。僕は何をやっててもずっと「本当か?」っていう、疑われてるような感覚で見られてるような、その目線を忘れられないんですよ。トラウマですよね、そこまでいくと。だけどそのぶん本来なら親のためにしてあげなきゃいけないことも将来あっただろうに、全部放棄できましたから。例えば、老後の世話をする気もなければ、もう関わりもないし、存在も感じたくないから。なるべく、もう考えないようにしてます。だからこんなことやってるけど、もし自分に子供ができたりとかしたら、ウチの親と全然正反対のことをしてあげたいと思ってます。してあげたいというか、やっぱり仲良くしたいですよ。


仕事の話、その1

Y 最初に親がいて世界を知っていく状態がある中で、その環境だと親の言うことが当たり前になってしまうところがあって。逃れようにもどう逃れていいか分からないというか。

T そうなんですよね。自立させるために、厳しく躾けてるつもりだったのが、翼をもいでしまったら子供が自立できなくなるからね。だから、もうちょっと方法はあったと思うんですけどね。僕がたまたま出来が悪かったのも、父親としては多分ガッカリだったんだと思います。

Y それは父親からしたら出来が悪かっただけで、他の人からしたら塚原さんすごいと僕は思いますよ。それは別の話だから。

T 父親の問題よりも一番でかいのは自分自身で、弟ですらもう少しちゃんとやってるのに、僕はいつまでもお金にルーズで。すぐにお金なくなって、貸してもらうことになってたりとかしたんで。

F 塚原さんはいま何にお金使われるんですか?。

T 今はもう、100%飲食店で溶かしてますね(笑)。エンゲル係数100%みたいになってます。昔は全然音楽には興味なかったのに、何かのきっかけで沢田研二※9にハマって。沢田研二なんて、リアルタイムのミュージシャンじゃなかったですけど、20歳ぐらいの時に、急に歌謡曲を聴き始めて。

F ソロになった後の沢田研二?

T そうです。タイガース※10も一応聴きますけど、タイガースっていうより、

F GS※11ってわけじゃなくって、ジュリー※12。

T ジュリーから先に入ってって、その後にGSにいって。小学校の時に生まれて初めて買ってもらった音源ってあるじゃないですか。覚えてる人もいれば、いない人もいるかもしれないですけど、僕は「北島三郎ベスト」※13やったんですよ。

F ええ(笑)。

T ウォークマン※14を買ってもらってたんですよ。で、一緒にカセットテープも買ってもらえるってことで。

F いくつだったんですか?

T 小学校の、、

F 早いですね(笑)。

T 歌は歌えなかったけど、演歌は好きだったんですよ。「与作」※15が入ってることが一番のポイントだったんですけど、そのベストを買ってもらって。歌謡曲は嫌いじゃなかったんです。田舎に帰ったら、おじいちゃんが除夜の鐘をつかなあかんって、毎年除夜の鐘をついてたんですよ。で、だいたいその時に紅白歌合戦※16がかかってるじゃないですか。その待機時間に紅白歌合戦を見て、終わったら除夜の鐘をつくみたいな感じだった。大体こたつで演歌を聴いてるみたいなのが習慣でした。

F なるほど。確かに、11時40分ぐらいに紅白は一回ストップして「ゆく年くる年」※17で鳴らしますもんね。

T そうですね。僕も子供であんまり夜遅くまで起きたことないけど、除夜の鐘の日は頑張って起きて、なぜかカウントしてました。子供に、「正」の字で、何回とか着けさせてるから、絶対108回じゃないと思うんです(笑)。間違えてると思うんですよ。こんな注意欠陥人間が正しく数を数えられるわけない。

F もう、ジョリーパスタのバイトの後からすごい脱線で…(笑)

T (笑)。ジョリパのバイトの後も色々な職を転々として。ゴミ屋さんで働いてたこともあって。

F ゴミ収集業みたいなのですか?

T そうそう、ゴミ収集車。その当時は、被差別部落※18の人とかが結構多く働いてたんです。たしか芦屋の地域のゴミ収集をやってて。で、仕事はめっちゃ面白いんですよ。臭いとか汚いとか危ないとかありますけど、基本全力ダッシュでとにかくゴミ袋を叩き込んで、片付けたらサッて乗って、みたいな仕事です。ゴミ収集車の後ろに乗るっていうのが、子供の頃の夢のひとつだったんです。でも、条例でそれは公道では無理だったんですよ。

F 急にめちゃくちゃフィジカルな仕事で。

T そうそう。それで、自分は肉体労働が好きかもしれないって思ったんですよ。それまでは虚弱体質で、誰にも腕相撲で勝ったことはないし、17歳になるまでずっと喘息と鼻炎持ちで治ったこともなかったんですよ。だから体育の授業でも、全力で走れるわけないですし。登校中に息苦しすぎて動けなくなるぐらい喘息がひどかったんですよ。これまでずっと虚弱体質だったから、そんなフィジカルで楽しいと思うことがあるとは、自分で思ってなかったんですけど、ゴミ屋はめっちゃ楽しかったです。パッカー車※19に乗るのは距離が離れてる時だけで、ゴミは点々とあるから、ずっと基本ダッシュ。

F 見てたらそうですよね。大変そう。

T 業者にもよると思いますけど、僕がいたところはメチャクチャ瞬発的にやって、早く終わらせて、早く昼休みしたいっていうタイプの会社だったから、もうとにかく走らされて。

Y すごい。シャトルランみたいじゃないですか(笑)。

T ただ、ゴミ業界全般が割となんですけど、同僚の人たちにも被差別部落出身の人が結構多いコミュニティで、そういう部落の人はたいしてガラが悪い人はいなくて、部落出身じゃないヤツがめっちゃガラ悪かったんですよ。多分、組に入ったけど、組で無理だったからそこに働きに来てるヤツとかもいて。そういうちょっと厄介なヤツも混じってたんです。だから、僕は組んでたパッカー車の運転手にいつも殴られてました。

Y え、殴られる?

T 夏でも長袖のやつに。

Y あー、なるほど。

T だから、その人が嫌で。「社員にならへんか?」って言われたんですよ。まあ走るのも好きだったし、どんだけコキ使われても楽しんでやってて。まわりの人は、みんなどっちかっていうとヤンキー寄りの人ばっかりだから、自分とは全然違うのに、ウチで働かないかって言ってくれて、まあちょっと嬉しかったけど、「アイツおるから無理です」って。毎日殴ってくるから。だから本当にそこで思ったのは、面白い仕事もあるんだとは思ったけど、やっぱり仕事って結局たった一人嫌なヤツがいるだけで、駄目なんだなと思って。その後はまたしばらく休職期間みたいな、失業保険で食ってる時期があって。その期間に、自宅の前の公園のもともとやってたキノコ採集をずっとしてたんです。

F 湿気とか、木が多い公園ってことですか?

T そうそう。池もあるし。

F じゃあだいぶ大きい。

T そうなんですよ。住宅地だったのに、住んでいたあたりだけなぜか4分の3ぐらい森で、立入禁止の枠に囲まれてて。個人所有の土地だったんですよ。

F あ、私有地。

T そうです、低い山みたいな地形で。そこはめっちゃ僕の財産だったんですよね。そこの一角に公園が付いてるから、ほぼ森みたいな公園なんですよ。池も付いてるし。西宮の住宅地の中では、そこで遊べたのはめっちゃラッキーだったと思います。今はもう再開発で全部なくなってますけどね。植栽で公園をつくる時に人工的に植えられた植物にも、それぞれやっぱり良いキノコがあるんですよ。それが面白い。

F いつから気づき始めたんですか?

T 子供の頃からですね。もう昔から見てたっていうのがあります。

F 自然の山に生えるキノコと、後から植えられた植栽のキノコは何か違う、みたいな?

T それもあるし、逆に人工的なフィールドの方が偏ったキノコしか生えないから、毎年この種類がこの場所に生えるっていうのがわかるんですよ。

F 成程。自然よりは、ある程度整えられてる方が。

T 条件が限られてるからですね。森の中は豊かなんで色んなものが入り混じって、生き物もいっぱい通るし。だからカオスなことが起きたりするんです。勉強とかは全然できないし、努力もできないタイプで勉強したことないんですよ。算数も英語も、全部0点みたいな感じだったのに、生き物とかが好きすぎて、授業聞くだけで生物は100点取れるタイプだったんですよ。

F すごい。

T 子供の頃の動物とか恐竜とか、ああいうのから始まっていろんな生物が好きになって、キノコにハマって、暇になったから前から好きだったキノコの本をしばらく読んでたら、近くにも生えてるのに段々気づき始めて。それで山に行ったりとか、家の前の公園でも継続してキノコ採りをやるようになって。食べれるのは分かってても、別にそんなに食べたいと思わなかったんですよ。当時はそんなに好きな食べ物ではなかった。だから、全部乾燥させて、標本にして保管する感じでやってました。

F 乾燥させたらそのまま標本にできるんですか?なにか、処理とかは必要ないんですか?

T もちろん、虫が来るんで乾燥剤入れるとか、別にそれはタンスにゴンみたいなのでもいいんですけど。そこまで考えて、虫に食われないようにするんだったら、殺虫剤として樟脳みたいなのを入れます。本当のちゃんとした人がやってる標本は、多分そんなものは使ってないと思います。別のものを使ってると思いますけど、僕はとりあえず乾燥剤入れるぐらいでやってました。そんなにカッチリと誰かから習ったわけでもないから、正しいやり方も知らなかったし。それで、ある時に植物園に「キノコクラブ」っていうクラブがあることに気づいて。で、そのキノコクラブに行ったら、学者さんの先生や大学の先生とかも来て、ちょっと講義をしてくれたり、一緒に山に行ったりできたから、一時期行ってました。それで、キノコのことが段々と詳しくなって面白くなってきて。キノコから段々とキノコ以外の変な別の菌の動物っていうか、生物がいるんですよ。変形菌っていう、熊楠※20とかがやってた粘菌とかに興味を持って。そういうのを調べているうちに、あれよあれよという間に、目に見えないサイズのものに興味が移ってきて。やっぱり微生物は面白いし、しかも人間の役に立つかたちで利用できるっていうのは面白いなと思って、発酵食品に目覚めてくるんですよ。納豆とかキムチとか。それで発酵食品が好きすぎて、味噌屋に就職したんです。

F それはいくつの時ですか?

T 20代半ばぐらいじゃないですか。

F それも神戸市内とか西宮のあたりで?

T そうそう、近所です。そこは工場だったんですけど、仕込みから全部やってました。生まれて初めてスコップを使ったんですけど、それが麹室(こうじむろ)※21でした。要はお米を蒸かした後に、種麹の菌を混ぜてあの温かいところ、室(むろ)で寝かせて。そしたらもう、菌糸が走ってガチガチになるんですよ。

F 硬さ的にガチガチになる?

T そうです。最初はパラパラじゃないですか。それがくっつくんですよ、全部が。で、それを切り崩さないといけないので、スコップを使って切り崩して、下へ落として。で、機械でバラバラにしてから、今度はもっと大きいところにそれを広げるっていう作業があるんですけど。

F どんどん菌を増やす作業ってことですか?

T 発酵させて菌が固まった時点でとりあえずはOKですけど、その後に味噌で使うには一回バラバラにします。乾燥とまではいかないけど、パラッとさせないとダメなんですよね。それで一回広げる必要があるんですけど、めちゃくちゃハードな仕事だったんですよ。

Y 体力的に。

T そうそう。僕、全然体力に自信なかったんですよ。それで、作業場所が室(むろ)やから、サウナみたいな温度なんですよね。めっちゃ暑いんですよ、湿度もすごいし。

F ゴミ収集車よりきついってことですか?

T そうです。汗の量で言ったら、そっちの方が。

Y ええ!

T その室の作業が終わった後は、いつもパンツまでビチャビチャになるから、着替えを持って行ってましたね。最初の数日はもう、本当にキツくて。狭いんですよ、しかも。中腰でずっと作業しないとダメだから、腰も苦しい。工場の二階建ての、二階部分で作業をやってるんですよね。二階部分を更に上下2つに割って、上のところに最初の室があって、重力を利用してそこから下の室に落下させるんです。

F じゃあ、もう1メートル50センチとかの高さで作業してる。

T しかもそこの会長が、めっちゃ小さい人だったんですよ。

F (笑)

T 会長が自分に合わせて設計してるから、もうめちゃくちゃ狭くて。なんていうか、昭和初期のオッちゃんとか小さかったじゃないですか。あんな感じのカリカリの明治生まれのオッちゃんだから、すっごい狭いんですよ。僕より背が高い人もいっぱいいたから、みんな大変そうでしたよ。

F 常に低くなりながらの作業で。

T そうそう。かき出して落として、最後にそこで蒸し煮みたいな感じで豆を炊く工程があるんですけど、それと混ぜて一階の樽の上に落とすんですよね。上から効率的にやっていく感じですね。

F そうやって作ってるんですね。

T 樽の場所によっては、下で受けたやつを手押し車で何回も運ばないといけないところがあったり、味噌もスコップ使って運んだり。また味噌が水分を含んでネトっとしてるから、重い。

F 粘土みたいなもんですよね(笑)。

T その後に、北海道で農家をやってた時期もあって、その頃も土をスコップで掘ったりしてたけど、遥かにあれよりしんどい。味噌の方が重いし、粘るし。

F 味噌屋さんに就職して。で、そこで働いたのは何年くらいですか?

T 何年間か働いてたんですけど、結局結婚することになって。なんていうんですか、僕がだいぶ精神的に落ち込んだ時期があって。その、20代ってまだ自分が何かができるかもしれないと思って生きてたんですよ。バンド活動をしたりとか、その前はフリーペーパーを作ってたんです。

F 一旦整理すると、ゴミ収集業とかお味噌屋さんで仕事しながらも、バンドをやったりとか、フリーペーパー、カルチャー誌のようなものを作ってたと。

T そうですね。デザインがわからなくて専門学校で挫折してるんですけど、やっぱりどこかでアウトプットしたいというのもあって、フリーペーパーを作って置いてもらったりとかしてた流れで、結局バンドを始めて。全然練習しないんですけど、しばらくダラダラとやってて。でも分かりやすいことも何もしてなかったから、結局そんなに売れるわけないじゃないですか。それで、何もかも挫折感みたいなのしかなくて。

F じゃあ、後に結婚される彼女さんとはそこで知り合った?

T いや、多分どっかのバイトで知り合ったみたいな感じだったんですけど、その人と付き合って。でも、20代は本当にクズみたいな感じでバンドをやってるから、女の子ってこっちに寄ってくる。要は、こっちは罠を仕掛けてかかるのを待つ、みたいなことで済んでた。でもそれだと、一番獲りたい獲物は獲れないんですよ。

F あー(笑)。

T だから、本当に大好きな人を見つけてその人を口説きに行かないことには、っていうことですよね。そういう時は、鉄砲を持って直接バンといかないと。でもそうじゃない、まあ来てくれる人だったらいいかなっていう感覚。ひねくれてるんですけど、バンドやってる限りはそういう人が誰かいるんですよね。

F はい。

T 正式に付き合うのとかも気持ち悪いと思ってたから、ものすごくズルズルしてたんですよ。正式に付き合ってないから、色んな女の子と仲良くしたりする。でも、女の子が僕のこと好きになってくれたりすると、ちゃんと正式に付き合ってよ、みたいなことを言われたりするじゃないですか。

F ありますね。

T こっちともこういう関係で、あっちともそういう関係みたいな、その取り合わせができなくて。要は向いてなかったんですよ。

F それは塚原さんが悪いですよ(笑)。

T そうですけど、君だけだよとか、君が彼女だよみたいなことは一切誰にも言ってないんですよ。だけど、そういうフリーダムな生き方もできないのか、と思って。色々それで挫折したんですよ。

Y そこは俺はちょっと、怒る(笑)。

F モテへんから。

Y そう、モテへんから。そんなモテたことないです。

T いや、バンドやったらモテますって。

Y ドラムやん、どう考えても俺ドラムやん。

T まあバンドじゃなくても、なんかそういうの、あるじゃないですか、今でも。

Y ユーチューバーみたいな。

T ユーチューバーだけじゃなくて、ちょっとみんなの目の行くところに自分を置けば売れるんですよ、それなりに。だってバンドをやってたら、メンバーに一人だけおじさんがいるバンドとかがあって、そのオッちゃんは全然喋らないし一番地味なドラムをやってるんですけど、めっちゃかわいい女子高生と付き合ってたりしてましたからね。

Y バンドか(笑)…。

T まあ、バンドじゃなくてヒップホップとかでもいいと思うんですよ。トラックメーカーでも何でもいいんですよ。とにかくライブができるとか、配信とかでもいいんですけど、なんか人間って変なスイッチが入るんですよ。ウィンドウショッピングしてたら欲しくなるみたいな感じで、自分からそういう人を探し求めるっていうよりは、たまたま目に入ったものをどうしても欲しくなる、みたいなのがあるんですよ。

Y さっき言ってたお話だと、複数の人との関係が同時並行で起きてる感じがして。そのへんがどうなってるんだろうと。

T まあよくある、クズバンドマンって感じです。しかも度胸があれば好きな女の子を口説いたりとかできたはずなのに、そういうのはできなかった。

F じゃあさっき言ってた、向こうから来てくれるような子で。

T まあ、知り合うことでこっちが「ちょっと遊びにおいでよ」みたいな感じで誘ったりできるじゃないですか。そういうのから、ズルズルみたいな。だから結婚したんですけど、正式に付き合うのも嫌で、結婚するのも嫌だったんですよ。社会の枠組みに決められた謎の関係みたいなものに「はぁ?」って思ってたんですけど。当時ちょうど僕がどん底で、自分のバンドもレコーディングしてる途中に僕が飛ぶ感じで潰してしまって、誰にも連絡を取ってない状態になった時があった。でも、その子はまだ付き合ってくれてて。で、彼女が「引っ越したい」と。オーストラリアか、北海道か、別れるかっていう選択肢を言われて。

F オーストラリア?

T オーストラリア。か、北海道か、別れるかって言われて。その子に本気で惚れてるとかじゃなかったんですけど、単純に一人になるのが寂しくて。すがるような気持ちで別れたくなかったんだと思うんですけど、結局北海道を選んで。

〈バンドマン時代〉



仕事の話、その2(北海道農家編)

T 英語も喋れないし、オーストラリアに連れてかれても何もできないなって。いま思えば、それ以降にお前の人生で海外で暮らすタイミングなんか二度と現れないから行っとけよ、って思うんですけど。それで、その人と結婚して北海道に行った。彼女との関係には、なんかそういう勢いがあったんですよ。別に自分の意志で行ったわけじゃなくて、ついて行っただけですけど。で、結婚した時だけ一瞬丸く収まるんですよ。

F それは、精神的なことが?

T いや、僕が幸せとかじゃなくて周りがですね。今まで僕のことを汚いものを見るような目で見てた人達が、結婚した瞬間にちゃんとした良い人みたいに見てくれる。親とも一瞬仲良くなるんですよ。

Y 認められることとかになるんですかね?

T そういうのもあるんですけど、怖いなと思うのが、結局親がそうするのって僕がどうとかじゃなくて自分達のためだから。かたちだけ両親に報告して、お互いの両親を会わせてとか、そういう気持ち悪いことを必死で耐えながらやって、北海道に行って。結婚が上手くいってるあいだは、無機質ではあるけど、それまでのことが嘘のように父親と母親との関係も良好になるっていう。僕の人生にも一瞬そういう時期がありました。でもそれは僕を認めてくれてるんじゃなくて、結婚してる僕らのかたちを認めてて、むしろ奥さんがいなかったらもとの僕に戻るから意味がないんですよ。親のそういう手のひらを返す感じとかも気持ち悪いな、と思ってましたけど、まあその時は平和だった。

F なぜ北海道だったんですか?

T オーストラリアも北海道も、奥さん───後に別れるんですけど───が留学してたからですね。大学が北海道で、オーストラリアは留学先だったから。僕とは全然性質の違う人と結婚してしまったんです。もう真逆なんですよ。すごい自分の好きなものははっきりバッって言って、それしか見ないような。僕はそれまでマニアックな映画が好きで、借りてよく見てたんですけど、一切そういうものは見れないんですね。災害パニックものしか一緒に見れない。竜巻が来たりするような映画を好んで見る人だったから。それだけ全然性質が違うけど、僕はもうついていくみたいな感じで。要は自我が潰れきってた。自分に自信がなくなって、今まで好きだった本とかそういうものも一切手放して北海道に行ったんです。あの時に、「引っ越すから全部売ってね」って言われた。処分してって言われたレコードとか漫画とか、今はめっちゃ後悔してますよ!あれはとっとけばよかった…。

Y 「売ってね」、なんですね。

T そこに関しては冷たかったですね。自分がそういうものは分からないし…コレクションとかをしてないから。僕は4畳半全部が本棚で、寝るところ以外びっしり何もかも全部モノ、みたいな環境で生きてたんで。

Y 奥さんの方も、奥さんなりに変わって新しく始めようという感じはなかったんですか?

T 僕に比べたらめちゃくちゃコミュニケーションもできる人で、職場では誰にでも可愛がってもらえるタイプだったんで、一見明るい子なんですけど、彼女もそれなりに闇を抱えてて。人とめっちゃ仲良くしてると思ってたら、その関係をグチってたりとかする子やったんですね。結構ダークな部分を持ってて、「もうこんな街見たくない」っていう部分もあったんだと思います。

Y 向こうは向こうであった?

T 向こうは向こうであって、一緒についていった。それがなかったら今の僕が存在していないと思うくらい良い経験だったんですよ。そこで自分の人生がだいぶ変わったっていうか。結果的に離婚はしたけど、奥さんから教わったことの多さはあります。結婚して北海道に行ってから、年間で2日くらいしか一緒にいない日はないくらい、職場も同じだからずっと一緒だったんです。

F 職場は?

T 僕は田舎暮らしとか農業に憧れてるヤツってダサいと思ってたんですよ。だからその時も全然いいと思ってなくて、憧れも楽しそうというのもなかった。でも、北海道行ったら林業は衰退してて。山は好きだったんですけど、それはダメで。で、漁業は濡れるから寒そうだと思って。それで結局、農業しかなかった。

F  第一次産業から選ぼうとはしてたんですね(笑)。

T それは、奥さんの要望もあったんだと思います。農地だから大自然ではないですけど、奥さんは僕みたいにひねくれてないから、北海道で農業をやるみたいなのに憧れてたみたいで。それまでは、味噌屋やゴミ屋とかって多少は変わった仕事だったけど、僕は20代はモヤシみたいな感じだったんです。土を触ったりを率先してやりたいと思ってなかった。だけど全然毛色の違う仕事になったのが、自分の人生においてはすごく良かったなあと。それまでは、それこそ夏も長袖を着て日焼けもしたくなかったんです。


F 農業って、いざ始めようと思っていきなり自分でやれるものではないですよね?

T じゃないです。北海道って後継者に困ってる農家さん、零細農家さんが結構いて。後継者候補っていうのがあるんですよ。

Y それは行政とか募集してて?

T そうです。道庁が、そういうベテランの農業について詳しいおっちゃんみたいな人を窓口にして、大阪とかで相談会みたいなのを定期的にやってて。それに行った時に───後から考えたら、ああ…って感じなんですけど───「君たち素晴らしい夫婦だね!君たちならできるよ!」みたいな感じで迎えられて。おっちゃんに気に入ってもらって、一発オッケーみたいな感じだったんです。で、面接もなくいきなり決まって、会ったこともない農家さんのところに放り込まれたんですよ。

F じゃあそこで後継者育成みたいな。

T そんなスクール的なものは全くなく、農業の予備知識も一切なくいきなり連れてかれて。実際に現地に行って、一応自治体や行政の人たちもそれに噛んでるから、古いボロボロの家とかに安く住ませてくれるわけですよ。最初に住んだ家は、大昔の公営住宅みたいなところで。全部で5部屋ぐらいあって、月5000円で住めたんですけど、ほんとに一緒に来てた行政の人も顔をしかめるような家やったんですよ。長年管理してないから開けてなくて、壁が臭かったり汚いところも色々あったし。で、ストーブっているじゃないですか、北海道は。

F そこはもちろん。

T ついてるんかなと思ったらなかったんですよ。

F 死にますよね(笑)。

T そうね(笑)、雪もまだ残ってるぐらいの時期に行ったから。それで当日に7万円ぐらい出して、北海道仕様のでかいストーブを買わないといけなくて。えー…てなった上に、人でも殺したんかっていうくらいにお風呂が汚くて。家が廃屋みたいなところで、いきなり風呂を開けたらボロボロで、さすがに女の子だから僕よりも奥さんの方がめっちゃヘコんでて。北海道の行政の人も、自分がそういうところを斡旋されて、住みたいと思うかどうかっていう単純な感覚が欠落してて、全然何もしてくれてなかったんです。もう行ってしまってるし、そこから「こんなのおかしいですから別のところを用意してください」とも言えないし。それで、お風呂だけは入りたいし車で近くにある温泉に行ったら、終了時間には間に合ってるのに、もう終わりだからって言われて(笑)、入れてもらえなくて。初日めっちゃショックで、奥さんは黙り込むぐらいだった。それぐらい適当なんですよ、行政って。

Y いきなり大変な…。

T で、翌日来られた農家さんがめっちゃ怖そうなおっちゃんで。ご夫婦で畑をやってる、その方たちと一緒に仕事し始めてたんです。それで、そこからは結構楽しかったんです。お父さんも怖かったけど、乱暴に扱われるようなことはなかったんで。単純に初めてやることがめちゃくちゃ楽しくて、農業なんてやったことなかったし、面白いなって思いました。その時はめちゃくちゃモチベーション高かったんですよ。だから、変な関係ではあったけど楽しめて、お父さんも結構クセ強かったけど、割と仲良くやってました。いま思えば、研修中は給料半分とか、なんか色々アレなところはあったんですけど。

Y もう始まってしまったものはどうしようもないし…。

T 休みも1ヶ月に1日しかなかったんですよ。

F キツい。

T でも、そういうところで働いてて月に1日しか休みはないけど、その1日も他の農家さんに見学に行くぐらい楽しかったんです。夫婦二人で仲良くやってたし、楽しんでました。けれどそれは本当に一瞬で、1か月半ぐらいでそのお父さんが畑で死ぬんですよ。

F えっ!?

T 昔の人だからタバコはめちゃくちゃ吸うし、酒も浴びるほど飲むから、循環器が悪くなってたと思うんですよ。大動脈解離※22って、太い血管が縦に裂けて内出血するみたいなのになって、それでも搬送先がなかなか決まらないから、たらい回しになってるうちに死んじゃって。それでまた、その農家が結構大きい農地をやり始めたところだったんですよ。ハウスだけでも13棟あって。しかもこっちの本州の規模じゃないんですよ、めっちゃデカい。田んぼだってもう、めちゃくちゃデカいんですよ。

Y ノウハウがないと絶対回せない?

T 出戻りの娘さんとか何人か手伝う人はいたんですど、お母さんはお父さんの言うことに従ってるだけで、お父さんしかノウハウを持ってなかったから困り果てたんですよ。葬式とか法事が終わるまでは僕ら夫婦が2人で全部やらないといけなくて。かぼちゃを4町作ってて、4町って言ったら、もう地平線までかぼちゃ(笑)。

F あの、単位が初めて聞く単位で(笑)。

T 一反(いったん)がセンチだったら、一町はキロメートルみたいな感じで、北海道だからめっちゃデカいんですよ。もちろん機械に乗って作業するんですけど、あまりにも作物の種類が多くて。小豆、大豆、小麦やら米、トマト、ピーマン、とにかくいっぱいやってて。これから教わろうと思ってたのに、いきなり死なれて。本当にまだ仕事に慣れたぐらいの段階だったんです。でも、その家族は葬式とかしないといけないから、むしろ僕らは畑を重点的にやらなきゃいけなくて。農協の資材課の人とか、あらゆる近所の農家のおっさんとか、お父さんと仲悪かったような農家さんにも頭を下げて頼みに行って(笑)、どうしたらいいですか?って聞いて。それで色々教えてもらって、なんとか乗り切ったんですよね。

F 凄い…。

T 多分それは、僕のそれまでの人生で一番頑張ったんですよ。

F その期間は2、3ヶ月とかですか?

T 亡くなってから数ヶ月間です。僕らがリーダーでやらなきゃいけなかったですね。

F 収穫までの1シーズンということですか?

T そうです。それがね、どんどん厄介なことになっていくんですよ。なんか、そもそもお父さんが招き入れてたヤツらがいて。本来なら収穫した作物は、農協に全部出荷すればよかったんですけど、商社を一部入れてたんです。その商社がまたね、ヤクザみたいな商社で。田んぼとか畑、黒塗りのベンツで来ます?

F 分かりやすい(笑)。

T オッサン2人で来るけど、人相もめっちゃ悪い。安く買って東京のスーパーに高い値段で売ってたと思うんですよ。そいつらが、僕らが育てている野菜の品種を開発した、どこかの大学の先生を連れてきてくれて、その先生から色々教わったりもできたから、少しはプラスもあったんですけど。おそらくそれも最新の美味しい品種を作って、それを東京のスーパーに流すビジネスだったと思います。もうね、そのお父さんが亡くなってから、完全にそいつらが牛耳りはじめたんです。

Y 会社をですか?

T そうです。出荷したりとかの売買や、肥料が欲しいとか言ってもそいつらが持ってくる。全部です。だから僕らが中心でも畑ができたのかもしれないですけど。最初はそんなに悪くなかったんですけど、段々ほんとに乗っ取りみたいになってきて。で、もうお母さんがブレブレだった。お父さんの言うことだけを聞いてて、かといって僕らには頼りたくない。だから結局その商社になんとかしたいと申し出たんです。もう私はやる気がない、このまま続けていけないから畑はたたみたい、という感じで。僕らにやらせてあげたいっていう気持ちは全然なくって、商社の言うことばっかり聞くようになって。で、一回ちょっと修羅場みたいなのがあったんですけど、僕らが若干聞こえるぐらいの距離で、「あの子らは研修やから、給料は半分でいいから使ってあげて」みたいなことをその商社に言ったんですよ。それで僕はブチ切れて、「もうやめます」と。で、そのあと結局お母さんが、「そんなん言わんとお願い」みたいなかんじで泣きついてきて。だから僕は、「その商社は追っ払います」と言って。あれ、タチ悪いですよって。とりあえずその人らとの縁を切った。実際に後で評判を聞いたら、めちゃくちゃヤバかったです。

Y ええ…。

T でも、今度から別の手段で売らないといけなくなった。それでまた結構苦労したんです。農協出荷に一部切り替えるのもやったんですけど、農協出荷はもともとその農協が部会───トマトだったらトマトの部会とかがあるんですけど───そういう部会でやってるような品種じゃないと規格としては売れないから、規格外の自由出荷みたいな感じで扱ってるものとして、

F すみません、基本的に農家さんの販路としては、農協に一度集約して売るっていう販路と、個人でスーパーとか料理屋さんに直で売るっていう両方がある、ということですか?

T 両方あります。自分で売れる人は賢いから、例えば飛行機で送ってでも売れるみたいな品種をやってる人もいます。

F マンゴーとか?

T そうそう、そういう高級な野菜や果物を扱ってたりする。イチゴも単価が高いから、そういう販売ができたりします。そういうふうに自分のところで「〜農園」みたいな看板を出してブランド化して、東京から買い求める人がいるような、商売上手な農家さんとかはそういうことをやってる。だけど、普通の人ってそんなに販路開拓できないので、農協への出荷に基本は依存してる人が多いですね。でも、農協出荷も年々やっぱり価格競争で安いものしか売れないみたいになってきていて。それこそ本当に農協がやってる部会の規格に、ピッタリ優等生で出して、それなりに儲けている人もいるんですよ。だけど腕がない農家さんとかだと、きちんとその規格に合わせられないから。

F その規格って大きさとか味とか、かたちとかですか?

T そうですね、やっぱり見た目と味が揃っていないと高くは買ってもらえないです。

F 基本的なことだと思うんですけど、聞いていいですか?じゃあまず、北海道だったら北海道の農協に行って、そこから大阪だったら中央卸売市場※23とかの大きい市場に来て、それで一般の八百屋さんに捌かれていくっていう販路であってますか?

T そうです。まず農協って、もともとは農家の団体なんですよ。でも農協の仕事で一番利益があるのって金融なんですね。金貸しでもあるので。農協って、もともとは理想を求めて作られた団体だけど、今はもう完全にただの金貸しなんですよね。Jカードっていうのがあって、その年いるものとか全部それで買えちゃうんですよね。だから結局金貸しにうまいこと踊らされて、抜けられなくしているみたいなところはあるんです。

F 大昔の話で言うような、幕府や領主が最初の米を植える分を貸してっていうシステムが、お金に変わってるような。

T そういう仕組みだけど、やっぱり良くない方向に転がりがちなんですよね。豪快にお金を使って、当たればそれなりに入る年もあるけど、ハズレて借金ばっかりになる人もいますし。本当に忠実に経営してる人ならそこまでにはならないけど、普通の農家さんでもなかなか難しいんですよ。景気も悪くなってきていたし。だから、野菜を作る技術はあっても販売する能力が低い人は結構多いから、そこにツケ込んでくるのがさっきの都会から来る商社だったりする。結局その商社に出て行ってもらってしばらくは働いたんですけど、やっぱりこんなとこにいたらダメだって思ったんですよね。

F その一件に関しては、農家のお母さんからお礼は?

T 特にないですよ(笑)。僕らもその一件でお母さんに対して不信感を持ってしまったし。親切にはされたけど、やっぱりどこかで軽はずみな感じが。

F 節々に出てる感じで。

T そうです。僕らのこともそんなに考えてないし、自分らのことばっかり考えてるっていうのもありました。でも、世話になったし迷惑もかけたくないから、収穫になってある程度一巡して、最後にカボチャを収穫し終えて───キュアリング※24って言ってちょっと暖かいところにしばらく置いたらカボチャって甘くなるんです───それをした後に出荷するんですけど、そのあたりの作業まで一通りやって。あとは近所のおっちゃんが機械でやってくれたりとか、親戚の人もさすがにそういう状況だから手伝いにちらほら来はじめたんですけど。またその親戚も全然手伝いに来ないヤツが、なんか機械もらえるっていう時にだけ来て、そういうの見ててほんとに浅ましくて嫌だなと思って。また、僕らも自分たちがやりたい農業っていうのは別だなと思った。向こうの地平線まで耕さないといけないような、工場みたいなことをやりたいと思っていなかった。その忙しいあいだも、1ヶ月に1回休みはあったんですけど、その1日の休みで遠方までおもしろそうな農家さんを訪ね歩くことをやり始めてたんです。で、いるんですよ、めっちゃおもしろい人が。

F システム化された、効率重視の農業をやろうとは思わなかったってことですね。

T そうそう、人手もいるし。こぢんまりとやりたいと思ってたから、そんなんじゃない。あえて競争率の高いような誰でも作れる作物を、皆んなでこぞって作るってしんどいなと思って。

F 誰でも作れる野菜っていうのは、例えば?

T 簡単っていうわけでもないんですけど、例えばキャベツとかも値崩れして出荷したら、もう全部赤字ですし。

F それは、重いしデカいから?

T それもあります。トラクターで畑に野菜を捨てていて、勿体無いみたいなシーンって、テレビで見るじゃないですか。でも、もしあれを流通させてしまうと本来売れるはずのものが値崩れするから、結局あれは背に腹はかえられない決断なんです。

F 需要と供給を調整するために。

T そうそう。で、よくそういうフードロスみたいな人が、農家さんの売り物にはならない野菜を無償で配るみたいなことをやるんですけど、それをやることでもやっぱり値崩れしてしまう。農家さんも食っていけなくなるから。

F それがその求めてる人に行き渡っちゃったら、結局農家さん自身が大変になる。

T そこらへんで毎日かたちの悪い玉ねぎをタダで配ってたら、スーパーでみんな買わないでしょ。そうなると、タマネギ農家さんが潰れちゃうから良くないなっていうのはわかりましたし、本当にそれぐらい切実な世界なんですよ。僕らがやってたトマトとかも人気がある食べ物で、野菜の中では割と高く売れる方ですよ。だけど、商社との関係がダメになったから「農協で売らせてください」って言って行き始めたんですけど、計算したら箱代が出なかったんですよ(笑)。

F 箱代の方が、その中に入れてる量の卸価格より高くなるってことですか?

T そうです。せっかく詰めても結局箱代も出ないから、やる意味がない。それは信頼の問題もあるんですね。その年にポッと持っていったって、信頼はないですから。まあ大して美味しくなかったし。要は商社が使ってた品種って、東京まで日持ちがする品種だったんです。見栄えは悪くない、色は赤くなりやすい、日持ちもする、だけど別に美味しくないっていう品種だったんで。まあ売れないですよね。だから、結構苦労しましたよ。あんなお金のことを考えてたのはあの時だけちゃうかな?でもいい経験になったんですよ、こうやってお父さんお母さんの周りの親戚が頼りなかったことで、僕らに責任がのしかかってきて。意外と舐めてたけど、田舎暮らしも農業も憧れてなかったけど、やり始めるとおもしろいんですよね。それでハマって、めっちゃ勉強して、色々な人に教えてもらって。

F なんというか、これまで知らなかったことが知れるっていうのと、野菜を育てるのって、やったことの影響が明快に見えるじゃないですか。それは何かありそうですよね。

T そうそう。それまで僕は何も成し遂げたことなかったし、そもそも何もできたことがないんですよ。当時まで本当に何にもできなかったんです。買い物に行っても自分は財布を持たなくて、奥さんが買い物してくれる。「僕、これ欲しいです」って渡して、奥さんが買うみたいな感じだったんですよ。自分って何もできない人間だと思ってたけれど、この野菜は結構うまく育った、とかって嬉しいし。で、それを後押ししてくれたのは近所の農家のおっちゃん達で。心配してやっぱり色々と教えてくれるんですよ。めちゃくちゃそれに世話になった。人生の師匠たちに囲まれてたから。そのおかげで、例えば簡単に畑をトラクターで耕す方法とか、ビニールハウスの組み方とか、野菜の誘引の仕方とか芽かき※25の仕方とか、収穫の仕方とか、箱の詰め方とか、全部教えてもらった。更に、「農家っていうのはあらゆる仕事をせなあかんねやぞ」って言って、壊れたハウスの修理とか、水道管を新しく引っ張るとか、下水管を掘り返して直すとか、電気工事したりとかっていうのを、全部その近所のおっちゃん達に教えてもらいました。僕はずっと何もできない人だったから、今こういう仕事できるのは、全部北海道で農家のおっちゃんらに教えてもらったのがきっかけです。自分は何もできないと思ってたけど、コツコツやったら出来るようになるんだっていう成功体験が。遅すぎますけどね(笑)。

F いや、全然早いですよ。

Y 20代ですよね?

T 30手前でしたね。本当に今でも感謝してるんです。あのおっちゃん達に色々なところへ連れて行ってもらったし、トラクターの運転とかも「不安だったらそこで練習したらいいでや」って言って、自分のトラクターに乗せてくれて。そのトラクターでバックしたときに、ハウス壊してしまったんですけど(笑)。それでも怒らないんですよね。見た目は怖いおっちゃんばっかですよ、全員。ベロベロに酔っ払って、帰りにトラクターで畦道に突っ込んだりしてるようなおっちゃんだけど、でもいい人でしたね。

F でもまあ、二軒、三軒となりぐらいの農家さんで親父さんが死んだらしい、ヨソから来た若いもんが一人で困ってたら、助けてはくれそうですけどね。

T まあそれはね。本当に僕もすがるような気持ちで、これがわからないんで教えてくださいって、何回も訪ねて。で、そこのおっちゃんだったり、その奥さんだったりとかに、色々してもらって。死んだお父さんって、周りの農家さんと敵対してたり、すぐ隣の農家さんとかはもう全然口も聞かなかったんです。だけど亡くなってからは、隣の農家さんと仲良くなってきて、めちゃくちゃお世話になりましたね。トラクターのパンクの修理とかも全部教えてくれた。僕、自転車のパンクも直せなかったのに(笑)。

(2023年5月7日)





○注釈

※1 KOBE Re:public ART PROJECT
https://koberepublic-artproject.com/

※2 西村さん:西村周治(にしむらしゅうじ)。西村組組長、廃屋ジャンキー。2020年ごろに結成された有機的な建築集団、西村組。「無理をしない」「素人がつくる」「屋根が落ちてからが本番」を合言葉に日々廃屋と向き合う。 

※3 兵庫県芦屋市:兵庫県南東部に位置する市。
https://ja.wikipedia.org/wiki/芦屋市

※4 「じゃりン子チエ」:はるき悦巳による日本の漫画作品。また、それを原作としたアニメ、舞台など派生作品の総称。
https://fr.futabasha.co.jp/chie/

※5 吉本新喜劇:日本の芸能事務所、吉本興業に所属するお笑い芸人によって舞台上で演じられる喜劇、およびその喜劇群を演じる劇団 
https://shinkigeki.yoshimoto.co.jp/

※6 兵庫県尼崎市:兵庫県の南東部に位置する市。中核市および中枢中核都市に指定されている。
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/
 
※7 六アイ(六甲アイランド):塚原さんが通っていた専門学校の名称。現在は、「専門学校 アートカレッジ神戸」と名前を変えている。
https://www.art-kobe.ac.jp/

※8 プログレッシブロック:1960年代後半のイギリスに登場したロックのジャンルの1つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/プログレッシブ・ロック#:~:text=プログレッシブ・ロック(英%3A%20Progressive,な略称は「プログレ」%E3%80%82

※9 沢田研二:日本の歌手、俳優、ソングライター。ザ・タイガース及び、PYGのボーカル。
http://www.co-colo.com/

※10 タイガース:日本のグループ・サウンズのバンド
https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・タイガース

※11 GS(グループサウンズ):欧米におけるベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループの影響を受けたとされる音楽スタイル。1967〜69年にかけて日本で大流行した。
 
※12 ジュリー:沢田研二のニックネーム

※13  北島三郎(きたじま さぶろう):日本の演歌歌手、俳優、ミュージシャン、馬主。
http://www.kitajima-music.co.jp/sabu/

※14 ウォークマン:1979年7月1日からソニーが販売しているポータブルオーディオプレイヤーシリーズ。ウォークマンの登場によって「音楽を携帯し気軽に楽しむ」という新しい文化が創造された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォークマン

※15  与作(よさく):1978年に発表された日本の歌謡曲。最初の歌手は弦哲也。その後北島三郎や千昌夫などの歌手によるシングルが発売されている。

※16 紅白歌合戦(こうはくうたがっせん):アーティストを紅組と白組に分け、対抗形式で歌やパフォーマンスを披露する大型音楽番組。大晦日に放送。日本を代表する人気歌手をはじめ、ヒット曲で人気を集めたアーティストが多数出演する。

※17 ゆく年くる年:NHKで、1955/1956年からの毎年12月31日から翌1月1日に生放送されている年越し番組。
https://www.nhk.jp/p/ts/QN33Z43GYQ/

※18 被差別部落(ひさべつぶらく):詳しくは以下wikiを参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/部落問題

※19 パッカー車:車両に投入したごみを自動的に荷箱へ押し込み、圧縮する装置を持った機械式のごみ収集車の名称。 パッカー車という名称の由来は、英語で「詰め込む」を意味する「pack」からきたとする説が有力。

※20 南方熊楠(みなかた くまぐす):日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/南方熊楠

※21 麹室(こうじむろ):麹造り専用の部屋の名称。

※22 大動脈解離(だいどうみゃくかいり):大動脈を構成する内膜、中膜、外膜のうち内膜が破れることによって中膜に血液が入り込む状態。

※23 中央卸売市場(ちゅうおうおろしうりいちば):大阪市浪速区にある民営の卸売市場。
https://kizu-ichiba.com/

※24 キュアリング:本来は「治療」という意味でサツマイモやカボチャでは広く行われている。 貯蔵中に切り口から病原菌が入るのを防ぐため、果柄部の切り口を乾かすことにより菌の侵入を防ぎ、果実の腐敗を防ぐ処理。

※25 芽かき(めかき):目的とする収穫物や栽培方法に適していない不要な芽を取り除くこと。