プロフィール

塚原正也(つかはら せいや)
北海道での農業経験から人生が一変。「百姓とは百の仕事」をモットーに毎年仕事が変わるほど流され続ける人生を歩んでいる山羊研究家→都会で農家→空き地の除草→なぜか建築(多能工)。現場に住んで作業する住み込み作業員。元山羊チーズ職人、人工授精師(山羊)、山羊と山羊乳アレルギー。人生が遺言でラブレター。

インタビュアー

冬木 遼太郎 Ryotaro Fuyuki _ アーティスト https://ryotarofuyuki.tumblr.com/

山本 正大 Masahiro Yamamoto _ アートディレクター




冬木(以下、F) 僕が去年に神戸のアートプロジェクト※1に参加する機会があって、その流れで塚原さんにもお会いしたんですよね。で、西村組の西村さん※2と一緒に…

塚原(以下、T) 僕自身は西村組じゃないって言ってるんですけど(笑)。でも西村組の人たちより僕の方が関係は古いですよ、西村組って名前で呼び出したのは僕だし。最初は本当に少人数だったんですよ。僕と西村さんとドイツ人と、たまにイギリス人。

F ドイツ人とイギリス人(笑)。その西村さんの繋がりから、神戸のバーみたいなところでお会いしたのが最初ですよね。

T あれだって、たまたまアーティストのみなさんが来られた時に、その場でただ飲み続けてただけで。別に呼ばれて行ってないから。

F その時に、塚原さんがヤギ研究家の方で、ヤギアレルギーだっていうその2点だけをすごく覚えていて(笑)。どこから聞いたらいいかなと思うんですけど。


育った環境のこと

F ヤギ研究家になる前は何をされてたんですか?

T そもそも20代ぐらいは、ほんまよくいるクズ。クズニートやった。

F たしか専門学校に行かれてたんですよね?

T そうそう。親のスネかじって生きてるような人間だったから。全然勉強できないし、どこも大学受からなかったんで。浪人までしても、どこの大学も受からなかったです。

F もともと神戸のご出身ですか?

F 出身は西宮なんですよ。僕の大嫌いな西宮、芦屋※3っていうのは、もう二度と行きたくないと思ってます。

山本(以下、Y):割と嫌いなものは多いですよね(笑)。

T やっぱりパワーは強いですよね、嫌悪っていうのは。

F それは、芦屋とかのハイ・ソサエティーな感じが嫌で?

T 当時はそうですね。今は建築関係の仕事をしていて、街づくりの一端をちょっと担ってるから、街のことも考えるし、少し印象も変わりましたけど。もう全然話が飛び飛びで申し訳ないけど…

F 全然大丈夫です。

T 今は食べものとかお店に興味がありすぎて、ローカルの店をめちゃめちゃ食べ歩いてしまうんですよね。それが僕の今の趣味みたいになってて。

F 定期的にインスタのストーリーにあげてますもんね。

T そうですね。アウトプットしておかないと溜まってきて整理できなくなるから、ストーリーに垂れ流すんですよ。そういう感じでローカルの店に行ってると、下町とかがわかるんですよ。文化って下町にものすごく集まるし、人も好きなんですよね。だからそういうのって、僕が生まれ育った西宮の、それも阪急の線路よりも上には何にもなくて。

F 山手の方ですよね。あの辺りで街が分かれていますよね。

T そう。西宮でも阪神電車側だったら下町もまだ残ってるし、似たような雰囲気が味わえるんですけど。

F 本当にエリアで変わりますよね。

T ベッドタウンのエリアというか、夙川とか芦屋川の北側に住んでる人たちは、もともとその地域で暮らしてたっていうよりは、外から移住した人が多かったんですよ。大阪や神戸で仕事をするから、住みやすい西宮を選んで来た人たちで。もとはうちの両親も関西人じゃないんです。明確には気づいてなかったけど、ずっと子供の頃から気持ち悪さみたいなのがあったっていうのは、いま思い返せばありますね。子供の頃は関西が嫌いだったし、関西弁も嫌いやったし、じゃりン子チエ※4も、吉本新喜劇※5も嫌いだったんですよ。家ではそんな関西弁も喋らないし。でも、友達はどんどん芸人の言葉に感化されて、あえて使うようになっていって。で、大阪に行った時に西宮のヤツは、“なんちゃって関西弁”って馬鹿にされたりとか、神戸に行ったら行ったでニセモノ扱いされたり、ちょっとなんていうか、文化的に弱さをすごい抱えるエリアだと思ってて。金持ちは多いですよ。

F 大阪と神戸のあいだの西宮っていう、どっちでもない立ち位置で。

T そうなんですよ、尼崎※6ほどおもろくないし。芦屋も含めて同級生には金持ちも多かったし、やっぱりそういう友達の家に行った時に、ものすごいギャップを感じるじゃないですか。子供1人に1部屋あるとか、「これ食べとき」って言って、お母さんがおやつに宅配ピザ頼んでくれたりとか、ギャップがすごくて。そんなん生まれて初めて食べたわとか思って。ちょっともう規格が違いますよね、夏休みのたびに海外旅行に行くとか。「そんなんウチでは1回も行ったことないし」とか思ってたんですけど、ギャップを知れるからそういう経験は良かったです。でも文化がないから、街に魅力は感じないですよね。だから大阪もそうですけど、長田や兵庫区に来たらやっぱり楽しくなって。そういう意味では、何もなかった西宮で生まれ育ったおかげで、深堀りできるようになったっていうか。

F 環境が今の深掘りに繋がってる。

T 何もないって言ったらあれですけど、西宮って面白いものはないんで中学生ぐらいになると外出するようになって。そうなると三宮の方に来るじゃないですか。地下街の安いご飯屋さんでご飯食べたりとか。そのぐらいの時期からあの辺りにどハマリして、奥の方まで行ってましたね。元町の高架下のエリアが、もともと闇市から始まったところで、今はどんどん追い出されてしまって綺麗にされてますけど、以前はずっと残ってたんですよ。今になってみれば、多分その頃からそういう古いものが好きなんですよね。

F それで、専門学校は?

T 専門学校は六アイ(六甲アイランド)※7しか無理だったんですよ。今はたぶん名前が変わってますけど、どこも行くアテがなかったヤツが辿り着くような芸術系の専門学校です。

Y 誰でも入れるみたいな…

T 親が金持ってたら入れるような専門学校で。だからカメラもできたりとか、服飾もあったのかわからないですけど。

F じゃあ、クリエイティブ系の学科で。

T そうそう。僕もよくわからないまま、ビジュアルデザイン学科みたいなのに入ったんですよ。でもデザインなんか全然興味ないし、結局デザインが本当に理解できなくて1年ぐらいで辞めたんですけど。ほんまに訳わからんかった。デザインってなんやねん、さっぱりわからんって。僕はその、落ちこぼれ学校の中ですら落ちこぼれで。

F 専門学校を出て、その後は?

T フリーターだったり、ニートみたいな感じですね。

F 今みたいに建築の仕事とかもされてたんですか?

T いや、僕はもやしっ子だったんで。学校では、授業聞かずにずっと落書きしてるみたいなタイプの子供だったから。当時は夏でも長袖着るぐらい日焼けが嫌でしたし。

F え!今の塚原さんと真逆ですね。じゃあアルバイトは、例えばコンビニとかですか?

T いや、だからそんなに仕事を選ぶほど体が強くもないわけで。たまたまみたいな感じで、最初は喫茶店から始まり、喫茶店でコーヒーも飲めなかったのにコーヒーを淹れたりとか、サンドイッチを作って出したり。そういうことから始まって、ファミレスでバイトしたり、派遣で色んなところも行ったし。それこそ、力仕事で言ったら引っ越しのバイトは行きましたけどね。でも、非力だから新築のクロスを傷つけてしまったりとかするから嫌で。派遣でスーパーの品出しに行ったりとか、覚えてないぐらい色々やりました。本当にいろんな職を転々として、その頃に長く勤めたのがジョリーパスタ。料理はあんまり作れなかったんですけど、多少なりとも鍋が振るえたりとか、そういうことを覚えさせてもらったのがジョリーパスタで。なんで行ったかっていうと、その当時、音楽が好きで色々バンドとかもやってたんですけど、特に好きだったのがプログレ※8やったんですよ。プログレの中でもイタリアンプログレっていうジャンルがあって、それにハマってたからちょっとイタリアに興味があって。もっとちゃんとしたところで働けばいいのに、家から近いっていう理由でジョリーパスタ(笑)。イタリアンレストランやから一応イタリアの曲でもかかってんちゃうかなと行ったら、全然普通に洋楽ポップスみたいなのがかかってて。だから何もその、主体的な意志はないわけですよ。流されてやってただけです。


F 少し、プライベートな質問になってしまいますけど、ご兄弟は?

T 3人兄弟です。男ばっかりで、僕が長男。親とは縁切れてるんです。

F 伺っていいなら、いつからですか。

T この10年以内っていうか、30歳以降ですね。昔から全然合わなかった。

F 両方ですか?

T 父親は、もうわかりやすく怖い。でも社会的には色々な仕事ができる、運動できる、背が高いみたいな僕とは全然違う人で。子供の頃から「鈍くさい」とか、「なんでこんなことができへんのや」って言われて、どつかれて育ってるから。でもやっぱりできないものは、できないですよね。

F なんというか、小学校のときにそういう友達っていました。知ってる感覚があります。近所に住んでた友達が運動会の前に、お父さんに怒られながら走る練習をさせられてたのを覚えてます。

T 親自身が半ばできるから、「俺の子供ができないわけがない」みたいに思って、頑張るんですよ。親とキャッチボールをした経験とか大体みんなあると思いますけど、僕はめちゃくちゃ緊張してて。苦痛の時間でしかなくて、機嫌を損ねないように楽しんでるフリをしなきゃいけないみたいな感じ。そのぐらいの時期から、山とか茂みに入って虫捕まえたりそういう大人しい遊びの方が好きで。球技とかは反射神経が鈍くてダメでした。それでも3人兄弟の長男で、1番しっかりしなきゃいけない。しかもうちの親父は、「家を継いでいかなあかん」っていう時代劇みたいな発想のヤツで。「塚原を誰が守ると思ってるんや、お前やぞ」とか言って、家柄を出してくる。

F 兄弟構成は、塚原さん、真ん中の弟さん、下の弟さん。

Y たしか真ん中の弟さんの音楽の話を、前にされてましたよね。

T そうそう、弟は子供の頃から音感がよかったんですね。でも僕はずっと音痴だったんで、音程がわからなかったんです。これがド、これがレ、みたいなのが全然わからない。全鍵盤に「ドレミファソラシド」って書いてたくらいわからなくて。でも、それでも鍵盤ハーモニカすら弾けるようにならなかったんです。リコーダーなんて、とてもじゃないくらい不器用でした。それぐらい音楽の才能なくて。逆に弟は音感がすごいから、聞いただけでスラスラって歌えた。で、僕がちょっとゲーム音楽とかを口ずさんでたら、「違うで」とか言ってキーを変えられたりするんですよ、正しいキーに直されたりして。才能なんですかね。弟は小学校からボーイソプラノみたいなのに入っていて、歌うことも好きだったし音楽が好きだった。それくらい差がありました。

F すみません、実際に親と子の縁が切れる時って、どういう風にして切れるんですか。聞いても大丈夫ですか?

T 大丈夫です。やっぱり親が100パーセント悪い場合もあると思うけど、うちの場合は結局お互いが良くなかったんだと思います。僕は僕で甘えていたところもあったし。例えば、子供がお金を借りて返さないとかは、各家庭であると思うんです。それは良くないことだけど本当の問題じゃなくて、やっぱりソリが合わなかったっていうのが1番の問題だったと思います。ボコボコに殴った後に、「今回だけな」みたいな感じで金を貸してくれるところがあったんです。この飴とムチですよね、もうムチが8に飴が2くらいな感じなんですけど。そういう関係がよくないのは、こっちも飴が出てくるのを予測し始める。だからもうボロカスに怒られてて気狂いそうやけど、耐えてたら家には置いてくれてご飯も食べさせてくれるし、そういうのが子供の頃から身についてしまうんですよね。それでもソリさえ合えば仲良くやっていけると思うんですけど、相手が自分の望む通りになった時だけにニコっとできるような関係って結局良くないんですよね。人間として認めてないというか、何やっても気にくわないわけです。父からすると、僕が何しようが自分が望んでないことをやってる。ずっとそうやって、子供の頃からそういう目線を受けて育ってるから。それってこっちもしんどいし、向こうからしたらいない方がいいと思うんですよ。たまに家に帰ってきたと思ったら、お金の無心だったり。で、ボロカスに口喧嘩して殴られたりとか大事になるのに、何もなかったかのようにとまではいかないけど、結局一緒に飯を食ってるとか、気持ち悪すぎるじゃないですか。あと、親父はアル中だったからそれもあります。深刻な家庭環境ではないですよ。ほんとの虐待みたいな、もっと大変な家も知ってるし。土下座してるのに頭踏まれたりしましたけど、僕は僕で色々やらかしてる部分もあるし。納屋を燃やしてしまったりとか。だけど、本当のヤンキーの家とかヤクザの家みたいな荒れ方はしてないし。

F 話を聞いていて、昔のことを色々思い出してました。小学校の高学年と中学年の二人兄弟だけでアパートに住んでるやつとかいましたね。突然、親が帰ってこなくなった家もあったり。あと、友達のお父さんが金借りにくるみたいなのもありましたよ。僕も大阪市内の南側で育ってるんですけど、小学校の時は色んな家庭がありましたね。

T 僕の周囲は、土地柄そういうのは少なかったんですけどね。阪急の線路沿いに住んでたんですよ。だから西宮に住んでるってイキってるけど、結局電車の騒音と毎日暮らしてるから、そんなにいいところじゃないんですよ(笑)。だけどちょっと北側に行くと、どこそこの大会社の社長が家を買ってたりとかする。ただその線路の南側は割と庶民のエリアで、当時は今で言うJRの団地があって。で、やっぱり線路の北側の人と南側の人で感覚が違うんですよ。線路より南の方が協調性があって、みんなで野球やるとか。

Y コミュニティがちゃんとできてる感じなんですね。

T そういうのがしっかりしていて、でも僕はそこに入りきれない感じだった。ファミコンばっかしてるとか、そういうはぐれてるやつが線路より北側には多かった感じがします。でも線路の南側では、ちょっとさすがになっていう文化住宅があって、そういうところに住んでる子はやっぱり貧しかったと思います。僕も家でお菓子がないってことはさすがになくて、ふんだんに与えてもらってる側ではありました。でも、ある友達の家に行ったらファミコンも何もなくて、かといって球技をするわけでもなくて。「飛び降りっこしようぜ」って言われて、文化住宅の2階から1階に飛び降りるみたいな、血まみれの遊びを始めて。で、僕も何回か飛び降りたんですけど、さすがにもう無理ってなって、「ちょっといいわ」って言ってたら、2階の玄関のあたりに座らされて、「じゃあちょっとこれ、食べといて」って、パッと渡されたのが白砂糖だったんですよ。もうお菓子もないんだなと思って。黒糖の塊をかじることはあったけど、さすがに白砂糖をお菓子だと思ったことはなかったんで。

F 本当に服がないから、一年中半袖短パンのやつとかいましたよね。

T 軒並みやばい家ばっかりではなくて、一部にはそういう貧乏な人もいるくらいの環境だったんで、気づくのは遅かったです。大人になってから聞いた友達の親の話を早くに聞いてたら、もうちょっと自分の家を憎んだりしなかったかな、とは少し思ったりします。仲のいい友人とか、小学校から働かされてたんですよ。僕よりちょっと年上ですけど、父親の顔は見たことなくて、母親は子供の頃からスナックみたいなのをされてて。で、働きに行かされてバイトでお金もらってきたら、そのお金を親に渡さないといけなかったらしくて。結構えげつない(笑)。

Y すごい。小学校から。

T そういう人もいるから、特別にうちの家がめちゃくちゃ悪いとは決して思わないです。子供にやったら良くないだろうなってことは、してましたけど。父親だけが全ての原因じゃなくて、おかんは基本優しいんですよ。でも、父親を止められないから。

Y お父さんが絶対制みたいなことですか。

T そうそう。だから、父親から子供を守るためには、母親が自立する手も本当はあったと思います。僕ら兄弟のせいで、いつも母親が怒られるっていうのもありましたけど、でも母は結局父親から僕らを守らなかったし、優しいからそれでもいいかと思ってたけど、やっぱりそうじゃない。だから結局どこかで冷めてしまった。父親にボコボコにされるように、母親には過度に甘えれるから、なんか気持ち悪い関係がずっと続くんですよ、そうやって。ただ塩がキツすぎたから離れたっていうだけじゃなくて、砂糖もキツすぎたから嫌やった。

F なんというか、お母さんはご自身では何も決められなかったりしたんですか?

T 母親は僕と似てると思うんですよ。人の意見に左右されがちで、流されやすいところはありました。自分のこだわりや好きなものもあっただろうけど、親父があんまりいい顔しないから、そういうものはもう足を向けなくなったというか。父親よりは母親の方が、サブカルチャーとか文化的なものもある程度は嗜んでて、父親はもう潔癖のような感じで、若者のチャラチャラしたやつとか全部嫌いみたいな。潔癖の極地ってナチスみたいになるじゃないですか。あれはあかん、これはあかん、俺らが最強、みたいになるじゃないですか。ナチス関連の映像とかを見てたら、うちの父親みたいやなって思ってしまう。

F 否定形で言いますよね。「何々でなければならない」とか。

T そうなんですよ。そうやって断言されたら、こっちはもう何もできなくて、おまけにクズって言われ続けたら、自分がクズやと思ってるから、クズにしかなれないんだと思ってしまうし。でも、親も自分は才能あったから、自分自身はできるから、うちの子も絶対才能があるはずだと思いたいんだと思います。それで僕にそんなことを吹き込んで、「お前はやればできるヤツだ」みたいな感じのことは言うんですよ。でも、それでできた試しがない。

Y お父さん自身の、自分のできることの領域ですよね。例えばスペシャリティが他にあったとしても、お父さんからしたら見えない。

T 見えないし、興味がないし、なんなら醜いと思ってたと思います。だから、今でも僕が大好きなものの大半は、多分父親は嫌いだと思ってる。それぐらいソリが合わなかったら、金を借りた借りてないかとか、殴った殴ってないとかそんなレベルじゃなくて、もういない方がいいんですよ。たまたま社会の枠組みで親は大事にしなきゃいけないし、家族だから一緒にいるべきみたいな変な圧力があるだけで、それを全部取っ払ったら自然と離れていきますよ。磁石のくっつかない方をセロハンテープで止めてるような状態だったんで、剥がしてやったらそれは自然になる。だからもう切れてよかったですよ。

F 前から話を聞いてると、山本さんは父と母の愛に育まれた息子ですよね。

Y かなりそうです。だから今のような話は初めて聞きました。僕はもう塚原さんが言ってたような家庭とは逆で。父親は土木関係のサラリーマンで、母親は学校の先生。あ、姉もいます。でも小学校で不登校だった時期があったんですよ。思い出せば別にそんな大それた話でもなく、クラスの40人が同じ方向を向いて、何時間も同じことをしてることがしんどくなって、親に「お腹痛い」って言い出した。で、1回休んだら休めるんだっていうのから継続して休むようになって、気づいたら1年間行ってなかった。結局2年間行けなかったんですけど、親がめっちゃ心配してくれてたとは思います、本当に。けれど、たしか父親かな、母親かどっちかが言ってくれたのが、「多分他の子より頭いいんよ」って言って許してくれてた。で、その後は普通に「1人は暇やな」って言ってまた学校に行き出したから、多分安心したでしょうし。単純に親が信用してくれてた感じでしたね。

T それはもう大きな違いですね。僕は何をやっててもずっと「本当か?」っていう、疑われてるような感覚で見られてるような、その目線を忘れられないんですよ。トラウマですよね、そこまでいくと。だけどそのぶん本来なら親のためにしてあげなきゃいけないことも将来あっただろうに、全部放棄できましたから。例えば、老後の世話をする気もなければ、もう関わりもないし、存在も感じたくないから。なるべく、もう考えないようにしてます。だからこんなことやってるけど、もし自分に子供ができたりとかしたら、ウチの親と全然正反対のことをしてあげたいと思ってます。してあげたいというか、やっぱり仲良くしたいですよ。


仕事の話、その1

Y 最初に親がいて世界を知っていく状態がある中で、その環境だと親の言うことが当たり前になってしまうところがあって。逃れようにもどう逃れていいか分からないというか。

T そうなんですよね。自立させるために、厳しく躾けてるつもりだったのが、翼をもいでしまったら子供が自立できなくなるからね。だから、もうちょっと方法はあったと思うんですけどね。僕がたまたま出来が悪かったのも、父親としては多分ガッカリだったんだと思います。

Y それは父親からしたら出来が悪かっただけで、他の人からしたら塚原さんすごいと僕は思いますよ。それは別の話だから。

T 父親の問題よりも一番でかいのは自分自身で、弟ですらもう少しちゃんとやってるのに、僕はいつまでもお金にルーズで。すぐにお金なくなって、貸してもらうことになってたりとかしたんで。

F 塚原さんはいま何にお金使われるんですか?。

T 今はもう、100%飲食店で溶かしてますね(笑)。エンゲル係数100%みたいになってます。昔は全然音楽には興味なかったのに、何かのきっかけで沢田研二※9にハマって。沢田研二なんて、リアルタイムのミュージシャンじゃなかったですけど、20歳ぐらいの時に、急に歌謡曲を聴き始めて。

F ソロになった後の沢田研二?

T そうです。タイガース※10も一応聴きますけど、タイガースっていうより、

F GS※11ってわけじゃなくって、ジュリー※12。

T ジュリーから先に入ってって、その後にGSにいって。小学校の時に生まれて初めて買ってもらった音源ってあるじゃないですか。覚えてる人もいれば、いない人もいるかもしれないですけど、僕は「北島三郎ベスト」※13やったんですよ。

F ええ(笑)。

T ウォークマン※14を買ってもらってたんですよ。で、一緒にカセットテープも買ってもらえるってことで。

F いくつだったんですか?

T 小学校の、、

F 早いですね(笑)。

T 歌は歌えなかったけど、演歌は好きだったんですよ。「与作」※15が入ってることが一番のポイントだったんですけど、そのベストを買ってもらって。歌謡曲は嫌いじゃなかったんです。田舎に帰ったら、おじいちゃんが除夜の鐘をつかなあかんって、毎年除夜の鐘をついてたんですよ。で、だいたいその時に紅白歌合戦※16がかかってるじゃないですか。その待機時間に紅白歌合戦を見て、終わったら除夜の鐘をつくみたいな感じだった。大体こたつで演歌を聴いてるみたいなのが習慣でした。

F なるほど。確かに、11時40分ぐらいに紅白は一回ストップして「ゆく年くる年」※17で鳴らしますもんね。

T そうですね。僕も子供であんまり夜遅くまで起きたことないけど、除夜の鐘の日は頑張って起きて、なぜかカウントしてました。子供に、「正」の字で、何回とか着けさせてるから、絶対108回じゃないと思うんです(笑)。間違えてると思うんですよ。こんな注意欠陥人間が正しく数を数えられるわけない。

F もう、ジョリーパスタのバイトの後からすごい脱線で…(笑)

T (笑)。ジョリパのバイトの後も色々な職を転々として。ゴミ屋さんで働いてたこともあって。

F ゴミ収集業みたいなのですか?

T そうそう、ゴミ収集車。その当時は、被差別部落※18の人とかが結構多く働いてたんです。たしか芦屋の地域のゴミ収集をやってて。で、仕事はめっちゃ面白いんですよ。臭いとか汚いとか危ないとかありますけど、基本全力ダッシュでとにかくゴミ袋を叩き込んで、片付けたらサッて乗って、みたいな仕事です。ゴミ収集車の後ろに乗るっていうのが、子供の頃の夢のひとつだったんです。でも、条例でそれは公道では無理だったんですよ。

F 急にめちゃくちゃフィジカルな仕事で。

T そうそう。それで、自分は肉体労働が好きかもしれないって思ったんですよ。それまでは虚弱体質で、誰にも腕相撲で勝ったことはないし、17歳になるまでずっと喘息と鼻炎持ちで治ったこともなかったんですよ。だから体育の授業でも、全力で走れるわけないですし。登校中に息苦しすぎて動けなくなるぐらい喘息がひどかったんですよ。これまでずっと虚弱体質だったから、そんなフィジカルで楽しいと思うことがあるとは、自分で思ってなかったんですけど、ゴミ屋はめっちゃ楽しかったです。パッカー車※19に乗るのは距離が離れてる時だけで、ゴミは点々とあるから、ずっと基本ダッシュ。

F 見てたらそうですよね。大変そう。

T 業者にもよると思いますけど、僕がいたところはメチャクチャ瞬発的にやって、早く終わらせて、早く昼休みしたいっていうタイプの会社だったから、もうとにかく走らされて。

Y すごい。シャトルランみたいじゃないですか(笑)。

T ただ、ゴミ業界全般が割となんですけど、同僚の人たちにも被差別部落出身の人が結構多いコミュニティで、そういう部落の人はたいしてガラが悪い人はいなくて、部落出身じゃないヤツがめっちゃガラ悪かったんですよ。多分、組に入ったけど、組で無理だったからそこに働きに来てるヤツとかもいて。そういうちょっと厄介なヤツも混じってたんです。だから、僕は組んでたパッカー車の運転手にいつも殴られてました。

Y え、殴られる?

T 夏でも長袖のやつに。

Y あー、なるほど。

T だから、その人が嫌で。「社員にならへんか?」って言われたんですよ。まあ走るのも好きだったし、どんだけコキ使われても楽しんでやってて。まわりの人は、みんなどっちかっていうとヤンキー寄りの人ばっかりだから、自分とは全然違うのに、ウチで働かないかって言ってくれて、まあちょっと嬉しかったけど、「アイツおるから無理です」って。毎日殴ってくるから。だから本当にそこで思ったのは、面白い仕事もあるんだとは思ったけど、やっぱり仕事って結局たった一人嫌なヤツがいるだけで、駄目なんだなと思って。その後はまたしばらく休職期間みたいな、失業保険で食ってる時期があって。その期間に、自宅の前の公園のもともとやってたキノコ採集をずっとしてたんです。

F 湿気とか、木が多い公園ってことですか?

T そうそう。池もあるし。

F じゃあだいぶ大きい。

T そうなんですよ。住宅地だったのに、住んでいたあたりだけなぜか4分の3ぐらい森で、立入禁止の枠に囲まれてて。個人所有の土地だったんですよ。

F あ、私有地。

T そうです、低い山みたいな地形で。そこはめっちゃ僕の財産だったんですよね。そこの一角に公園が付いてるから、ほぼ森みたいな公園なんですよ。池も付いてるし。西宮の住宅地の中では、そこで遊べたのはめっちゃラッキーだったと思います。今はもう再開発で全部なくなってますけどね。植栽で公園をつくる時に人工的に植えられた植物にも、それぞれやっぱり良いキノコがあるんですよ。それが面白い。

F いつから気づき始めたんですか?

T 子供の頃からですね。もう昔から見てたっていうのがあります。

F 自然の山に生えるキノコと、後から植えられた植栽のキノコは何か違う、みたいな?

T それもあるし、逆に人工的なフィールドの方が偏ったキノコしか生えないから、毎年この種類がこの場所に生えるっていうのがわかるんですよ。

F 成程。自然よりは、ある程度整えられてる方が。

T 条件が限られてるからですね。森の中は豊かなんで色んなものが入り混じって、生き物もいっぱい通るし。だからカオスなことが起きたりするんです。勉強とかは全然できないし、努力もできないタイプで勉強したことないんですよ。算数も英語も、全部0点みたいな感じだったのに、生き物とかが好きすぎて、授業聞くだけで生物は100点取れるタイプだったんですよ。

F すごい。

T 子供の頃の動物とか恐竜とか、ああいうのから始まっていろんな生物が好きになって、キノコにハマって、暇になったから前から好きだったキノコの本をしばらく読んでたら、近くにも生えてるのに段々気づき始めて。それで山に行ったりとか、家の前の公園でも継続してキノコ採りをやるようになって。食べれるのは分かってても、別にそんなに食べたいと思わなかったんですよ。当時はそんなに好きな食べ物ではなかった。だから、全部乾燥させて、標本にして保管する感じでやってました。

F 乾燥させたらそのまま標本にできるんですか?なにか、処理とかは必要ないんですか?

T もちろん、虫が来るんで乾燥剤入れるとか、別にそれはタンスにゴンみたいなのでもいいんですけど。そこまで考えて、虫に食われないようにするんだったら、殺虫剤として樟脳みたいなのを入れます。本当のちゃんとした人がやってる標本は、多分そんなものは使ってないと思います。別のものを使ってると思いますけど、僕はとりあえず乾燥剤入れるぐらいでやってました。そんなにカッチリと誰かから習ったわけでもないから、正しいやり方も知らなかったし。それで、ある時に植物園に「キノコクラブ」っていうクラブがあることに気づいて。で、そのキノコクラブに行ったら、学者さんの先生や大学の先生とかも来て、ちょっと講義をしてくれたり、一緒に山に行ったりできたから、一時期行ってました。それで、キノコのことが段々と詳しくなって面白くなってきて。キノコから段々とキノコ以外の変な別の菌の動物っていうか、生物がいるんですよ。変形菌っていう、熊楠※20とかがやってた粘菌とかに興味を持って。そういうのを調べているうちに、あれよあれよという間に、目に見えないサイズのものに興味が移ってきて。やっぱり微生物は面白いし、しかも人間の役に立つかたちで利用できるっていうのは面白いなと思って、発酵食品に目覚めてくるんですよ。納豆とかキムチとか。それで発酵食品が好きすぎて、味噌屋に就職したんです。

F それはいくつの時ですか?

T 20代半ばぐらいじゃないですか。

F それも神戸市内とか西宮のあたりで?

T そうそう、近所です。そこは工場だったんですけど、仕込みから全部やってました。生まれて初めてスコップを使ったんですけど、それが麹室(こうじむろ)※21でした。要はお米を蒸かした後に、種麹の菌を混ぜてあの温かいところ、室(むろ)で寝かせて。そしたらもう、菌糸が走ってガチガチになるんですよ。

F 硬さ的にガチガチになる?

T そうです。最初はパラパラじゃないですか。それがくっつくんですよ、全部が。で、それを切り崩さないといけないので、スコップを使って切り崩して、下へ落として。で、機械でバラバラにしてから、今度はもっと大きいところにそれを広げるっていう作業があるんですけど。

F どんどん菌を増やす作業ってことですか?

T 発酵させて菌が固まった時点でとりあえずはOKですけど、その後に味噌で使うには一回バラバラにします。乾燥とまではいかないけど、パラッとさせないとダメなんですよね。それで一回広げる必要があるんですけど、めちゃくちゃハードな仕事だったんですよ。

Y 体力的に。

T そうそう。僕、全然体力に自信なかったんですよ。それで、作業場所が室(むろ)やから、サウナみたいな温度なんですよね。めっちゃ暑いんですよ、湿度もすごいし。

F ゴミ収集車よりきついってことですか?

T そうです。汗の量で言ったら、そっちの方が。

Y ええ!

T その室の作業が終わった後は、いつもパンツまでビチャビチャになるから、着替えを持って行ってましたね。最初の数日はもう、本当にキツくて。狭いんですよ、しかも。中腰でずっと作業しないとダメだから、腰も苦しい。工場の二階建ての、二階部分で作業をやってるんですよね。二階部分を更に上下2つに割って、上のところに最初の室があって、重力を利用してそこから下の室に落下させるんです。

F じゃあ、もう1メートル50センチとかの高さで作業してる。

T しかもそこの会長が、めっちゃ小さい人だったんですよ。

F (笑)

T 会長が自分に合わせて設計してるから、もうめちゃくちゃ狭くて。なんていうか、昭和初期のオッちゃんとか小さかったじゃないですか。あんな感じのカリカリの明治生まれのオッちゃんだから、すっごい狭いんですよ。僕より背が高い人もいっぱいいたから、みんな大変そうでしたよ。

F 常に低くなりながらの作業で。

T そうそう。かき出して落として、最後にそこで蒸し煮みたいな感じで豆を炊く工程があるんですけど、それと混ぜて一階の樽の上に落とすんですよね。上から効率的にやっていく感じですね。

F そうやって作ってるんですね。

T 樽の場所によっては、下で受けたやつを手押し車で何回も運ばないといけないところがあったり、味噌もスコップ使って運んだり。また味噌が水分を含んでネトっとしてるから、重い。

F 粘土みたいなもんですよね(笑)。

T その後に、北海道で農家をやってた時期もあって、その頃も土をスコップで掘ったりしてたけど、遥かにあれよりしんどい。味噌の方が重いし、粘るし。

F 味噌屋さんに就職して。で、そこで働いたのは何年くらいですか?

T 何年間か働いてたんですけど、結局結婚することになって。なんていうんですか、僕がだいぶ精神的に落ち込んだ時期があって。その、20代ってまだ自分が何かができるかもしれないと思って生きてたんですよ。バンド活動をしたりとか、その前はフリーペーパーを作ってたんです。

F 一旦整理すると、ゴミ収集業とかお味噌屋さんで仕事しながらも、バンドをやったりとか、フリーペーパー、カルチャー誌のようなものを作ってたと。

T そうですね。デザインがわからなくて専門学校で挫折してるんですけど、やっぱりどこかでアウトプットしたいというのもあって、フリーペーパーを作って置いてもらったりとかしてた流れで、結局バンドを始めて。全然練習しないんですけど、しばらくダラダラとやってて。でも分かりやすいことも何もしてなかったから、結局そんなに売れるわけないじゃないですか。それで、何もかも挫折感みたいなのしかなくて。

F じゃあ、後に結婚される彼女さんとはそこで知り合った?

T いや、多分どっかのバイトで知り合ったみたいな感じだったんですけど、その人と付き合って。でも、20代は本当にクズみたいな感じでバンドをやってるから、女の子ってこっちに寄ってくる。要は、こっちは罠を仕掛けてかかるのを待つ、みたいなことで済んでた。でもそれだと、一番獲りたい獲物は獲れないんですよ。

F あー(笑)。

T だから、本当に大好きな人を見つけてその人を口説きに行かないことには、っていうことですよね。そういう時は、鉄砲を持って直接バンといかないと。でもそうじゃない、まあ来てくれる人だったらいいかなっていう感覚。ひねくれてるんですけど、バンドやってる限りはそういう人が誰かいるんですよね。

F はい。

T 正式に付き合うのとかも気持ち悪いと思ってたから、ものすごくズルズルしてたんですよ。正式に付き合ってないから、色んな女の子と仲良くしたりする。でも、女の子が僕のこと好きになってくれたりすると、ちゃんと正式に付き合ってよ、みたいなことを言われたりするじゃないですか。

F ありますね。

T こっちともこういう関係で、あっちともそういう関係みたいな、その取り合わせができなくて。要は向いてなかったんですよ。

F それは塚原さんが悪いですよ(笑)。

T そうですけど、君だけだよとか、君が彼女だよみたいなことは一切誰にも言ってないんですよ。だけど、そういうフリーダムな生き方もできないのか、と思って。色々それで挫折したんですよ。

Y そこは俺はちょっと、怒る(笑)。

F モテへんから。

Y そう、モテへんから。そんなモテたことないです。

T いや、バンドやったらモテますって。

Y ドラムやん、どう考えても俺ドラムやん。

T まあバンドじゃなくても、なんかそういうの、あるじゃないですか、今でも。

Y ユーチューバーみたいな。

T ユーチューバーだけじゃなくて、ちょっとみんなの目の行くところに自分を置けば売れるんですよ、それなりに。だってバンドをやってたら、メンバーに一人だけおじさんがいるバンドとかがあって、そのオッちゃんは全然喋らないし一番地味なドラムをやってるんですけど、めっちゃかわいい女子高生と付き合ってたりしてましたからね。

Y バンドか(笑)…。

T まあ、バンドじゃなくてヒップホップとかでもいいと思うんですよ。トラックメーカーでも何でもいいんですよ。とにかくライブができるとか、配信とかでもいいんですけど、なんか人間って変なスイッチが入るんですよ。ウィンドウショッピングしてたら欲しくなるみたいな感じで、自分からそういう人を探し求めるっていうよりは、たまたま目に入ったものをどうしても欲しくなる、みたいなのがあるんですよ。

Y さっき言ってたお話だと、複数の人との関係が同時並行で起きてる感じがして。そのへんがどうなってるんだろうと。

T まあよくある、クズバンドマンって感じです。しかも度胸があれば好きな女の子を口説いたりとかできたはずなのに、そういうのはできなかった。

F じゃあさっき言ってた、向こうから来てくれるような子で。

T まあ、知り合うことでこっちが「ちょっと遊びにおいでよ」みたいな感じで誘ったりできるじゃないですか。そういうのから、ズルズルみたいな。だから結婚したんですけど、正式に付き合うのも嫌で、結婚するのも嫌だったんですよ。社会の枠組みに決められた謎の関係みたいなものに「はぁ?」って思ってたんですけど。当時ちょうど僕がどん底で、自分のバンドもレコーディングしてる途中に僕が飛ぶ感じで潰してしまって、誰にも連絡を取ってない状態になった時があった。でも、その子はまだ付き合ってくれてて。で、彼女が「引っ越したい」と。オーストラリアか、北海道か、別れるかっていう選択肢を言われて。

F オーストラリア?

T オーストラリア。か、北海道か、別れるかって言われて。その子に本気で惚れてるとかじゃなかったんですけど、単純に一人になるのが寂しくて。すがるような気持ちで別れたくなかったんだと思うんですけど、結局北海道を選んで。

〈バンドマン時代〉



仕事の話、その2(北海道農家編)

T 英語も喋れないし、オーストラリアに連れてかれても何もできないなって。いま思えば、それ以降にお前の人生で海外で暮らすタイミングなんか二度と現れないから行っとけよ、って思うんですけど。それで、その人と結婚して北海道に行った。彼女との関係には、なんかそういう勢いがあったんですよ。別に自分の意志で行ったわけじゃなくて、ついて行っただけですけど。で、結婚した時だけ一瞬丸く収まるんですよ。

F それは、精神的なことが?

T いや、僕が幸せとかじゃなくて周りがですね。今まで僕のことを汚いものを見るような目で見てた人達が、結婚した瞬間にちゃんとした良い人みたいに見てくれる。親とも一瞬仲良くなるんですよ。

Y 認められることとかになるんですかね?

T そういうのもあるんですけど、怖いなと思うのが、結局親がそうするのって僕がどうとかじゃなくて自分達のためだから。かたちだけ両親に報告して、お互いの両親を会わせてとか、そういう気持ち悪いことを必死で耐えながらやって、北海道に行って。結婚が上手くいってるあいだは、無機質ではあるけど、それまでのことが嘘のように父親と母親との関係も良好になるっていう。僕の人生にも一瞬そういう時期がありました。でもそれは僕を認めてくれてるんじゃなくて、結婚してる僕らのかたちを認めてて、むしろ奥さんがいなかったらもとの僕に戻るから意味がないんですよ。親のそういう手のひらを返す感じとかも気持ち悪いな、と思ってましたけど、まあその時は平和だった。

F なぜ北海道だったんですか?

T オーストラリアも北海道も、奥さん───後に別れるんですけど───が留学してたからですね。大学が北海道で、オーストラリアは留学先だったから。僕とは全然性質の違う人と結婚してしまったんです。もう真逆なんですよ。すごい自分の好きなものははっきりバッって言って、それしか見ないような。僕はそれまでマニアックな映画が好きで、借りてよく見てたんですけど、一切そういうものは見れないんですね。災害パニックものしか一緒に見れない。竜巻が来たりするような映画を好んで見る人だったから。それだけ全然性質が違うけど、僕はもうついていくみたいな感じで。要は自我が潰れきってた。自分に自信がなくなって、今まで好きだった本とかそういうものも一切手放して北海道に行ったんです。あの時に、「引っ越すから全部売ってね」って言われた。処分してって言われたレコードとか漫画とか、今はめっちゃ後悔してますよ!あれはとっとけばよかった…。

Y 「売ってね」、なんですね。

T そこに関しては冷たかったですね。自分がそういうものは分からないし…コレクションとかをしてないから。僕は4畳半全部が本棚で、寝るところ以外びっしり何もかも全部モノ、みたいな環境で生きてたんで。

Y 奥さんの方も、奥さんなりに変わって新しく始めようという感じはなかったんですか?

T 僕に比べたらめちゃくちゃコミュニケーションもできる人で、職場では誰にでも可愛がってもらえるタイプだったんで、一見明るい子なんですけど、彼女もそれなりに闇を抱えてて。人とめっちゃ仲良くしてると思ってたら、その関係をグチってたりとかする子やったんですね。結構ダークな部分を持ってて、「もうこんな街見たくない」っていう部分もあったんだと思います。

Y 向こうは向こうであった?

T 向こうは向こうであって、一緒についていった。それがなかったら今の僕が存在していないと思うくらい良い経験だったんですよ。そこで自分の人生がだいぶ変わったっていうか。結果的に離婚はしたけど、奥さんから教わったことの多さはあります。結婚して北海道に行ってから、年間で2日くらいしか一緒にいない日はないくらい、職場も同じだからずっと一緒だったんです。

F 職場は?

T 僕は田舎暮らしとか農業に憧れてるヤツってダサいと思ってたんですよ。だからその時も全然いいと思ってなくて、憧れも楽しそうというのもなかった。でも、北海道行ったら林業は衰退してて。山は好きだったんですけど、それはダメで。で、漁業は濡れるから寒そうだと思って。それで結局、農業しかなかった。

F  第一次産業から選ぼうとはしてたんですね(笑)。

T それは、奥さんの要望もあったんだと思います。農地だから大自然ではないですけど、奥さんは僕みたいにひねくれてないから、北海道で農業をやるみたいなのに憧れてたみたいで。それまでは、味噌屋やゴミ屋とかって多少は変わった仕事だったけど、僕は20代はモヤシみたいな感じだったんです。土を触ったりを率先してやりたいと思ってなかった。だけど全然毛色の違う仕事になったのが、自分の人生においてはすごく良かったなあと。それまでは、それこそ夏も長袖を着て日焼けもしたくなかったんです。


F 農業って、いざ始めようと思っていきなり自分でやれるものではないですよね?

T じゃないです。北海道って後継者に困ってる農家さん、零細農家さんが結構いて。後継者候補っていうのがあるんですよ。

Y それは行政とか募集してて?

T そうです。道庁が、そういうベテランの農業について詳しいおっちゃんみたいな人を窓口にして、大阪とかで相談会みたいなのを定期的にやってて。それに行った時に───後から考えたら、ああ…って感じなんですけど───「君たち素晴らしい夫婦だね!君たちならできるよ!」みたいな感じで迎えられて。おっちゃんに気に入ってもらって、一発オッケーみたいな感じだったんです。で、面接もなくいきなり決まって、会ったこともない農家さんのところに放り込まれたんですよ。

F じゃあそこで後継者育成みたいな。

T そんなスクール的なものは全くなく、農業の予備知識も一切なくいきなり連れてかれて。実際に現地に行って、一応自治体や行政の人たちもそれに噛んでるから、古いボロボロの家とかに安く住ませてくれるわけですよ。最初に住んだ家は、大昔の公営住宅みたいなところで。全部で5部屋ぐらいあって、月5000円で住めたんですけど、ほんとに一緒に来てた行政の人も顔をしかめるような家やったんですよ。長年管理してないから開けてなくて、壁が臭かったり汚いところも色々あったし。で、ストーブっているじゃないですか、北海道は。

F そこはもちろん。

T ついてるんかなと思ったらなかったんですよ。

F 死にますよね(笑)。

T そうね(笑)、雪もまだ残ってるぐらいの時期に行ったから。それで当日に7万円ぐらい出して、北海道仕様のでかいストーブを買わないといけなくて。えー…てなった上に、人でも殺したんかっていうくらいにお風呂が汚くて。家が廃屋みたいなところで、いきなり風呂を開けたらボロボロで、さすがに女の子だから僕よりも奥さんの方がめっちゃヘコんでて。北海道の行政の人も、自分がそういうところを斡旋されて、住みたいと思うかどうかっていう単純な感覚が欠落してて、全然何もしてくれてなかったんです。もう行ってしまってるし、そこから「こんなのおかしいですから別のところを用意してください」とも言えないし。それで、お風呂だけは入りたいし車で近くにある温泉に行ったら、終了時間には間に合ってるのに、もう終わりだからって言われて(笑)、入れてもらえなくて。初日めっちゃショックで、奥さんは黙り込むぐらいだった。それぐらい適当なんですよ、行政って。

Y いきなり大変な…。

T で、翌日来られた農家さんがめっちゃ怖そうなおっちゃんで。ご夫婦で畑をやってる、その方たちと一緒に仕事し始めてたんです。それで、そこからは結構楽しかったんです。お父さんも怖かったけど、乱暴に扱われるようなことはなかったんで。単純に初めてやることがめちゃくちゃ楽しくて、農業なんてやったことなかったし、面白いなって思いました。その時はめちゃくちゃモチベーション高かったんですよ。だから、変な関係ではあったけど楽しめて、お父さんも結構クセ強かったけど、割と仲良くやってました。いま思えば、研修中は給料半分とか、なんか色々アレなところはあったんですけど。

Y もう始まってしまったものはどうしようもないし…。

T 休みも1ヶ月に1日しかなかったんですよ。

F キツい。

T でも、そういうところで働いてて月に1日しか休みはないけど、その1日も他の農家さんに見学に行くぐらい楽しかったんです。夫婦二人で仲良くやってたし、楽しんでました。けれどそれは本当に一瞬で、1か月半ぐらいでそのお父さんが畑で死ぬんですよ。

F えっ!?

T 昔の人だからタバコはめちゃくちゃ吸うし、酒も浴びるほど飲むから、循環器が悪くなってたと思うんですよ。大動脈解離※22って、太い血管が縦に裂けて内出血するみたいなのになって、それでも搬送先がなかなか決まらないから、たらい回しになってるうちに死んじゃって。それでまた、その農家が結構大きい農地をやり始めたところだったんですよ。ハウスだけでも13棟あって。しかもこっちの本州の規模じゃないんですよ、めっちゃデカい。田んぼだってもう、めちゃくちゃデカいんですよ。

Y ノウハウがないと絶対回せない?

T 出戻りの娘さんとか何人か手伝う人はいたんですど、お母さんはお父さんの言うことに従ってるだけで、お父さんしかノウハウを持ってなかったから困り果てたんですよ。葬式とか法事が終わるまでは僕ら夫婦が2人で全部やらないといけなくて。かぼちゃを4町作ってて、4町って言ったら、もう地平線までかぼちゃ(笑)。

F あの、単位が初めて聞く単位で(笑)。

T 一反(いったん)がセンチだったら、一町はキロメートルみたいな感じで、北海道だからめっちゃデカいんですよ。もちろん機械に乗って作業するんですけど、あまりにも作物の種類が多くて。小豆、大豆、小麦やら米、トマト、ピーマン、とにかくいっぱいやってて。これから教わろうと思ってたのに、いきなり死なれて。本当にまだ仕事に慣れたぐらいの段階だったんです。でも、その家族は葬式とかしないといけないから、むしろ僕らは畑を重点的にやらなきゃいけなくて。農協の資材課の人とか、あらゆる近所の農家のおっさんとか、お父さんと仲悪かったような農家さんにも頭を下げて頼みに行って(笑)、どうしたらいいですか?って聞いて。それで色々教えてもらって、なんとか乗り切ったんですよね。

F 凄い…。

T 多分それは、僕のそれまでの人生で一番頑張ったんですよ。

F その期間は2、3ヶ月とかですか?

T 亡くなってから数ヶ月間です。僕らがリーダーでやらなきゃいけなかったですね。

F 収穫までの1シーズンということですか?

T そうです。それがね、どんどん厄介なことになっていくんですよ。なんか、そもそもお父さんが招き入れてたヤツらがいて。本来なら収穫した作物は、農協に全部出荷すればよかったんですけど、商社を一部入れてたんです。その商社がまたね、ヤクザみたいな商社で。田んぼとか畑、黒塗りのベンツで来ます?

F 分かりやすい(笑)。

T オッサン2人で来るけど、人相もめっちゃ悪い。安く買って東京のスーパーに高い値段で売ってたと思うんですよ。そいつらが、僕らが育てている野菜の品種を開発した、どこかの大学の先生を連れてきてくれて、その先生から色々教わったりもできたから、少しはプラスもあったんですけど。おそらくそれも最新の美味しい品種を作って、それを東京のスーパーに流すビジネスだったと思います。もうね、そのお父さんが亡くなってから、完全にそいつらが牛耳りはじめたんです。

Y 会社をですか?

T そうです。出荷したりとかの売買や、肥料が欲しいとか言ってもそいつらが持ってくる。全部です。だから僕らが中心でも畑ができたのかもしれないですけど。最初はそんなに悪くなかったんですけど、段々ほんとに乗っ取りみたいになってきて。で、もうお母さんがブレブレだった。お父さんの言うことだけを聞いてて、かといって僕らには頼りたくない。だから結局その商社になんとかしたいと申し出たんです。もう私はやる気がない、このまま続けていけないから畑はたたみたい、という感じで。僕らにやらせてあげたいっていう気持ちは全然なくって、商社の言うことばっかり聞くようになって。で、一回ちょっと修羅場みたいなのがあったんですけど、僕らが若干聞こえるぐらいの距離で、「あの子らは研修やから、給料は半分でいいから使ってあげて」みたいなことをその商社に言ったんですよ。それで僕はブチ切れて、「もうやめます」と。で、そのあと結局お母さんが、「そんなん言わんとお願い」みたいなかんじで泣きついてきて。だから僕は、「その商社は追っ払います」と言って。あれ、タチ悪いですよって。とりあえずその人らとの縁を切った。実際に後で評判を聞いたら、めちゃくちゃヤバかったです。

Y ええ…。

T でも、今度から別の手段で売らないといけなくなった。それでまた結構苦労したんです。農協出荷に一部切り替えるのもやったんですけど、農協出荷はもともとその農協が部会───トマトだったらトマトの部会とかがあるんですけど───そういう部会でやってるような品種じゃないと規格としては売れないから、規格外の自由出荷みたいな感じで扱ってるものとして、

F すみません、基本的に農家さんの販路としては、農協に一度集約して売るっていう販路と、個人でスーパーとか料理屋さんに直で売るっていう両方がある、ということですか?

T 両方あります。自分で売れる人は賢いから、例えば飛行機で送ってでも売れるみたいな品種をやってる人もいます。

F マンゴーとか?

T そうそう、そういう高級な野菜や果物を扱ってたりする。イチゴも単価が高いから、そういう販売ができたりします。そういうふうに自分のところで「〜農園」みたいな看板を出してブランド化して、東京から買い求める人がいるような、商売上手な農家さんとかはそういうことをやってる。だけど、普通の人ってそんなに販路開拓できないので、農協への出荷に基本は依存してる人が多いですね。でも、農協出荷も年々やっぱり価格競争で安いものしか売れないみたいになってきていて。それこそ本当に農協がやってる部会の規格に、ピッタリ優等生で出して、それなりに儲けている人もいるんですよ。だけど腕がない農家さんとかだと、きちんとその規格に合わせられないから。

F その規格って大きさとか味とか、かたちとかですか?

T そうですね、やっぱり見た目と味が揃っていないと高くは買ってもらえないです。

F 基本的なことだと思うんですけど、聞いていいですか?じゃあまず、北海道だったら北海道の農協に行って、そこから大阪だったら中央卸売市場※23とかの大きい市場に来て、それで一般の八百屋さんに捌かれていくっていう販路であってますか?

T そうです。まず農協って、もともとは農家の団体なんですよ。でも農協の仕事で一番利益があるのって金融なんですね。金貸しでもあるので。農協って、もともとは理想を求めて作られた団体だけど、今はもう完全にただの金貸しなんですよね。Jカードっていうのがあって、その年いるものとか全部それで買えちゃうんですよね。だから結局金貸しにうまいこと踊らされて、抜けられなくしているみたいなところはあるんです。

F 大昔の話で言うような、幕府や領主が最初の米を植える分を貸してっていうシステムが、お金に変わってるような。

T そういう仕組みだけど、やっぱり良くない方向に転がりがちなんですよね。豪快にお金を使って、当たればそれなりに入る年もあるけど、ハズレて借金ばっかりになる人もいますし。本当に忠実に経営してる人ならそこまでにはならないけど、普通の農家さんでもなかなか難しいんですよ。景気も悪くなってきていたし。だから、野菜を作る技術はあっても販売する能力が低い人は結構多いから、そこにツケ込んでくるのがさっきの都会から来る商社だったりする。結局その商社に出て行ってもらってしばらくは働いたんですけど、やっぱりこんなとこにいたらダメだって思ったんですよね。

F その一件に関しては、農家のお母さんからお礼は?

T 特にないですよ(笑)。僕らもその一件でお母さんに対して不信感を持ってしまったし。親切にはされたけど、やっぱりどこかで軽はずみな感じが。

F 節々に出てる感じで。

T そうです。僕らのこともそんなに考えてないし、自分らのことばっかり考えてるっていうのもありました。でも、世話になったし迷惑もかけたくないから、収穫になってある程度一巡して、最後にカボチャを収穫し終えて───キュアリング※24って言ってちょっと暖かいところにしばらく置いたらカボチャって甘くなるんです───それをした後に出荷するんですけど、そのあたりの作業まで一通りやって。あとは近所のおっちゃんが機械でやってくれたりとか、親戚の人もさすがにそういう状況だから手伝いにちらほら来はじめたんですけど。またその親戚も全然手伝いに来ないヤツが、なんか機械もらえるっていう時にだけ来て、そういうの見ててほんとに浅ましくて嫌だなと思って。また、僕らも自分たちがやりたい農業っていうのは別だなと思った。向こうの地平線まで耕さないといけないような、工場みたいなことをやりたいと思っていなかった。その忙しいあいだも、1ヶ月に1回休みはあったんですけど、その1日の休みで遠方までおもしろそうな農家さんを訪ね歩くことをやり始めてたんです。で、いるんですよ、めっちゃおもしろい人が。

F システム化された、効率重視の農業をやろうとは思わなかったってことですね。

T そうそう、人手もいるし。こぢんまりとやりたいと思ってたから、そんなんじゃない。あえて競争率の高いような誰でも作れる作物を、皆んなでこぞって作るってしんどいなと思って。

F 誰でも作れる野菜っていうのは、例えば?

T 簡単っていうわけでもないんですけど、例えばキャベツとかも値崩れして出荷したら、もう全部赤字ですし。

F それは、重いしデカいから?

T それもあります。トラクターで畑に野菜を捨てていて、勿体無いみたいなシーンって、テレビで見るじゃないですか。でも、もしあれを流通させてしまうと本来売れるはずのものが値崩れするから、結局あれは背に腹はかえられない決断なんです。

F 需要と供給を調整するために。

T そうそう。で、よくそういうフードロスみたいな人が、農家さんの売り物にはならない野菜を無償で配るみたいなことをやるんですけど、それをやることでもやっぱり値崩れしてしまう。農家さんも食っていけなくなるから。

F それがその求めてる人に行き渡っちゃったら、結局農家さん自身が大変になる。

T そこらへんで毎日かたちの悪い玉ねぎをタダで配ってたら、スーパーでみんな買わないでしょ。そうなると、タマネギ農家さんが潰れちゃうから良くないなっていうのはわかりましたし、本当にそれぐらい切実な世界なんですよ。僕らがやってたトマトとかも人気がある食べ物で、野菜の中では割と高く売れる方ですよ。だけど、商社との関係がダメになったから「農協で売らせてください」って言って行き始めたんですけど、計算したら箱代が出なかったんですよ(笑)。

F 箱代の方が、その中に入れてる量の卸価格より高くなるってことですか?

T そうです。せっかく詰めても結局箱代も出ないから、やる意味がない。それは信頼の問題もあるんですね。その年にポッと持っていったって、信頼はないですから。まあ大して美味しくなかったし。要は商社が使ってた品種って、東京まで日持ちがする品種だったんです。見栄えは悪くない、色は赤くなりやすい、日持ちもする、だけど別に美味しくないっていう品種だったんで。まあ売れないですよね。だから、結構苦労しましたよ。あんなお金のことを考えてたのはあの時だけちゃうかな?でもいい経験になったんですよ、こうやってお父さんお母さんの周りの親戚が頼りなかったことで、僕らに責任がのしかかってきて。意外と舐めてたけど、田舎暮らしも農業も憧れてなかったけど、やり始めるとおもしろいんですよね。それでハマって、めっちゃ勉強して、色々な人に教えてもらって。

F なんというか、これまで知らなかったことが知れるっていうのと、野菜を育てるのって、やったことの影響が明快に見えるじゃないですか。それは何かありそうですよね。

T そうそう。それまで僕は何も成し遂げたことなかったし、そもそも何もできたことがないんですよ。当時まで本当に何にもできなかったんです。買い物に行っても自分は財布を持たなくて、奥さんが買い物してくれる。「僕、これ欲しいです」って渡して、奥さんが買うみたいな感じだったんですよ。自分って何もできない人間だと思ってたけれど、この野菜は結構うまく育った、とかって嬉しいし。で、それを後押ししてくれたのは近所の農家のおっちゃん達で。心配してやっぱり色々と教えてくれるんですよ。めちゃくちゃそれに世話になった。人生の師匠たちに囲まれてたから。そのおかげで、例えば簡単に畑をトラクターで耕す方法とか、ビニールハウスの組み方とか、野菜の誘引の仕方とか芽かき※25の仕方とか、収穫の仕方とか、箱の詰め方とか、全部教えてもらった。更に、「農家っていうのはあらゆる仕事をせなあかんねやぞ」って言って、壊れたハウスの修理とか、水道管を新しく引っ張るとか、下水管を掘り返して直すとか、電気工事したりとかっていうのを、全部その近所のおっちゃん達に教えてもらいました。僕はずっと何もできない人だったから、今こういう仕事できるのは、全部北海道で農家のおっちゃんらに教えてもらったのがきっかけです。自分は何もできないと思ってたけど、コツコツやったら出来るようになるんだっていう成功体験が。遅すぎますけどね(笑)。

F いや、全然早いですよ。

Y 20代ですよね?

T 30手前でしたね。本当に今でも感謝してるんです。あのおっちゃん達に色々なところへ連れて行ってもらったし、トラクターの運転とかも「不安だったらそこで練習したらいいでや」って言って、自分のトラクターに乗せてくれて。そのトラクターでバックしたときに、ハウス壊してしまったんですけど(笑)。それでも怒らないんですよね。見た目は怖いおっちゃんばっかですよ、全員。ベロベロに酔っ払って、帰りにトラクターで畦道に突っ込んだりしてるようなおっちゃんだけど、でもいい人でしたね。

F でもまあ、二軒、三軒となりぐらいの農家さんで親父さんが死んだらしい、ヨソから来た若いもんが一人で困ってたら、助けてはくれそうですけどね。

T まあそれはね。本当に僕もすがるような気持ちで、これがわからないんで教えてくださいって、何回も訪ねて。で、そこのおっちゃんだったり、その奥さんだったりとかに、色々してもらって。死んだお父さんって、周りの農家さんと敵対してたり、すぐ隣の農家さんとかはもう全然口も聞かなかったんです。だけど亡くなってからは、隣の農家さんと仲良くなってきて、めちゃくちゃお世話になりましたね。トラクターのパンクの修理とかも全部教えてくれた。僕、自転車のパンクも直せなかったのに(笑)。

(2023年5月7日)





○注釈

※1 KOBE Re:public ART PROJECT
https://koberepublic-artproject.com/

※2 西村さん:西村周治(にしむらしゅうじ)。西村組組長、廃屋ジャンキー。2020年ごろに結成された有機的な建築集団、西村組。「無理をしない」「素人がつくる」「屋根が落ちてからが本番」を合言葉に日々廃屋と向き合う。 

※3 兵庫県芦屋市:兵庫県南東部に位置する市。
https://ja.wikipedia.org/wiki/芦屋市

※4 「じゃりン子チエ」:はるき悦巳による日本の漫画作品。また、それを原作としたアニメ、舞台など派生作品の総称。
https://fr.futabasha.co.jp/chie/

※5 吉本新喜劇:日本の芸能事務所、吉本興業に所属するお笑い芸人によって舞台上で演じられる喜劇、およびその喜劇群を演じる劇団 
https://shinkigeki.yoshimoto.co.jp/

※6 兵庫県尼崎市:兵庫県の南東部に位置する市。中核市および中枢中核都市に指定されている。
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/
 
※7 六アイ(六甲アイランド):塚原さんが通っていた専門学校の名称。現在は、「専門学校 アートカレッジ神戸」と名前を変えている。
https://www.art-kobe.ac.jp/

※8 プログレッシブロック:1960年代後半のイギリスに登場したロックのジャンルの1つ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/プログレッシブ・ロック#:~:text=プログレッシブ・ロック(英%3A%20Progressive,な略称は「プログレ」%E3%80%82

※9 沢田研二:日本の歌手、俳優、ソングライター。ザ・タイガース及び、PYGのボーカル。
http://www.co-colo.com/

※10 タイガース:日本のグループ・サウンズのバンド
https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・タイガース

※11 GS(グループサウンズ):欧米におけるベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループの影響を受けたとされる音楽スタイル。1967〜69年にかけて日本で大流行した。
 
※12 ジュリー:沢田研二のニックネーム

※13  北島三郎(きたじま さぶろう):日本の演歌歌手、俳優、ミュージシャン、馬主。
http://www.kitajima-music.co.jp/sabu/

※14 ウォークマン:1979年7月1日からソニーが販売しているポータブルオーディオプレイヤーシリーズ。ウォークマンの登場によって「音楽を携帯し気軽に楽しむ」という新しい文化が創造された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォークマン

※15  与作(よさく):1978年に発表された日本の歌謡曲。最初の歌手は弦哲也。その後北島三郎や千昌夫などの歌手によるシングルが発売されている。

※16 紅白歌合戦(こうはくうたがっせん):アーティストを紅組と白組に分け、対抗形式で歌やパフォーマンスを披露する大型音楽番組。大晦日に放送。日本を代表する人気歌手をはじめ、ヒット曲で人気を集めたアーティストが多数出演する。

※17 ゆく年くる年:NHKで、1955/1956年からの毎年12月31日から翌1月1日に生放送されている年越し番組。
https://www.nhk.jp/p/ts/QN33Z43GYQ/

※18 被差別部落(ひさべつぶらく):詳しくは以下wikiを参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/部落問題

※19 パッカー車:車両に投入したごみを自動的に荷箱へ押し込み、圧縮する装置を持った機械式のごみ収集車の名称。 パッカー車という名称の由来は、英語で「詰め込む」を意味する「pack」からきたとする説が有力。

※20 南方熊楠(みなかた くまぐす):日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/南方熊楠

※21 麹室(こうじむろ):麹造り専用の部屋の名称。

※22 大動脈解離(だいどうみゃくかいり):大動脈を構成する内膜、中膜、外膜のうち内膜が破れることによって中膜に血液が入り込む状態。

※23 中央卸売市場(ちゅうおうおろしうりいちば):大阪市浪速区にある民営の卸売市場。
https://kizu-ichiba.com/

※24 キュアリング:本来は「治療」という意味でサツマイモやカボチャでは広く行われている。 貯蔵中に切り口から病原菌が入るのを防ぐため、果柄部の切り口を乾かすことにより菌の侵入を防ぎ、果実の腐敗を防ぐ処理。

※25 芽かき(めかき):目的とする収穫物や栽培方法に適していない不要な芽を取り除くこと。